「あの時の、あたしを見ないあーくんを見て、ああ、あたし本当に死んじゃってるんだって悟った。そしたらさ、色んなこと思いだした。トラックが……あたしにぶつかったことも。救急車で運ばれて、でもそのまま死んじゃったことも」
「美月ちゃ……」
「酷いよねえ。あたし、まだまだこれからなのにさ。峰不二子みたいな超セクシーな美女にだって、漫画家にだって、何にだってなれたのにさ。あっさり死んじゃうんだもん。ほんと、酷い」
頬をゆっくりと掻いて、彼女は力なく言う。
私は何も言えなかった。
何を、言えるだろう。
私たちは同じところにいて、同じようにトラックにぶつかった。
私は少しの傷で済んで、美月ちゃんは命を落とした。
私たちの生死の境目なんて、きっと大きな差はない。
運、と呼べる程度のものだっただろう。
そんな私が、彼女にどんな声を掛ければいいと言うのだろう。
布団の端っこをぎゅっと握りしめていると、彼女がぱっと明るい顔つきになった。
「でもね、そんな時に陽鶴ちゃんに気づいて、嬉しかった! あたしのこと見えてる人がいる! って」
「……ああ、うん」
「あのとき、すっごく嬉しかった。真っ暗な世界で、唯一の光……そんな感じだった!」
美月ちゃんは嬉しそうに笑って続けた。
「でさ、陽鶴ちゃん、気を失ったじゃない? で、お姉さんたちが慌てて式場から連れ出してたんだよね。あたし、陽鶴ちゃんと話したいと思ってついてきちゃったの」
自分の姿を見ることのできた私となら、会話もできるはず。
そう考えた彼女は、ワタルさんの運転する車に同乗して来たのだそうだ。
しかし、待てど暮らせど私は目覚めない。
「ずっとここに居座るのも申し訳ないし、陽鶴ちゃんが寝ている間に、家に帰ったりあーくんにもう一度会いに行ったりしてみようとしたんだ。
もしかしたら、見えるようになってるかもしれない、なんて期待があったし。
でも、それが出来なかったの。
陽鶴ちゃんから離れようとこの部屋を出たら、そこから先に進めなくなっちゃうの」
「進めない?」
「うん。体が引っ張られて、一歩も踏み出せなくなっちゃうのね。
どういうわけだか、あたし、陽鶴ちゃんから離れられないみたいなんだ」
彼女はひょいと肩を竦めて言った。
「は。あ」
「でね、仕方ないから、ここにいたのね。
あ!
あたしね、物を触ったりできないから部屋の物は何も触ってないです。
もちろん、引き出しの中とかも見れないし、ていうか見ないし。そこは大丈夫、安心して」
「いや、まあ、うん。それは、いいけど」
「で、陽鶴ちゃんが寝ている間に一人でずっと考えてたんだけど、これってさ、あたしが陽鶴ちゃんに憑りついたってやつなんじゃないかなあ、って」
かわいらしく小首を傾げて言う彼女に、「おう?」と奇妙な声が出た。
なんか今、おどろおどろしい単語が出ましたけど。
少しだけ動揺した私に気づかずに、美月ちゃんは続ける。
「だって、そうじゃない? あたしは今『幽霊』ってやつで、そのあたしが陽鶴ちゃんから離れられなくなってるわけじゃない。憑りついたってやつだよ、きっと」
「はあ」
腕組みをして、うんうん、と一人で納得した様子で頷く美月ちゃん。
それから、彼女は居住まいを正すように、その場に正座をした。
といっても、やはりフローリングから僅かに浮いているのだけれど。
「美月ちゃん? どうかした?」
「あのさ、陽鶴ちゃん。あたし、これからどうしたらいいんでしょう?」
彼女が妙にかしこまって、私に聞いた。
「え?」
「あたし、どうしたらいいのかな。教えて」
「教えて、って……」
私は目の前の彼女を見つめ返すことしかできなかった。
今の私は状況に驚きすぎていて、色んな感情がないまぜになっていて、正直に言うと動揺しまくっている。
頭の中の整理ができていない。
そんな中、どうしたら、なんて訊かれたって答えようがない。
返事に困っていると、美月ちゃんが口を開いた。
「あの……お願いなんだけど。お払いとかは、勘弁して欲しいんだよね。
あたし、恐怖特番とかでそういうシーンを何回か観たけど、あれってすっごく怖いし、霊の側はめちゃくちゃ苦しんでるじゃない?
ただでさえ死んじゃった訳だから、そういう辛いのは、避けたいなあって」
美月ちゃんはぶるぶるっと体を震わせる仕草をした。
「だ、大丈夫。そんなことしないよ」
私も観たことがあるけれど、ああいうのって悪霊と呼ばれる類のものがされていたはずだ。
それに美月ちゃんが当て嵌まるわけがない。
「ほんと? よかったあ」
美月ちゃんが肩で大きく息をついた。
胸をなでおろしているところをみると、本気で『お祓い』を怖がっていたらしい。
「しないよ、そんなこと。するわけがない」
「ありがとう! でもさ、さっきも言った通り、あたしは本当に陽鶴ちゃんから離れられないの。
せいぜいが、この部屋から出るくらいの距離しかとれない。
そういうの、嫌でしょ? 幽霊なんて怖いだろうし……気持ち悪いよね」
彼女の顔つきが少し暗くなる。ほんとごめん、と言って私に頭を下げた。
「陽鶴ちゃんに付いていかなければよかったんだ、ってすごく反省してる。あの時あたしを見て、気を失うくらい怖かったんだよね。それなのに、憑りついてるなんて、さ……」
うなだれた美月ちゃんを見て、慌てた。
「ち、違う! 気持ち悪いとか、怖いとか、そんな気持ちはないよ! ただ、本当に驚いたの。だって、こんなこと、常識じゃありえないんだもん!」
それは本心だ。
だって、怖いと思うには美月ちゃんは余りに生身じみていて、そして可憐に可愛いのだ。
彼女が幽霊であるとして、気味悪いとか考える人間は決していないだろう。
「驚いただけ、びっくりしただけなの。だから、そんな風に言わないで。美月ちゃんを見て、嫌だなんて思うわけないじゃない!」
まくし立てるように言うと、美月ちゃんが大きな目をぱちくりさせた。
艶やかな唇が「ほんと?」と動く。
私は、嘘でないことの証にコクコクと何度も頷いた。
そうすると、美月ちゃんがいつものひまわりの笑顔を浮かべてくれた。
「だったら、すごく、嬉しい」
「ほんとだよ。本心だよ。だから、大丈夫」
「よかったあ。あたし、陽鶴ちゃんに拒否されることも覚悟してたんだ」
美月ちゃんの肩から、力が抜けた。それから、深々と頭を下げる。
「ありがとう。あの、あたし、陽鶴ちゃんから離れられるように頑張るので、少しの間、一緒にいることを我慢してください」
「我慢なんて、そんなことないよ」
彼女と一緒にいることを、そんな風に思うものか。
ただ、どうして私なんだろう、とは思う。
だから、私はそのことを美月ちゃんに言ってみた。
「うん、そうなんだよね。例えば、あたしに思い入れのある人、という条件なら両親やあーくんになると思うの。でも、三人ともあたしが見えなかった。
あたしのことが見えたのは、陽鶴ちゃんだけ。
で、陽鶴ちゃんとあたしの特別な繋がりを一生懸命考えたんだけど、他の人には無くて、陽鶴ちゃんにだけある、って条件は思いつかないんだよね」
顎先に手を添えて、考えながら言う美月ちゃんに頷く。
「……うん。そうだよね」
「他に思いつくのは、陽鶴ちゃんが霊感持ち、っていうの? そんな能力があるか、なんだけど」
チラリと私を見た美月ちゃんに対して、首を横に振る。
「ない。今まで霊的経験なんて、したことがない」
祖父母が亡くなった時も、愛犬のラブリが亡くなった時も、死後の邂逅みたいな特殊イベントはちっとも起きなかった。
心霊体験と呼ばれるようなことは、生まれてこの方一度も経験していない。
霊感と言われるような特殊能力は、残念ながらありません。
「ふうん、霊感なし、かあ。それが一番有力かなあって思ってたんだけどなあ」
はあ、と美月ちゃんはため息をついた。
「もしそうなら、あたしにこれからのアドバイスをくれるかも! とか期待してもいたんだよね。上手く行かないなあ」
「これからの、アドバイス?」
訊くと、美月ちゃんはこくんと頷いた。
「どうしていいのか、本当に分かんないの。でも、このままはよくないよね。だって私、成仏できてない浮遊霊とかっていうやつだよね」
ふむ、と私も考え込む。
確かに、一般的には死者は成仏して、あの世と呼ばれる世界へ旅立つはずだ。
そうして、罪を償ったり、はたまたこの世に転生したりする。
太古の昔から、死後はそんなシステムであるという話だ。
それならば、美月ちゃんは間違いなく極楽浄土に旅立って、幸せに暮らすか転生するかに決まっている。
私から離れられなくなって、あげくに私のアホな寝顔をぼんやり見ている暇なんて、ないはずだ。
「うー、ん……。どういう不具合が起きたのかは分かんないけど、本来なら成仏するはずなのに、できてないってことだもんね……」
考えながら言うと、美月ちゃんが「そうなの!」と言った。
「あたし、こんな年で死んじゃったからもちろん未練はいっぱいあるの! 死んでる場合じゃないって思ってるの! 未練たらたらだから、こんな状態になったのかなと思ったんだけど。でもね」
「でも?」
「でも、未練なくスッキリ死ぬ人なんてそうそういないと思うんだ。みんな、心残りを抱えてると思う。
その人たちみんなが浮遊霊になってたら、この世界って霊が溢れかえっていてもおかしくないよね⁉
そして、それだけ霊がいたら、この世の中はもっと幽霊が身近になっているはずじゃない?」
頷いた。
それは、その通りだ。
何年、何十年、何百年もの時の中で、未練を抱えて現世に残った人たちなんて何人いるかしれない。
その人たち全員が、今も空中をさまよっているなんて、ありえない気がする。
「だから、あたしの今の状況ってやっぱりおかしいんだよ。
滅多にない事なんじゃないかな、って思う。
どうにかしないといけないんだけど、それはすごく分かってるんだけど、でも誰にも相談できないし……」
頬にかかった髪を一筋払って耳にかけ、美月ちゃんがため息をついた。
その不安そうな、泣き出すのを堪えているような顔に、胸がぎゅっと痛む。
命を落としてしまったというだけでも、受け入れがたいことだ。
『はいそうですか、分かりました』、なんて、どんな人だって言えないはずだ。
まず私だったら泣いて暴れて、発狂したかもしれない。
その上、誰にも姿を認めてもらえない『浮遊霊』みたいな存在になってしまっている。
不安に押しつぶされていて当然だ。
なのに美月ちゃんは冷静に、話をしている。
それってすごいことだ。
「一体、どうしたらいいんだろ。こんな宙ぶらりんな状況、怖いよ」
「……あの、さ。美月ちゃんは他の人たちにも未練があるって言ったけどさ」
美月ちゃんが私に顔を向ける。
「でもさ、美月ちゃんの中の未練や心残りが、やっぱり上手く成仏できない原因かもしれないと私は思う。ていうか、それ以外今は思いつかないな」
「……うん」
美月ちゃんが頷いた。
「だから、その心残りを少しでも減らしてみる、っていうのは、どうだろう」
考えながら言うと、美月ちゃんが「え?」と言う。その顔を見ながら続けた。
「思い残しを、少しでも減らそう。例えば、園田くんにもう一度会いたいとか、話をしたいとかさ」
「あーくんと、話……」
美月ちゃんの目が、きらりと動いた。
「そう。あとは、えーと、えーと。ああ、なんでもいいよ。
やりたかったこととか、したかったこと。
思いついたこと何でもしよう。私、協力するよ」
「え? 陽鶴ちゃんが、協力?」
「うん。美月ちゃん、私と一緒にいないと動けないんでしょ?
てことは、私も一緒に行動しないといけないんだよ、きっと。
私に、美月ちゃんに協力してあげなさい、って神様が言ってるんだと思う」
園田くんでも、両親でも、誰でもなく。
私だけが彼女を見ることができるというのは、もしかしたらそこに何かがあるのかもしれない。
私じゃないとできない何かがあるのかもしれない。
それなら、私は何だってしよう。
彼女の為に、何だって手伝おう。
「そんな。陽鶴ちゃんにそこまで、頼っていいの? 迷惑でしょう?」
美月ちゃんが申し訳なさそうに眉尻を下げる。
声はとても頼りなくて、不安げだった。
私はもそもそとベッドから降りた。
頭が少しふらついて、捻挫した足に鋭い痛みが走る。
それでもどうにか彼女の正面に座った。
「陽鶴ちゃん?」
えへへ、と笑ってみせた。
私の笑顔は、人の気を抜けさせるという効果がある。多分。
姉みたいに美人じゃないというのも、たまにはいいことがあるのだ。
「私が一緒に、何でもやる。だから、安心して。
美月ちゃんの不安、私が半分貰う。だから、大丈夫。
美月ちゃんは、一人じゃないよ」
もう一度えへへ、と笑うと、美月ちゃんがびっくり顔で見た。
それから見る間に、美月ちゃんの大きな瞳から綺麗な涙が溢れた。
頬を伝ったその涙は、彼女のスカートの上にパタタッと音を立てて落ちた。
「陽鶴ちゃん、ありが、と……」
「う、うわ! 泣かないでよ、美月ちゃん」
私は慌てて美月ちゃんに手を伸ばした。
しかし、触れる前にぱっと止める。
私の目には、美月ちゃんははっきりと存在している。
栗色の髪は一本一本煌めいているし、桃色のほっぺたは柔らかそうだし、ぎゅっと引き結んだ唇は僅かに震えている。
しっかり、見えている。
しかし。
彼女の頬を伝う涙を拭おうと伸ばした私の指先は、空を舞った。
正確に言えば、彼女の体を何の抵抗もなくすり抜けた。
「あたし、幽霊だよ? なんでもすり抜けちゃう。ほら」
泣き笑いした美月ちゃんが私の手を掴んだ。
けれどそれもするりとすり抜けてしまう。私の手を握る感覚は、ない。
「……そっか。やっぱり、美月ちゃんには触れられないんだね」
分かってはいたことだけれど、そうなんだろうと思っていたことだけれど。
それでも、ものすごいショックを受けている自分がいる。
もしかしたら、温かな彼女の肌に触れることができるんじゃないかと、微かに期待していたのかもしれない。
彼女は生きていると、期待していたのかもしれない。
いや、していたんだ。
だって彼女は、あまりにも鮮やかなんだ。
なのに。
「ほんとに、死んじゃってるんだね……」
言葉を絞り出すと、美月ちゃんが目じりに涙を残して笑った。
「今さら何言ってるの。陽鶴ちゃんったら、あたしのお葬式にだって来てたくせに、おかしい」
「ごめ……。だってあまりにも、美月ちゃんは美月ちゃんで、私の前にいるから……」
美月ちゃんが、私に指を伸ばした。頬に触れるか触れないかのところで、止まる。
「やだなあ。泣かないでよ、陽鶴ちゃん」
私の目からは、気づかない間に涙が流れていた。
「だ、って……」
声が詰まる。視界が滲む。
だって、死んでなんて欲しくなかった。
世界中の奇跡を掻き集めてでも、私は彼女に生きていて欲しかった。
だから、こんなの、認めたくない。
嫌なんだ。
「泣かないで。陽鶴ちゃん、疲れるとまた倒れちゃうかもしれないから、ね?」
「だ、ってぇ……」
「陽鶴ちゃんが泣いたら、あたしだって、また泣いちゃうから……」
美月ちゃんの目に、涙があふれる。
私の拭えない涙が。
「ごめ……、美月ちゃ……」
私たち二人は、触れあうことのできないまま、向かい合ってただ泣いた。
それが、私と美月ちゃんの、夏の始まりだった――。
『ねえ、彼に伝えて』
2.どうか信じて。どうか、伝わって