あの日のきみを今も憶えている

「私は、二人がまた笑い合えているところを見たかった。一緒にいるところを見たかった……!」


二人の間にはいつも私を幸福にさせる空気があった。

クリムトの接吻する恋人たちのように濃密で、
シャガールのヴァンスの恋人たちのように清らかで。

そして、どんな絵画の恋人たちよりも眩しい。

そんな二人を、私は本当に、ずっと見ていたかったの。
二人の前では、私はいつでも観覧者でよかったんだ。
馬鹿みたいに、子供みたいに泣きながら言う。


「だから、私は我慢なんてしてなかった。私は自分の気持ちなん、て……」


ふっと、口を閉じる。
美月ちゃんが、私の口元に手をあてた。
私と見つめあった美月ちゃんは、ぎこちなく笑う。


「きっと、そうなんだろうね。ヒィは、本当にそう思ってたんだ。すごく、わかるよ」

「ミィ! 分かってくれた?」

「でも、それは、今のヒィの感情じゃ、ないってことも、分かった」

「え……?」

「想いは、成長する。ヒィの想いも、おっきく育ってるんだよ」

「どゆ、こと?」


私に言い聞かせるように、「あのね」と美月ちゃんは言った。


「見てるだけでいい。見守るだけでいい。だけど、それだけじゃ満足できなくなるんだよ。好きが増えれば増えるほど」


言いながら、美月ちゃんが自分の胸を押さえてみせる。


「この辺りが痛くなるくらい、『したい』が溢れてくるんだ。話したい、笑いかけてもらいたい、触れたい、触れられたい、傍にいたい。そう、思っちゃうんだよ」


それから美月ちゃんは、私の頬に触れようとする。それはするりと、通り抜けた。
触れられない手を引いて、美月ちゃんが哀しく笑う。


「好きだって想いは、相手を求める衝動なんだよ。それは、もう抗うことのできない本能みたいなもの。だから、見てるだけで満足なんて、できるわけないんだ」

「そんなことない! 私は本当に……」

「……さっきのヒィの言葉、全部過去形だった」


ひゅ、と息を飲んだ。


まさか。

過去形、だった?
想いは成長するの?
私の想いは、姿を変えた?

見てるだけで良かったはずの想いが、変わったの?

まさかそんな。でも。


ざあっと、記憶が巻き戻る。

触れることも笑い合うこともなかった。
遠くから見てた。

だけど、目を見て話して、笑い合って。
触れて。

私は、観覧者から、出演者に、変わった?


「近づきすぎたの……? 私、園田くんに」


茫然とした私に、美月ちゃんが首を横に振る。


「ヒィのあーくんへの想いは、あの絵から溢れてた。こんなことがなくってもきっと、勝手に成長してたよ」

「そん、な……こと。そんなことない! だって、私今でも思うもん。園田くんの横にいるのはミィじゃないと、って! だから、違う。ミィの思い過ごしだよ!」

「思い過ごしじゃないよ。それに、いつか絶対にそう思うはずなんだ。だって、あたしがそうだったから。人を想う気持ちは、あたしも、ヒィも一緒だよ」


美月ちゃんの瞳に新しい涙が湧いた。


「ヒィが自分の想いを見ようとしなかったのは、あたしのせいだね。あたしが、ヒィに我慢させてた。それは、事実だよ」

「やめて! 本当に、我慢だなんて思わなかった。私は今でも、園田くんが幸せならそれでいいの! 園田くんが笑ってれば、それ、で」


私は、言葉を止めた。
崩れ落ちるように、美月ちゃんが倒れた。


「ミィ!」


膝を付き、顔を覗きこむ。
美月ちゃんは、目じりに涙を残してすうすうと寝息を立てていた。


「寝て、る……?」


涙をごしごしと拭きながら、様子を見る。

いつものピンク色の頬に、艶のある唇。
長い睫の縁取った瞳はそっと閉じられていて、そこには異変はない。
だけど、彼女はさっきまでの言い合いが嘘のように、穏やかに眠りに落ちている。


「なん、で? 嘘でしょ?」


今まで、話の途中に眠りに落ちることはなかった。
気が緩んだときに眠る、泣き疲れて眠る、そんな感じだった。
この状況で寝るのは、絶対おかしい。


「ミィ⁉ ミィ! 起きて!」


何度も名前を呼ぶ。
だけど、眠りに落ちた美月ちゃんを起こそうとするのは無理だと分かってる。
だけど、不安が募る。これはだって。


「何で? なんで、こんなに寝ちゃうの。これって絶対」


おかしい。
私の分からないところで、美月ちゃんに何かが、確実に起きている。


「タイムリミットが近いんだ」


声がして、顔をあげた。
そこには、穂積くんが立っていた。


「穂積、く……?」


どうしてここに?
穂積くんは大股で私たちの方へ近づき、私の腕を掴んだ。


「美月ちゃん、寝ちゃったんだろ?」

「う、ん。でも、何で」


何でここに穂積くんがいるの。
その問いは、最後まで口に出せなかった。

穂積くんが私の手を掴み、引き寄せる。
少しだけ汗の匂いのする胸に、いきなり抱き留められた。


「ほ、穂積く……ん⁉」

「グラウンドで、様子のおかしい君を見かけた。それを追ってここまで来て、そして話、聞いた。全部」

「……!」


聞かれた?
美月ちゃんとの話、全部⁉


「前に、一度訊いたよね。どうしてここまでするのか、って。あの時は、なんていい子なんだろうって思った。なんて、心の綺麗な子なんだろう、って」


穂積くんの胸元に顔が押し付けられる。


「でも、ここまでくると、馬鹿だよ。自分の想いを押し隠してまで、ずっと二人を繋げようとしてたなんて。一体どこまで、やるの」


私の体を抱く腕に、力が籠められる。
余りの強さに、息苦しさを覚える。


「君は、杏里と美月ちゃんさえ望めば命さえ差し出してしまいそうで、怖いよ」

「違う! 私はそんな……そんなんじゃない!」

「違うこと、ないでしょ。杏里が幸せならそれでいい、なんて言っておいて」


穂積くんは私を抱きしめる腕を緩めない。もがいても、ぴったりとくっついた体は離れることはなかった。


「ねえ、ヒィちゃん。今すぐ俺のこと見て。俺のことだけ考えて。俺は、君が好きだ。大好きだ」

「な……何言ってるの! 今、それどころじゃ」

「今だから、だ。俺のことだけ、考えて」

「ふざけないで!」


逞しい腕から必死で抜き出した手を振り抜いた。穂積くんの頬を打つ。


「こんな時にふざけないで! 美月ちゃんの様子がおかしいの! こんな風に話の途中で眠りに落ちることは、今まで一度も……!」

「……美月ちゃんが死んで、何日経ったと思う?」


頬を押さえた穂積くんが言った。虚を突かれて、言葉に詰まる。


「え?」


「美月ちゃんが死んで、今日で四十五日目だ」

「な、なに……?」


言っている意味が分からない。
だけど、なぜか怖い。
知ったらいけないことを、穂積くんは口にしそうな気がした。


穂積くんは、私を真っ直ぐに見ながら続けた。


「四十九日。
死者は、四十九日経ったら、行く場所が決まるっていう話、聞いたことない? もしそれが本当なら、美月ちゃんはあと四日しか、この世界に留まっていられない」

「は……?」

「この世界に弾きだされそうになっているから、眠る。そう考えたら、美月ちゃんの睡眠時間の度合いが増していることにも納得がいく。この世界から離れる準備なんだって」

「なに、言ってるの……」


声が震える。
膝をついたままだった私は、その場にへたりこんだ。


「嘘、でしょ」

「俺の勘違いだったら、それでいい。だから、言い出せなかった。だけど、なんだかおかしいのは、ヒィちゃんも気づいてるよな」


私の前に膝まづいた穂積くんが、俺は、と続ける。


「タイムリミットはあと四日なんじゃないかと、考えてる」

「四日⁉ たった?」


震える。首をぶんぶんと横に振った。
そんなことない。
美月ちゃんは、もっとここにいられる。
私と、みんなと一緒に居られる。
だけど、もしかしたら、と思ってしまう。

もし、美月ちゃんがいなくなったら。
また、消えてしまったら。


「やだ! 嫌だ! 美月ちゃんはずっと、私と一緒にいるんだもん!」

「そんなことできるわけないって、分かってるだろ?
ヒィちゃんはこの先、結婚しても、子供ができても、美月ちゃんといられると思う?
できないだろ。これからの君の人生が、君の物じゃなくなる!」

「私はそれでも」

「それでもいいって言いそうだから、俺は怖いんだって!」


穂積くんが叫ぶ。その激しい声にびくりとする。


「自己犠牲も度が過ぎるんだ!」

「……っ!」


「そして、そんなこと出来るわけないんだ! 終わりがあるって、そこはもう、どうしようもない事実だ」

「終わる、なんて……」


言葉を失う。
喉がからからに乾いていた、


ぎゅっと唇を結ぶと、穂積くんが戸惑った顔をして、「ごめん」と言った。


「俺だって言いたいわけじゃない。だけど、目を逸らしてどうするの。心の準備も何もなく、彼女と……別れを告げるの?」

「やだ……やだよ。私、離れるのやだ」


こんなにも、仲良くなれたの。
たくさん、笑い合えたの。

毎晩、美月ちゃんとおやすみを言って眠るのは、楽しかったの。
嬉しかったの。

たくさん話をして、笑い合って。
そんな時間があと僅かなんて、嘘でしょう?
私たちの時間はもっともっと。きっと、永遠にあるんでしょう?


「私、もっと一緒にいたい……!」


私たちは、まだ仲良くなれる。
そう、分かっているのに。
なのに、こんなのって、ない……。


「ああ、俺だって、そう思うよ。じゃあ、奇跡をどうやって起こす? 美月ちゃんが生き返る未来は……どうあがいても、ない」

「……っ!」


嫌だと叫んだ声は、声にならなかった。


美月ちゃんが目覚めたのは、真夜中のことだった。


「ん……、あれ。ヒィ?」

「起きた?」


私は、机に座って、壁にかかる『エトワール』を眺めていた。
カーテンの隙間から差し込む月の光の中で、たおやかな踊り子が舞っている。


「あたし、寝てたんだね」

「うん」

「そっか」


床に寝ていた美月ちゃんは、ゆっくり体を起こす。
それからふるりと頭を振って、ため息をついた。


「話の途中で寝ちゃった、んだっけ」

「うん」

「そっかそっか」


起き上がった美月ちゃんは、その場で膝を抱えて座った。
机の前にいる私を見上げる。
私は、そんな彼女を見つめた。
少しだけ、見つめ合う形になる。


「言いたいことがあるのね、ヒィ。そんな顔してる」

「……穂積くんが、言うの」

「うん?」

「ミィには、タイムリミットがあるんじゃないか、って」


声が少しだけ震えた。


「四十九日。それがこの世に居られる期限かもしれない、って」


もし、穂積くんの言う通りならば。
美月ちゃんとは一緒にいられるのはあと僅かしかない。

そのことに目を逸らして、見ないことにはできない。
失ってからでは、遅すぎる。
美月ちゃんが、ふっと視線を逸らす。


「そんなこと、ないよね。ミィ」

「……その話か。うん、あたしも、そう思ってる。多分、穂積くんの言う通りだ」


足元から、何かが崩れ落ちていく音を聞いた。
「あたし、よく寝るじゃない?
最近、それが『寝る』という言葉が当てはまらないんじゃないかって言うくらい深いの。
深い深い、音もしない水底に沈んでしまう感じっていったらいいかなあ」


美月ちゃんは続ける。


「最初は、ヒィの体を使うことってすごく疲れるんだな、っていうくらいしか考えていなかったんだ。
だけど、だんだん怖くなってきた。
もしかしたら、眠ったまま永遠に目覚めなくなっちゃうんじゃないかって」

「だから、私の体に入らなくなったの?」


思い当たって訊くと、美月ちゃんは頷いた。


「まあね。こういうの、延命対策っていうんだっけ?
最初はまあ、そんな感じで。
だけど、入らなくなっても眠りはどんどん襲ってきたから、意味ないんだって分かったけど」


肩を竦めて言う美月ちゃんの声は、どうしてだかさっぱりしていた。


「終わりが近いんだって、気付いた。そして、それがいつかって考えた時、四十九日目なんだろうなって。
死んだ人は四十九日間だけこの世をウロウロできるって、昔おばあちゃんに教わったし」

「どうして、それを言ってくれなかったの」


対して私の声は、かさかさに乾ききっていた。
かすかに震えて、私の方が死にそうだ。


「言おうとは思ったよ。でも、ぎりぎりまでは、黙っていたかった。普通通りに、過ごしたかったから」


美月ちゃんは、壁にかかったカレンダーに視線をやって、「8月31日」と言う。


「夏休み、最後の日。それがあたしの、この世での最後の日になると思う」

「それは、どうしようも、ないの……?」

「うん、きっと。やだ、ヒィ泣かないで」


美月ちゃんが私を見て立ち上がる。


「泣かなくていい。あたしはまだここにいるし」


ね? と笑う美月ちゃんに、首を横に振る。


「やだよ。私、美月ちゃんと一緒に居たい。もっとたくさん、もっと、いっぱい」


美月ちゃんが、笑みを引っ込めた。困ったように眉尻を下げる。


「私、どれだけでも体を貸す。なんでもする。だから、これからも一緒に居たい」

「……ヒィ、その気持ちは嬉しい。とっても、嬉しい。でも、あたしの気持ちも分かって」


美月ちゃんが私に手を伸ばす。
細くて白い手は、私の頬をすり抜けた。


「……ヒィにしか見えない。声も届かない。触れられない。大好きな人が倒れても、何もできない。『好き』ってたった二文字も、自分の口じゃ伝えられない。そんなのもう、嫌なの」

「ミ、」


手がするりと離れる。
その手をぎゅっと握りしめて、美月ちゃんは視線を落とした。


「あたし、告白するよ。
だんだん、自分が嫌な子になっていってたの。
あーくんと笑い合えて、なんてことない会話ができるヒィが、羨ましいって思ってた。
ううん、羨ましいなんてものじゃない。
……妬ましいって、思うんだ」


握りしめた手が震えている。美月ちゃんはこぶしを見つめたまま続けた。


「……馬鹿だよね。
ヒィはこんなにもあたしのこと考えてくれる。何でもしてくれる。
なのにあたしは、ヒィのこと、ズルいなとか、いいなとか、考えちゃうんだよ。
あたしにはもう何もないのに、ヒィは何でも持っている。


家族も、友達も、体も、命も、……未来も。

あの、たった一瞬で、あたしは全部を失ったのに。
ヒィは、持ってる。


それが、眩しいくらい羨ましくて、妬ましいんだ」

「ミィ」

「ほんとに、笑えるくらい馬鹿でしょ。でも、どうしようもないの」


ぽたりと、美月ちゃんのこぶしに涙の粒が落ちた。


「さっきだって、そう。ヒィがあーくんのこと好きだって分かった時、あたしがまっさきに何を考えたか分かる?
すごくどす黒い気持ち。
あんな汚い感情が自分の中にあるなんて、思いもしなかった」

「そんなの、仕方ないことだよ! 私みたいな存在を知ったら誰だって、嫌になる」


美月ちゃんは首を横に振る。


「そのあとヒィの気持ちを知って、あたし、なんて恥ずかしいんだろうって、思ったんだ。
こんなに心が綺麗な子にここまで想われてるのに、なのにあたしは、何を考えてるんだろうって。最低だよ」

「ミィ、そんなことない。私は」

「ううん。あたしはこれ以上、自分のことを嫌いになりたくない。ヒィに好かれている自分を堂々と好きでいたいの。だから、わかって」


美月ちゃんは、絞り出すようにして叫んだ。


「あたしは、自分が本当に嫌な女になる前に、この世から去りたいの……!」


涙の粒は美月ちゃんの手に幾つも降る。
それはつう、と流れ、手から零れ落ちる。

だけどそれは、フローリングに落ちる前に、消えた。