「………まさか、その筆箱、小学生のときから使い続けて……」
「ますよ、もちろん」
「……その理由はもちろん、中身入れ替えるのが」
「めんどくさいからです」
「でしょうね〜……」
やばい、南くんの考えてることが分かるようになってきてしまった……。
いかんいかん、あたしまで変人になってしまう!
「これ、すごくいいんです」
あたしが内心で青ざめているのに気づくよしもなく、南くんはなぜか少し嬉しそうにステゴサウルスの筆箱を撫でている。
「丈夫だし、大容量だし、鉛筆が固定できるから中で転がったり芯が折れたりする心配ないし、鉛筆削りまで付いてるし。
橘さんもそんな小さい巾着袋みたいな筆箱はやめて、こういうのにしたらどうですか?」
「いえ、あたしはこれでいいんです」
即答すると、南くんは不思議そうに首を傾げていた。
毎朝8時きっかりに現れる南くんが、いつも同じ黒づくめの服なのに気づいたのは4日目。
真っ黒なシャツに真っ黒なカーディガン、真っ黒なジーンズ、真っ黒な靴。
そして、靴下だけはやけにカラフルな柄物(ただし、左右ちぐはぐ)。
「南くんて、毎日その服だね」
「あー……服選ぶのめんどくさいから」
でしょうね。
分かってましたとも。
「その靴さ、なんかやけにごついね」
「あぁ、安全靴なんで」
「あんぜんぐつ?」
「工場で働いてる人とかが使うんですけど、ほら」
南くんが爪先を何度か軽く床に当てると、ごつんごつんという穏やかではない音がした。
「鉄板が入ってて、重い物とか落ちてきても安心なんです。いいでしょ?」
あたしは「へぇ、ふぅん」と適当にあいづちをうった。
文系大学院生の引きこもりがちな生活のどこに、爪先を鉄板で守らなければならないような危険が潜んでいるのか、はなはだ謎である。
なぜかわざわざ私物のノートパソコンを持ってきて使っていることに気づいたのは5日目。
みんなパソコンを使うときは共同研究室に据え置きのものを使うのに、南くんだけは自分のノートパソコンを開いて隅っこでかたかたかやっている。
もしかして、周りの学生に気を使って共同パソコンを使えないのか?と思って、あたしは一言。
「南くん、共同パソコン、使っていいんだよ?」
でも、そんなあたしの気づかいは一瞬で打ち砕かれた。
「新しいパソコンの使い方覚えるのめんどくさいから」
「……でもさぁ、共同パソコンなら、文献検索ソフト入ってるから便利だよ」
「新しいソフトの使い方覚えるのめんどくさいから」
「……でも、ほんと便利だよ?」
「文献は自分の目で探すからいいんです」
………文献探しはめんどくさくないんかい。
たいして違いのないパソコンの使い方覚えるのはめんどくさいのに?
こいつ、ほんと、常人には理解不能なまったく謎の価値観で生きてる。
*
とにかく何事に対しても、どう考えたってめんどくさがってはいけない事柄に対しても、めんどくさいと答えてしまうのが分かったのは6日目。
その日の夜は研究室の飲み会が予定されていて、幹事のあたしは朝一番、南くんに声をかけた。
「今日の飲み会、参加するよね?」
すると南くん、
「めんどくさいから行きません」
とのたまった。
「………南くんの歓迎会だよ!?」
「でもめんどくさいから」
「飲ミニケーションって言葉を知らんのか!みんなと親睦を深めるチャンス!」
「え、いいです、めんどくさいから」
「馬鹿!来なさい!先輩命令!」
まだ知り合って間もないし、とこれまで遠慮していたあたしだけど、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
あたしは時間になると南くんの首根っこをつかみ、飲み会の会場へと強制連行した。
レッツ・飲ミニケーション!!
「あ、雨ふってる。
南くん、傘もってきた?」
研究棟を出ると小雨がぱらついていたので、あたしは首根っこをつかんだまま南くんに声をかけた。
大人しくされるがままになっている南くんが、
「持ってます」
と答えて、中学校の補助バッグの中から折りたたみ傘を………
「………なにその傘!」
「え?」
驚きの声をあげたあたしを、南くんが怪訝そうな顔で見つめ返す。
その傘は、ドぎつい真っピンクに、ド派手な花柄が豪勢にあしらわれた、信じられないくらい毒々しく華やかなものだった。
「そんな派手な傘、見たことないんだけど!
ってか、男子大学生が持つ傘じゃないよね!?」
と言ってから、こいつは小学生用の筆箱と中学校の補助バッグを愛用している変人だった、と思い出した。
南くんは自分の持っている傘をまじまじと眺め、不思議そうに首を傾げた。
「そういえば、誰の傘だろう……何も考えないで使ってたなぁ」
まるで初めて見た傘のように、南くんはピンクの花柄の傘を観察している。
だめだこりゃ。
「たぶん、母がこっちに遊びに来たときに、俺の部屋に置いていったんじゃないですかね」
他人事のようにぼんやりと言うので、あたしは諦めて自分の傘を開いた。
「………あ」
いつも持ち歩いている淡い青の折りたたみ傘を開いた瞬間、あたしは「しまった」と焦りを覚えた。
そうだ、この傘……前に使ったとき、枝に引っかけて穴が空いちゃったんだ。
だから、新しいの買わなきゃと思ってたのに、忙しさにかまけてすっかり忘れてた。
あぁ、あたしとしたことが!
長女らしくしっかり者で、いつも用意周到なはずなのに!
―――まぁ、しかたない。
これくらいの小雨なら、ちょっとくらい穴が空いてたって、ずぶ濡れになることはないだろう。
「………橘さん」
穴の空いた傘をさして歩き出そうとしたら、ふいに南くんに呼びとめられて、あたしは驚いて足を止めた。
南くんに名前を呼ばれるのは、はじめてだった。
「え……ど、どしたの南くん。
ってゆーか、あたしの名前、知ってたんだね。
てっきり、ひとの名前覚えるのもめんどくさいのかと思ってた」
ちょっと失礼かな、と思いつつ正直に言うと、南くんはいつもの眠たげな目であたしをじっと見つめ返してきた。
「はぁ、まぁ………たしかに、名前覚えるのはめんどくさいですけど。
橘さんみたいに何度もしつこく声かけてくる人は初めてなので、すぐ覚えました」
「は? しつこくってすみませんでしたね!」
ちょっとムカついたので怒った顔をしてやると、南くんの眠たげな目が、かすかに見開かれた。
そして、次の瞬間、ふわりと細められた。
ん?と思って注視してみると、口角がわずかに上がっている、ように見える。
え………もしかして、笑ってる!?
そこではじめて気がついたけど、南くんはこれまで一度も笑顔を見せたことがなかった。
いつも目の下にクマを作って、青白い顔で、眠たそうな目で、無表情に周りをぼんやり眺めていた。
その南くんが今、かすかーにだけど目許と口許を緩めて、あたしを見つめているのだ。
「………みっ、南くんて、笑ったりするんだね……」
思わず心の声が外に飛び出してしまった。
南くんは「え?」と不思議そうな声をあげて、
「そりゃ、笑うことくらいありますよ」
「笑うのはめんどくさくないの?」
「は? 変なこと言いますね、橘さんって」
南くんはまた、笑みらしきものを浮かべた。