はっきり言っちゃうと恥ずかしい思いをさせるかな、と考えて、
「あの、靴下が……」
とあたしは、気遣いに満ちあふれた間接的な言い方をして、南くんの足下を指した。
南くんは「え?」と自分の足に視線を落とした。
それで気づくかと思いきや、それでも南くんは無反応。
そこであたしは、遠回しな言い方では駄目だったかと考え、はっきり指摘してあげた。
「ほら、靴下。右と左がそろってないよ」
周りに聞こえないように小声で言いながら、あたしは水玉の靴下としましまの靴下を交互に指し示した。
『あっ、本当だ! やっちゃった(照)』
―――という反応を予想していたあたしは、南くんの
「………はぁ。そうですけど、なにか?」
という、驚きのかけらも羞恥の気配も感じさせない答えに、目を丸くした。
「………ちぐはぐだけど、いいの?」
おそるおそる目を上げて問うと、
「………え、いけないですか?」
南くんは大真面目な顔で言ってのけた。
………あれ? あたし、何か変なこと言った?
いやいや、あたしは間違ってない!
至極まともで常識的な発言をしただけだ。
「いや、あのほら、普通はさ、靴下って、左右おなじ色おなじ柄のやつ、履くよね?」
「………はぁ。手に取ったのがこの二つだったんで」
―――あれ?
なんか会話が噛み合わないぞ。
「………ええと。なんでセットで履かないの?」
内心で首を傾げつつ、それでもなんとか微笑みを保ったままで訊ねると。
「探すのがめんどくさいからです」
南くんはきっぱりと言い切った。
そっかあ。
確かに靴下の相方を探すのはめんどくさ………くないよね!? べつに!!
そりゃ、洗ったときにバラバラになっちゃうけど、干すときにセットにするよね!? ふつう!!
そうじゃなかったら、洗濯物とりこむ時にセットにして片付けるよね!?
あたしの洗濯方法、べつに変じゃないよね!?
………なんか、こいつ変!
―――というのが最初の印象。
そして、その第一印象は当たっていた。
*
その後も、南くんの生態に関しては、とにかく驚きの連続だった。
初対面の翌日、まだ学生たちもまばらな朝8時に、南くんは研究室のドアを開けた。
「南くん、おはよう。早いね」
と声をかけたあたしは、南くんの肩にかかっていた「あるもの」に目を奪われた。
それは、小さめのボストンバックくらいのサイズの、横に長い長方形の、深緑の布地に黒い持ち手がついた、肩かけかばん。
それはいいんだけど。
とにかく、筆舌に尽くし難いほどに………ぼろぼろで。
汚れて、色あせて、擦り切れて、穴が空きかけている。
そして、横腹の部分にプリントされている白い文字は剥がれかけている。
その文字に目を凝らしてみると。
―――『A中学校』
その隣に、オレンジ色の糸で刺繍されているのは、ぼろぼろにほつれて消えかけているけど、たしかに何かの文字で。
じいっと凝視すると、こう書かれているのが分かった。
『南 裕紀』
まぎれもなく、南くんのフルネームである。
「………ええと、南くん。
そのかばん………一体なに?」
我慢できなくて、あたしは南くんに訊ねた。
南くんがすこし怪訝そうな顔になる。
「え? かばんですか?」
「ええ、かばんですとも」
「はぁ………」
「それ、なんのかばんなの?」
「え………これですか?
中学校のときの補助バッグですけど」
案の定、予想通りではあるものの全く納得できない答えが、「見たら分かるでしょ?」とでも言わんばかりの声音で返って来た。
そりゃ、見たら分かりますけど。
でも、変でしょうが。
なんで、今年で23歳にもなる大学院生が、中学時代の学校指定の補助バッグをいまだに使ってるわけ?
という思いを、あたしはそのままぶつけた。
「………なんでそんなの使ってるの?」
「かばんの中身、入れ替えるのがめんどくさいから」
南くんがもそもそと答えた。
あぁ、なるほど、そうだよね、かばんの中身を入れ替えるのって、実はけっこうめんどくさ……いけど!!
たしかに、細々したものが多かったりして大変だけど!!
でも、めんどくさいけど、やるでしょ普通!!
「そんな理由で、10年以上も補助バッグ使いつづけてるの………?」
「はい。めんどくさいから」
南くんはクマのある眠たげな目をゆっくりまたたかせて、こくりと頷いた。
なんというか、言葉も出なくて、あたしは呆然と黙り込む。
南くんは話が終わったと判断したようで、共同研究室のど真ん中にある大テーブルの隅っこに腰かけ、補助バッグから研究関係らしい資料や本をがさごそと取り出しはじめた。
どうやら南くんは、「めんどくさいから」というのが口癖、というか、めんどくさいかそうでないかというのが唯一にして最重要の行動理念であるらしい。
それを確信したのは、その日の午後だった。
橋本准教授あてで、段ボールいっぱいに書籍の詰まった荷物が助教室に届いた。
橋本先生の研究室は4階。
とりあえず運ぼうと持ち上げてはみたものの、重すぎて歩けそうにない。
学生の誰かに手伝ってもらおうと共同研究室を覗いてみると、たまたま皆出払っていて、南くんしかいなかった。
「ねぇ、南くん、今ちょっといい?」
「はい?」
南くんは緩慢な動作で振り返った。
あたしは段ボールを指さして、
「これ運ぶの、手伝ってくれない?」
とにこやかな笑顔とともに言った。
普通に考えれば、かよわき乙女(……でもないか、そろそろ)のあたしが重い荷物に辟易していることが分かったら、「いいですよ」と答えるのが当然だろう。
実際、今までも似たようなシチュエーションはいくらでもあって、そのたびに男子学生が手伝ってくれていた。
………でも。
「え、いやです」
南くんはさらりと拒否しやがったのだ。
あたしは耳を疑い、不覚にも一瞬、動きを止めてしまった。
それから気を取り直して口を開いた。
「ちょっと上まで運ぶだけなんだけど」
「え、いやです」
南くんはやっぱりさらりと拒否した。
「な、なんで?」
「めんどくさいから」
その瞬間、あたしは確信したのだ。
この男は、とんでもないめんどくさがり屋で、さらに、人でなしだと。
*
南くんにまつわる仰天エピソードは、もちろんこれだけではない。
たとえば、ペンケース。
あたしは磯辺先生のゼミにお手伝いとして参加していて、その日はたまたま南くんの隣に座った。
そして、中学校の補助バッグから南くんがのそのそと取り出してきたペンケースを見て、あたしは度肝を抜かれた。
「………なっ、なにそれ南くん!?」
「え……ステゴサウルスですけど」
そんなことも知らないのか、といった顔であたしを見つめ返す南くん。
「いや、ステゴザウルスだろうがティラノサウルスだろうが、どっちでもいいんだけど」
即座にツッコミを入れたあたしの言葉に首を傾げる南くんの手に握られているのは、小学校に入学するとき買ってもらう定番の、あれ。
薄型の長方形のハードケースの筆箱。
両面筆入れって言うんだっけ?
ふたが磁石でカチッととまるやつ。
そのふたに、でかでかと恐竜の絵が描かれている。