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ここは、Y大学文学部、国文学専攻の共同研究室。
あたし―――橘あさみ29歳は、研究室に隣接している助教室で探しものの最中である。
去年の三月に博士論文を提出して三年間の博士課程を修了したあたしは、運よくその年のうちに助教の席をゲットした。
ポスドク(ポスト・ドクター=博士課程を修了した後、まだ常勤の職を得ていない研究員)の就職難が社会問題として騒がれている今、ドクターを出てすぐに助教になれた私はかなりラッキーだ。
助教っていうのは、少し前までは「助手」と呼ばれていた立場のこと。
研究室運営上の事務的な仕事や、助教室に保管してある貴重な図書や資料の管理、学生の研究や論文のちょっとした指導、教授たちの研究に必要な文献集めなど、仕事はたくさんある。
以来1年間、あたしは日々、自分の研究もそっちのけで(は本当はダメなんだけど……)、学生たちの世話と教授たちから頼まれる雑用に勤しんでいた。
「橘さん」
助教室の本棚をひっかきまわして学生から頼まれた文献を探していると、入り口のドアが不意に開いて、名前を呼ばれた。
振り向くと、この国文学専攻に所属している六人の教授・准教授たちの中で最も重鎮の磯辺教授が、ひょっこりと顔を覗かせていた。
「磯辺先生、おはようございます」
あたしはぱっと文献を片付け、丁寧に頭を下げる。
教授がたの機嫌をとるというのも、助教の仕事なのである。
「うん、おはよう。あのねぇ橘さん」
満面の笑みを浮かべている磯辺先生。
嫌な予感しかしない………でも、そんなことはおくびにも出さず、あたしはにこやかに答える。
「はい、なんでしょう」
「今日、例の新しい院生くるからね」
磯辺先生の言葉を聞いて、あたしは先月のうちに先生からうかがっていた話を思い出した。
「あ、たしか、D大学から転入してくるとかっていう………」
「そうそう。優秀な学生だから、しっかり対応しないとね。じゃ、専攻の説明とか施設の案内とか、いろいろよろしくね」
磯辺先生はひらひらと手を振って、「頼んだよ~」というセリフを残して助教室から出て行った。
―――「いろいろ」「よろしく」って。
なんともまあ、便利な言葉だ。
具体的に何をすればいいかは指定せず、でも、「とにかく全般的に上手いこと面倒を見てやってくれ」という、ちょっと無責任な意図はしっかり伝えてくる………。
まあ、磯辺先生は忙しい人だから、ね。
一学生のためにそんなに時間を割けないのは仕方がない。
他大学の学部を卒業してうちの大学院に入るというパターンは、文系学部ではけっこう例外的だ。
理系だと、わりとそういうケースもあるらしいけど。
しかも、D大学みたいな一流大学からわざわざうちのようなエセ一流大学に転入してくるパターンは、かなり珍しい。
そんなレアケースの大学院生のために、この大学や文学部のことを一から説明したり、
国文学専攻のシステムやら、教員や講師や各ゼミの紹介などをいちいち説明したりするのは、多忙を極める教授にとっては正直なところ手間だ。
というわけで、磯辺先生は、自分のゼミに入る新しい大学院生のお世話を、助教のあたしに一任した、というわけ。
「助教」とか「助手」というと、なんだかアカデミックな響きがして、聞こえは良いだろうけど。
世間一般のイメージである「教授の研究のお手伝い」よりも、
「教授たちの手が回らない学生の面倒を見る」仕事の方が断然多い。
学生たちの講義や演習で提出するレポートを手伝ったり、院生が学会で発表したり雑誌に投稿したりする論文などを添削したりとか。
うちの専攻全体で50人以上いる学部生や院生のレポートを、いちいち読んで添削するってのは、かなり時間も手間もかかる。
そんな中で自分の論文も進めなくてはならないから、助教というのはなかなか………というか、正直なところ、かなり多忙なのだ。
ちなみに今週は―――
学部生のレポートを三人分(合わせてA4のコピー用紙100枚弱……)と、
院生が学会誌に投稿する論文を二人分(合わせて200枚以上……!)
―――これらを全部すみずみまで読んで、誤字脱字を添削して、不適切な表現に修正を入れて、個別に面談指導をしなきゃいけない。
やばい、忙しすぎる………。
今週中にやるべき仕事を一つずつ数えあげているうちに、泣きそうになってきた。
その上、他大学からやってくる院生の面倒まで見ろって?
ああ、やってられない。
でも………悲しいかな。
三人きょうだいの長女で、思いっきり世話焼き気質に育ってしまったあたし。
面倒くさい、やってられない、とは思いつつも、結局はほうっておけないのだ。
そんなことを考えながら、黙々と作業しているとき。
「………ん?」
背中に、視線を感じた。
でも、誰かが声をかけてくる様子もない。
気のせいか、と思い直し、もう一度仕事に戻ろうとしたものの、やっぱり、背中を突き刺すような気配がする。
ぱっと振り向くと。
「わぁっ!」
叫びが喉をついて出た。
―――なぜなら、あまりにも不気味なものを見つけてしまったから。
それは、入り口のドアの隙間から覗く、どんよりと曇った虚ろな目………まさか、幽霊!?
―――そんなわけない。
「………えーと。
もしかして、D大学から来た院生さん?」
必死に作り笑いを貼りつけた顔で声をかけると、ドアの向こうから、
「………はい」
と、ぼそぼそ答える低い声が聞こえてきた。
「あー、はじめまして。どうも、助教の橘です。
とりあえず、そこにいたら寒いから、なか入って入って」
「………どうも」
もそもそ言いながらのっそりと姿を現した男が、大儀そうに会釈してきた。
ぼさぼさの髪。
血の気のない、青白い顔。
目の下に暗く染みついたクマ。
これでもかというほどの猫背。
―――インパクトが半端ではない。
これが、新しく本研究室の一員となった南くんとあたしの、初めての出会いだった。