『寝息の番』は、赤子と父と一匹の猫だけがいる小さな室内で、劇的な出来事を起こさずに「回復の技法」を描く物語です。合図はいつも微細です――やかんの細い鳴り、冷蔵庫の唸り、流しに落ちる一滴、そして窓の外から届く鈴の一度。父はそれらの気配を「拍」として聴き取り、窓を指の幅で開け、濡れと乾きの境を守り、角度と順序を整えることで、赤子の呼吸を安全に戻していきます。猫は撫でさせず、距離と視線で「境界」を示すだけの存在です。鳴きは短く、押しつけがましくない。けれど確かに方向を持つ。その合図を言葉ではなく所作で受け取り、礼は整頓で返す――この反復が章ごとに少しずつ深まり、第四章の朝、父はその作法を自分のものとして「採用」します。 文体は一人称・現在。説明や煽りを避け、音・温度・匂い・手触りだけで進みます。危機は必ず軽度で短く、父の手で解決されます。猫は代替の癒しではなく、並走者として位置づけ、擬人化を排しました。育児の「事件」ではなく、生活の「方法」を主題化することで、読後に読者自身の呼吸が一段落ち着くような体験を目指しています。 推しどころは三つ。①家電や金具の微音を「譜面」化して読む独自の感覚設計。②合図→所作→静まり、という可逆のミニサイクルが連なる構成。③倫理の透明性――触れない、急がせない、確かめすぎない。静かな頁の先に、確かな「手の効き目」を残します。