ぐいっ、と。
荷物でも引き寄せるような遠慮のなさで腰に腕が回され、私の体はノクスの胸元へ強制的に引き込まれた。
「なっ、ちょっ……!」
声が裏返る。
前世を含めても、男性にこんな触れられ方をしたことなんて、一度もなかった。
外套越しだというのに、その下の硬い体の輪郭がはっきりと伝わってくる。
どくん、と心臓が跳ねた。
「く、くっつきすぎよ!」
「暴れるな。転送中に逸れたら二度と見つけられんぞ。ここは世界すら座標を把握していない虚無だからな」
「っ……わ、わかったわよ!」
私はヤケクソ気味に叫ぶと、ノクスの漆黒の外套を両手で全力で掴み、その胸へ身を寄せた。
直後、足元で爆ぜた黒い光が、視界のすべてを漆黒へと呑み込んでいく。
空間が消え去る中で、最後まで残っていたのは――鼓膜の内側で鳴り続ける心臓の音だった。
削除領域から吐き出された私たちが立っていたのは、王立魔法学園の中庭。
夜明け前の、青い空気。
噴水は静かに水を吐き、芝生には露が降りている。校舎の窓はどれも暗く、まだ誰も起きていない。
「……戻ってきた」
空はまだ白み始めたばかりで、西の空へ月が沈みかけている。図書館の床が抜けて落ちた時から、時間の流れは同じだったのかもしれない。
隣で、ノクスが低く息を吐いた。
「……また、ここか」
忌々しげな声だった。眉を寄せ、校舎の輪郭を睨みつけている。
「来たことあるの?」
そこで気づいた。
私たちは、まだ抱き合ったままだった。
「――って、いつまで掴んでるんのよ!」
「俺の服を全力で握りしめているのは、お前の方だが?」
「あっ……!」
ノクスが手を離したので、私がまた顔を熱くしながら二歩飛び退く。
その瞬間。
ピピピピピピピッ!
鼓膜を刺す警告音。芝生の露が一斉に震え、噴水の水面へ赤い光が落ちる。
【SYSTEM】『対象個体:フェリシア・ルミナリア』
【SYSTEM】『正規座標への復帰を確認』
【SYSTEM】『実行中の強制初期化を再開します』
【SYSTEM】『進捗:87%』
中庭の空へ、巨大な赤い環が展開した。
そこから伸びた無数の細い光の腕が、まっすぐ私だけを目指して降下してくる。
頭の奥が、ぐらりと軋んだ。中断されていた削除処理が、そのまま再開される感覚。
「ノクス! 術式を渡すわ、あなたの領域で回して!」
「分かった!」
私は空中へ両手を突き出し、指先で青白い光の構文を一気に書き始めた。
中身は単純だ。システムが私を狙う『参照アドレス』を、何もない空っぽの座標へすり替える。ただし、これを走らせるには私の魔力じゃ足りない。
その絶望的な不足分を、背後の魔王が埋める。
【SYSTEM】『進捗:91%』
「急げ!」
「分かってる!」
コードが次々と空中へ積み上がる。
参照元を偽装、対象識別を迂回、捕捉座標を上書き……。
最後に、無限再取得へ叩き込む。
「術式、完成!」
「――っ!」
ノクスの右手が、肩越しに私の術式へ添えられた。
瞬間、背筋が粟立った。ノクスの魔力が私の中へ流れ込んできたのではなく、その逆。
私の書いた青白い術式が、彼の演算領域へと丸ごと吸い込まれていく。ノクスの『無制限の枠』の中で、重い処理が一瞬にして組み上げられていく。
書かれた行が、眩い光を放つ。
初めて、自分の組んだ本気の術式が走った。
「参照先、書き換え――実行!」
パンッ、と空間が弾けるような乾いた音。
直後、上空から降下してきた無数の光の腕が、私の体をまるで幻でも見るように素通りした。
無数の腕は、私が立つ場所から三メートル離れた『何もない空間』へ殺到した。
そして、そこにいるはずのダミーの対象を懸命に掴もうとして空を切り、また掴もうとしては空振りを繰り返している。
【SYSTEM】『対象を捕捉』
【SYSTEM】『参照先が存在しません』
【SYSTEM】『再取得します』
【SYSTEM】『参照先が存在しません』
【SYSTEM】『再取得しま――』
赤い環が痙攣するように明滅した。
光の腕が絡まり、自分自身を掴み、内側へ折れていく。
そして。
パシャァァァンッ!
硝子の割れる音とともに、赤い環が砕け散った。
無数の破片が朝靄の中を舞い、芝生へ触れる前に光へ溶けて消えていく。
【SYSTEM】『強制初期化:実行中の処理が消失しました』
【SYSTEM】『対象個体の削除条件を満たしていません』
【SYSTEM】『当該処理を終了します』
静けさが戻った。
噴水が、また何事もなかったように水を吐いている。
「……止まった」
私は自分の手のひらを見た。焦げても、痺れてもいない。
書いた術式が、思ったとおりに動いた。それも、初めて全力で。
「動いたわ、ノクス。ちゃんと動いた」
「狙い通りではないのか?」
「そうよ! そのとおりよ! だから最高なのよ!」
肩から、ようやく力が抜けていく。八十七パーセントで止まっていた数字は、もうどこにもない。前世の記憶も、この世界で見てきたものも、全部、私の中に残っている。
勢いのまま右手を差し出す。
ノクスは一瞬、差し出された手を怪訝そうに見つめた。
「何だ、その手は」
「勝利の儀式! ほら!」
ノクスは言われるまま右手を上げ――。
パァンッ!
思いきりよく、私の掌へ自分の掌を叩き合わせた。
「初共同作業、大成功!」
「……ふん」
ノクスの口元が、わずかに持ち上がる。
「悪くない気分だ」
何百回も負け続けてきた男が、初めて運命の腕を振り払った顔だった。
「で、次はどうする。この勢いでシステムの本体へ殴り込むか?」
「それは無理」
「なぜだ。現に今、システムを退けただろう」
「あれは『伸びてきた手』を空振りさせただけ。シナリオの結末や世界のルールは、どれだけあなたの魔力があっても直接触れない深い場所に書かれているの」
「ならばどうする?」
「だから、観察するのよ」
私は朝靄の校舎を見上げた。
「勇者やヒロインが密集するこの学園は、システムが一番手を出してくる場所。つまり、最高の観測拠点になるわ」
「観測拠点……か」
「向こうが動いた時しか、尻尾は掴めないから。……だから、あなたも学園にいて」
私は振り返り、まっすぐにノクスを見上げた。
「私がシステムの弱点を暴いても、あなたの力がなきゃ実行できないの」
ノクスは黙って私を見下ろした。
朝靄の中で、赤い瞳がかすかに揺れる。
「……分かった。仕方あるまい」
「あら、ずいぶんあっさりね。本当はお城にいたいんでしょう?」
「ここはあまり好かん場所だ。だが、道連れがいるのなら、我慢ができるかもしれない」
「ねえ、さっきも聞いたけど。あなた、ここに来たことがあるの?」
ノクスが答えるより早く、私たちの間へ、あの軽い電子音が割り込んできた。
【SYSTEM】『校内に未登録の個体を検出しました』
【SYSTEM】『整合性を維持するため、所属情報を生成します』
【SYSTEM】『照合中……該当する既存設定を発見』
【SYSTEM】『設定名:北方より来たる特別編入生』
【SYSTEM】『当該設定を適用します』
次の瞬間、ノクスの足元から立ちのぼった白い光が、漆黒の外套を編み直していく。
光が収まったあとに現れたのは――黒い詰め襟の学生服姿だった。
胸には『特別編入生 ノクス』の真新しい名札。
「……は?」
変な声が出た。
顔が良いのは知っていた。
黙って立っているだけで背景に赤い月と黒薔薇が見えてきそうな、露骨なまでのイケメン魔王である。
それでも、魔王の外套を着ているうちはよかった。
『世界を滅ぼすラスボスの造形』。
『はいはい、異世界の超絶美形ですね』。
そうやって、心の中で安全な距離を取れた。
ところが。
それが、学校の制服を着せられた瞬間、魔王が、突如、同じ世界の超美形『同級生の男子』に早変わりしてしまった。
まずい……。
窮屈そうに襟元へ差し込まれた指も、見下ろす長い睫毛も、破壊力が高い。
これはただの衣装データの差し替えだと自分に言い聞かせても、キュンキュンと胸の奥が情けない音を立てている。
「……またこれか」
必死に動揺を抑えようとする私の前で、当のノクスが、底からうんざりしたような深いため息をついた。
「俺は過去に何度も、この学園に転校してきているのだ」
――そうか。忘れていた。
『聖剣のラヴァーズ』の序盤における最大の山場。
ラスボスの魔王が正体を隠して学校に潜入する『北方より来たる特別編入生』のイベントだ。
確か、魔王が学園の地下に封印された聖剣に関わる『重要アイテム』を奪いに来るシナリオだったはず。それを阻止できるか、まんまと奪われるかで、その後のルート分岐に影響が出るとか聞いた気がする。
「この役回りは、好かん」
ノクスが不快そうに詰め襟の首元を引いた。
「正体を隠して生徒たちに溶け込み、無意味な仮初めの友情を築かされる。そして最後には必ず裏切り、地下で派手に暴れ回るよう強制されるのだ。……実に胸糞の悪い茶番だ」
信頼を裏切るのが、胸糞が悪い? 魔王なのに、義理堅いというか……。
「でも、好都合よ」
私は思考を切り替え、悪巧みをするように口角を上げた。
「序盤の大型イベントなら、システムが大量に介入する。強制力の処理も、山ほど出てくる。観測対象としては最高じゃない」
「また同じ茶番を演じろと言うのか?」
「まさか」
私はノクスの胸元にある、真新しい名札を指差した。
「私がいる以上、今までと同じにはさせない」
ノクスが目を細める。
「あなたが偽りの友情を強要されるなら、その強制イベントを止める。核を盗めと命令されるなら、命令そのものをすり替える。最後に裏切ることまで決まっているなら――」
私は、宙へ人差し指を走らせた。青白い光が、一本の線を描く。
「その結末へ到達する前に、シナリオを仕様書ごと叩き壊してあげる。あなたはもう、一人で同じ敗北を繰り返さなくていい」
私は胸を張り、宣言する。
「今度は私が、あなたを負けさせない」
数秒の沈黙。
やがてノクスは、ふっと息だけで笑った。
「大きく出たな、共犯者」
「世界へ喧嘩を売った女よ。今さら大型イベントの一つや二つで怯むと思う?」
「いいだろう」
赤い瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。
「ならば、見せてもらおう。俺が何度挑んでも変えられなかった結末を、お前がどう壊すのか」
【SYSTEM】『所属情報の生成が完了しました』
【SYSTEM】『氏名:ノクス』
【SYSTEM】『所属:王立魔法学園 特別編入生』
空中に浮かんでいたウィンドウが、チリンと軽い音を立てて消滅する。
これで晴れて、彼はこの学園の生徒だ。
「それに、そんなに似合ってるんだから、制服着ないともったいないしね」
「? どういう意味だ?」
「い、いえなんでもない! なんでもない!」
私は顔を熱くしながらぶんぶんと手を振った。
――でも、この時の私は、まだ何も分かっていなかった。
制服姿の魔王に、私の心臓が思わず跳ねたこと。
それが、この世界の恋愛構造を根底から反転させる、最初の観測データになったこと。
攻略されるヒロインたちが、自ら恋愛対象を追う世界へ。
男性向け美少女ゲームが、最高難易度の魔王を奪い合う乙女ゲームへ。
世界の『仕様』が音を立てて狂い始めていたことに――。
この時の私は、まだ何ひとつ気づいていなかった。
荷物でも引き寄せるような遠慮のなさで腰に腕が回され、私の体はノクスの胸元へ強制的に引き込まれた。
「なっ、ちょっ……!」
声が裏返る。
前世を含めても、男性にこんな触れられ方をしたことなんて、一度もなかった。
外套越しだというのに、その下の硬い体の輪郭がはっきりと伝わってくる。
どくん、と心臓が跳ねた。
「く、くっつきすぎよ!」
「暴れるな。転送中に逸れたら二度と見つけられんぞ。ここは世界すら座標を把握していない虚無だからな」
「っ……わ、わかったわよ!」
私はヤケクソ気味に叫ぶと、ノクスの漆黒の外套を両手で全力で掴み、その胸へ身を寄せた。
直後、足元で爆ぜた黒い光が、視界のすべてを漆黒へと呑み込んでいく。
空間が消え去る中で、最後まで残っていたのは――鼓膜の内側で鳴り続ける心臓の音だった。
削除領域から吐き出された私たちが立っていたのは、王立魔法学園の中庭。
夜明け前の、青い空気。
噴水は静かに水を吐き、芝生には露が降りている。校舎の窓はどれも暗く、まだ誰も起きていない。
「……戻ってきた」
空はまだ白み始めたばかりで、西の空へ月が沈みかけている。図書館の床が抜けて落ちた時から、時間の流れは同じだったのかもしれない。
隣で、ノクスが低く息を吐いた。
「……また、ここか」
忌々しげな声だった。眉を寄せ、校舎の輪郭を睨みつけている。
「来たことあるの?」
そこで気づいた。
私たちは、まだ抱き合ったままだった。
「――って、いつまで掴んでるんのよ!」
「俺の服を全力で握りしめているのは、お前の方だが?」
「あっ……!」
ノクスが手を離したので、私がまた顔を熱くしながら二歩飛び退く。
その瞬間。
ピピピピピピピッ!
鼓膜を刺す警告音。芝生の露が一斉に震え、噴水の水面へ赤い光が落ちる。
【SYSTEM】『対象個体:フェリシア・ルミナリア』
【SYSTEM】『正規座標への復帰を確認』
【SYSTEM】『実行中の強制初期化を再開します』
【SYSTEM】『進捗:87%』
中庭の空へ、巨大な赤い環が展開した。
そこから伸びた無数の細い光の腕が、まっすぐ私だけを目指して降下してくる。
頭の奥が、ぐらりと軋んだ。中断されていた削除処理が、そのまま再開される感覚。
「ノクス! 術式を渡すわ、あなたの領域で回して!」
「分かった!」
私は空中へ両手を突き出し、指先で青白い光の構文を一気に書き始めた。
中身は単純だ。システムが私を狙う『参照アドレス』を、何もない空っぽの座標へすり替える。ただし、これを走らせるには私の魔力じゃ足りない。
その絶望的な不足分を、背後の魔王が埋める。
【SYSTEM】『進捗:91%』
「急げ!」
「分かってる!」
コードが次々と空中へ積み上がる。
参照元を偽装、対象識別を迂回、捕捉座標を上書き……。
最後に、無限再取得へ叩き込む。
「術式、完成!」
「――っ!」
ノクスの右手が、肩越しに私の術式へ添えられた。
瞬間、背筋が粟立った。ノクスの魔力が私の中へ流れ込んできたのではなく、その逆。
私の書いた青白い術式が、彼の演算領域へと丸ごと吸い込まれていく。ノクスの『無制限の枠』の中で、重い処理が一瞬にして組み上げられていく。
書かれた行が、眩い光を放つ。
初めて、自分の組んだ本気の術式が走った。
「参照先、書き換え――実行!」
パンッ、と空間が弾けるような乾いた音。
直後、上空から降下してきた無数の光の腕が、私の体をまるで幻でも見るように素通りした。
無数の腕は、私が立つ場所から三メートル離れた『何もない空間』へ殺到した。
そして、そこにいるはずのダミーの対象を懸命に掴もうとして空を切り、また掴もうとしては空振りを繰り返している。
【SYSTEM】『対象を捕捉』
【SYSTEM】『参照先が存在しません』
【SYSTEM】『再取得します』
【SYSTEM】『参照先が存在しません』
【SYSTEM】『再取得しま――』
赤い環が痙攣するように明滅した。
光の腕が絡まり、自分自身を掴み、内側へ折れていく。
そして。
パシャァァァンッ!
硝子の割れる音とともに、赤い環が砕け散った。
無数の破片が朝靄の中を舞い、芝生へ触れる前に光へ溶けて消えていく。
【SYSTEM】『強制初期化:実行中の処理が消失しました』
【SYSTEM】『対象個体の削除条件を満たしていません』
【SYSTEM】『当該処理を終了します』
静けさが戻った。
噴水が、また何事もなかったように水を吐いている。
「……止まった」
私は自分の手のひらを見た。焦げても、痺れてもいない。
書いた術式が、思ったとおりに動いた。それも、初めて全力で。
「動いたわ、ノクス。ちゃんと動いた」
「狙い通りではないのか?」
「そうよ! そのとおりよ! だから最高なのよ!」
肩から、ようやく力が抜けていく。八十七パーセントで止まっていた数字は、もうどこにもない。前世の記憶も、この世界で見てきたものも、全部、私の中に残っている。
勢いのまま右手を差し出す。
ノクスは一瞬、差し出された手を怪訝そうに見つめた。
「何だ、その手は」
「勝利の儀式! ほら!」
ノクスは言われるまま右手を上げ――。
パァンッ!
思いきりよく、私の掌へ自分の掌を叩き合わせた。
「初共同作業、大成功!」
「……ふん」
ノクスの口元が、わずかに持ち上がる。
「悪くない気分だ」
何百回も負け続けてきた男が、初めて運命の腕を振り払った顔だった。
「で、次はどうする。この勢いでシステムの本体へ殴り込むか?」
「それは無理」
「なぜだ。現に今、システムを退けただろう」
「あれは『伸びてきた手』を空振りさせただけ。シナリオの結末や世界のルールは、どれだけあなたの魔力があっても直接触れない深い場所に書かれているの」
「ならばどうする?」
「だから、観察するのよ」
私は朝靄の校舎を見上げた。
「勇者やヒロインが密集するこの学園は、システムが一番手を出してくる場所。つまり、最高の観測拠点になるわ」
「観測拠点……か」
「向こうが動いた時しか、尻尾は掴めないから。……だから、あなたも学園にいて」
私は振り返り、まっすぐにノクスを見上げた。
「私がシステムの弱点を暴いても、あなたの力がなきゃ実行できないの」
ノクスは黙って私を見下ろした。
朝靄の中で、赤い瞳がかすかに揺れる。
「……分かった。仕方あるまい」
「あら、ずいぶんあっさりね。本当はお城にいたいんでしょう?」
「ここはあまり好かん場所だ。だが、道連れがいるのなら、我慢ができるかもしれない」
「ねえ、さっきも聞いたけど。あなた、ここに来たことがあるの?」
ノクスが答えるより早く、私たちの間へ、あの軽い電子音が割り込んできた。
【SYSTEM】『校内に未登録の個体を検出しました』
【SYSTEM】『整合性を維持するため、所属情報を生成します』
【SYSTEM】『照合中……該当する既存設定を発見』
【SYSTEM】『設定名:北方より来たる特別編入生』
【SYSTEM】『当該設定を適用します』
次の瞬間、ノクスの足元から立ちのぼった白い光が、漆黒の外套を編み直していく。
光が収まったあとに現れたのは――黒い詰め襟の学生服姿だった。
胸には『特別編入生 ノクス』の真新しい名札。
「……は?」
変な声が出た。
顔が良いのは知っていた。
黙って立っているだけで背景に赤い月と黒薔薇が見えてきそうな、露骨なまでのイケメン魔王である。
それでも、魔王の外套を着ているうちはよかった。
『世界を滅ぼすラスボスの造形』。
『はいはい、異世界の超絶美形ですね』。
そうやって、心の中で安全な距離を取れた。
ところが。
それが、学校の制服を着せられた瞬間、魔王が、突如、同じ世界の超美形『同級生の男子』に早変わりしてしまった。
まずい……。
窮屈そうに襟元へ差し込まれた指も、見下ろす長い睫毛も、破壊力が高い。
これはただの衣装データの差し替えだと自分に言い聞かせても、キュンキュンと胸の奥が情けない音を立てている。
「……またこれか」
必死に動揺を抑えようとする私の前で、当のノクスが、底からうんざりしたような深いため息をついた。
「俺は過去に何度も、この学園に転校してきているのだ」
――そうか。忘れていた。
『聖剣のラヴァーズ』の序盤における最大の山場。
ラスボスの魔王が正体を隠して学校に潜入する『北方より来たる特別編入生』のイベントだ。
確か、魔王が学園の地下に封印された聖剣に関わる『重要アイテム』を奪いに来るシナリオだったはず。それを阻止できるか、まんまと奪われるかで、その後のルート分岐に影響が出るとか聞いた気がする。
「この役回りは、好かん」
ノクスが不快そうに詰め襟の首元を引いた。
「正体を隠して生徒たちに溶け込み、無意味な仮初めの友情を築かされる。そして最後には必ず裏切り、地下で派手に暴れ回るよう強制されるのだ。……実に胸糞の悪い茶番だ」
信頼を裏切るのが、胸糞が悪い? 魔王なのに、義理堅いというか……。
「でも、好都合よ」
私は思考を切り替え、悪巧みをするように口角を上げた。
「序盤の大型イベントなら、システムが大量に介入する。強制力の処理も、山ほど出てくる。観測対象としては最高じゃない」
「また同じ茶番を演じろと言うのか?」
「まさか」
私はノクスの胸元にある、真新しい名札を指差した。
「私がいる以上、今までと同じにはさせない」
ノクスが目を細める。
「あなたが偽りの友情を強要されるなら、その強制イベントを止める。核を盗めと命令されるなら、命令そのものをすり替える。最後に裏切ることまで決まっているなら――」
私は、宙へ人差し指を走らせた。青白い光が、一本の線を描く。
「その結末へ到達する前に、シナリオを仕様書ごと叩き壊してあげる。あなたはもう、一人で同じ敗北を繰り返さなくていい」
私は胸を張り、宣言する。
「今度は私が、あなたを負けさせない」
数秒の沈黙。
やがてノクスは、ふっと息だけで笑った。
「大きく出たな、共犯者」
「世界へ喧嘩を売った女よ。今さら大型イベントの一つや二つで怯むと思う?」
「いいだろう」
赤い瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。
「ならば、見せてもらおう。俺が何度挑んでも変えられなかった結末を、お前がどう壊すのか」
【SYSTEM】『所属情報の生成が完了しました』
【SYSTEM】『氏名:ノクス』
【SYSTEM】『所属:王立魔法学園 特別編入生』
空中に浮かんでいたウィンドウが、チリンと軽い音を立てて消滅する。
これで晴れて、彼はこの学園の生徒だ。
「それに、そんなに似合ってるんだから、制服着ないともったいないしね」
「? どういう意味だ?」
「い、いえなんでもない! なんでもない!」
私は顔を熱くしながらぶんぶんと手を振った。
――でも、この時の私は、まだ何も分かっていなかった。
制服姿の魔王に、私の心臓が思わず跳ねたこと。
それが、この世界の恋愛構造を根底から反転させる、最初の観測データになったこと。
攻略されるヒロインたちが、自ら恋愛対象を追う世界へ。
男性向け美少女ゲームが、最高難易度の魔王を奪い合う乙女ゲームへ。
世界の『仕様』が音を立てて狂い始めていたことに――。
この時の私は、まだ何ひとつ気づいていなかった。

