「二度と利用するかああああああああっ!」
私の絶叫は、底なしの暗闇へ延々と反響していた。
上も下も分からない。
重力がどちらへ働いているのかも分からない。
ただ、胃が喉元へ押し上げられる感覚だけが、私が猛烈な速度で落下していることを教えてくれている。
周囲を流れているのは、緑色の文字列。
途中までしか描かれていない魔法陣。
顔のない人間の輪郭。
『こんにちは、旅のお方――』とだけ繰り返す壊れた台詞。
扉だけ。
屋根だけ。
建物の右半分だけ。
世界を作る途中で捨てられたデータが収められた『ゴミ箱』の濁流の中を、私はどこまでも落ちていく。
【SYSTEM】『強制初期化を実行中』
【SYSTEM】『進捗:1%』
「一パーセント……。遅い。この速度なら割り込み方法を――」
【SYSTEM】『進捗:2%』
【SYSTEM】『残り時間を再計算しました』
【SYSTEM】『約3秒』
「急に速くなるな!」
【SYSTEM】『進捗:41%』
「飛びすぎ!」
頭の中から、記憶が一枚ずつ剥がされていく。
深夜のオフィス。
赤いエラーログ。
後輩男子から伝えられる攻略報告。
リンゴ箱へ頭から突っ込んだアレク。
運搬台を誇らしげに押すリリ。
「消させるものですか!」
頭が白くなっていく中で、空中へ手を伸ばし、初期化の進捗表示をつかもうとする。
【SYSTEM】『進捗:86%』
「停止! 中断! 強制終了!」
【SYSTEM】『操作権限がありません』
【SYSTEM】『進捗:87%』
そこで、表示が止まった。
【SYSTEM】『対象個体の参照先を見失いました』
【SYSTEM】『現在地が正規マップへ登録されていません』
【SYSTEM】『処理を保留します』
「削除領域へ落としたせいで、自分から対象の現在地を見失ったの!?」
この世界のシステムは、私を消すことさえ正常に完了できないらしい。
「助かったけれど、運用がずさんすぎでは?!」
直後。
背中から、何か硬いものへ叩きつけられた。
ドッッッゴォン!!
「いっっっっったぁ……!」
【SYSTEM】『落下ダメージ:3』
「世界から消されかけているのに、腰への物理ダメージは律儀に入るのね……!」
しばらく仰向けで痛みに耐え、それから腰を押さえて起き上がる。
足元の床は半透明だった。その下を、無数の文字列が濁流のように流れている。
見渡せば、右半分だけ作られた城。空中へ浮かぶ扉。地面から生えた階段。上下逆さまの森。色が塗られていない頭だけの魔物が、何事もなかったように空を泳いでいた。
「ここは……学園地下の、さらに下?」
【SYSTEM】『未使用領域』
【SYSTEM】『破損データおよび削除予定データを保管しています』
【SYSTEM】『通常のキャラクターは立ち入りできません』
「では、通常の場所へ帰して」
【SYSTEM】『対応する出口が見つかりません』
「でしょうね!」
宙に浮いた扉を開く。
扉の向こうには、空間ではなく『扉の裏側のグラフィック』があった。
「ただのハリボテ!」
階段を上る。
十三段目から先が存在せず、そのまま奈落へ続いている。
「設計途中で放置するな!」
壁へ触れる。
指が第二関節までぬるりとめり込んだ。
【SYSTEM】『当たり判定が設定されていません』
「壁としての最低限の仕事を放棄しないで!」
出口なし。通信手段なし。
初期化の進捗は、いつ再開するか分からない八十七パーセント。
「まずは出口の検索。次に初期化の完全停止。そのあとで、この劣悪なシステム開発会社へ正式に苦情を――」
そこまで考えた時、
ぞくり、と。
背骨を氷の刃でなぞられたような悪寒が走った。
軽口が、喉の奥で止まった。
半透明の床が低く唸り、黒い稲妻が空間を走る。
好き勝手に漂っていた破損データが、一斉に動きを止める。空を泳いでいた魔物の頭部が、逃げるように暗闇へ消える。逆さまの森が軋み、存在しない風へ枝を伏せた。
空間そのものが、何かへひれ伏しているかのような。
「何、この魔力……」
肺が押し潰されるような感覚。
呼吸が浅くなり、膝が震えた。
怖い。
この世界へ来てから初めて、強がるための言葉すら出てこないほど、身体の芯から恐怖した。
【SYSTEM】『マナを測定中』
【SYSTEM】『測定上限を超過』
【SYSTEM】『エーテルを測定中』
【SYSTEM】『測定上限を超過』
【SYSTEM】『桁あふれが発生しました』
【SYSTEM】『測定機能を停止します』
「両方とも、桁あふれ……?」
恐怖の底で、頭の片隅が場違いに冷静な声を上げた。
諦めたのではない。数値が入る器の方が壊れて、測定処理が例外で落ちたのだ。
――昨日、私が探していた数字だ。
マナも、エーテルも、測定上限を超過。世界を管理する側の測定器が、桁を用意できていない。
私の十七行を走らせるのに必要な、桁違いの器と、桁違いの速さ。
それが今、目の前から歩いてくる。
最悪の形で。
暗闇の奥から、低い声が響いた。
低いのに、太くない。
よく通る、硬質で、澄んだ声だ。楽器で言えば弦ではなく、金属を細く長く引き伸ばしたような響き。
男の声だと思った。だが、男の声にしては、どこか妙に高い場所で鳴っている。
「……ネズミが一匹、迷い込んだか」
コツ。
コツ。
硬い足音とともに、二つの赤い瞳が闇へ浮かぶ。
最初に見えたのは、夜そのものを切り取ったような黒髪。
次に、長い漆黒の外套。
人間離れした白い肌。
血の色をした冷酷な瞳。
そして、見る者を屈服させるために造形されたとしか思えない、恐ろしいほど端整な顔立ち。
長身の男が一歩進むたび、周囲のノイズが押し退けられ、足元へ黒い道が作られていく。
【SYSTEM】『個体情報を取得中』
【SYSTEM】『名称:ノクス・ヴァルグラム』
【SYSTEM】『称号:終焉の魔王』
【SYSTEM】『役割:最終ボス』
【SYSTEM】『マナ:測定不能』
【SYSTEM】『エーテル:測定不能』
【SYSTEM】『対戦相手:マナ12/エーテル9』
【SYSTEM】『勝率を計算中……』
【SYSTEM】『計算する必要がありません』
「そこは最後まで計算という仕事をなさいよ……」
【SYSTEM】『逃走成功率:0%』
「絶望的な追い打ちだけは正確!」
ノクス・ヴァルグラム。
燃え落ちる王都。崩壊する大地。黒い玉座で勇者一行を待つ、世界最後の敵。
本来なら、アレクが七人のヒロインを攻略し、好感度によって聖剣を覚醒させ、伝説の装備を揃え、数十時間の長いレベル上げを終えたあとにようやく挑むラスボスだ。
それを私は、ゲーム開始直後の装備なし、仲間なし、セーブ機能なしの状態で引き当てたらしい。
「図書館から落ちたらラスボスの目の前って、欠陥仕様にも限度があるでしょ!」
【SYSTEM】『Hidden Event(隠しイベント):終焉との邂逅』
【SYSTEM】『難易度を調整しますか?』
「できるの?」
【SYSTEM】『できません』
「だったら、聞くな!」
ノクスは私の目前で足を止めた。
赤い瞳が、頭から爪先まで私を観察する。
「なぜ、人間がここにいる」
「こちらが聞きたいのだけれど」
赤い瞳が、わずかに細くなった。
しまった。
相手は無茶を言う取引先でも、怒鳴り込んできたクレーマーでもない。
「事情がありまして、図書館の床から落ちました」
「そうか」
「納得するの?」
「ここでは、何が落ちてきても不思議ではない」
「それはそう」
わずかに会話が成立した。
助かる可能性がある――。
「だが」
ノクスが右手を上げた。
「ここを知った人間を生かして帰す理由もない」
指先へ、小さな黒い炎が灯る。
たった、それだけで、空間の温度が跳ね上がった。
遠くに浮いていた城の残骸が、音もなく蒸発した。
上下逆さまの森が、一瞬で灰へ変わる。
宙に浮いていた扉が燃え落ち、存在しなかったはずの逃走経路まで、一本残らず黒炎に飲み込まれた。
肌が焼けそうに熱い。
喉が乾く。まだ発射すらされていない。
指先へ灯っているだけの炎で、これだった。
【SYSTEM】『警告:即死級攻撃を検知』
【SYSTEM】『防御を推奨します』
「見れば分かる!」
「ここで死ねば、お前は無に還る」
黒い炎が、少しずつ凝縮されていく。
「魂も、記憶も、痛みも残らん」
「ずいぶん丁寧な説明だこと!」
「せめてもの慈悲だ」
「お気遣い、どうも」
冗談を返した声が、震えていた。
逃げられない。
勝てない。
誰かが助けに来ることもない。
それでも。
世界の都合で記憶を消されることを拒んでおきながら、魔王の都合なら黙って消える。
――そんな終わり方も御免だ!
「まだ、ゼロじゃない」
私は震える指を空中へ走らせた。
防御術式を展開する。
【SYSTEM】『防御変数:上限へ固定』
【SYSTEM】『第一層:衝撃分散』
【SYSTEM】『第二層:熱量変換』
【SYSTEM】『第三層:着弾座標偏向』
【SYSTEM】『第四層:余剰マナを未使用領域へ放出』
使える処理を、片端から重ねる。
空中へ、薄い光の壁が一枚、二枚、三枚と展開された。
ノクスの黒炎と比べれば、紙を重ねただけのように頼りない。
【SYSTEM】『防御成功率を算出中』
【SYSTEM】『0.000003%』
「〇・〇〇〇〇〇三パーセント……っ」
【SYSTEM】『表示桁数を調整します』
【SYSTEM】『防御成功率:0%』
「今、丸めるなあああ!」
成功率は、限りなくゼロに近い。
けれど、ゼロではない。
私は両脚を踏ん張り、ノクスを睨み返した。
「来なさい。最終ボス」
「面白い」
ノクスの赤い瞳が、ほんのわずかに細くなる。
「さらばだ。名も知らぬ人間」
黒炎が放たれようとする――。
その、直前。
ピィィィィィィィィィッ!!
私とノクスの間へ、巨大な赤いウィンドウが滑り込んだ。
【SYSTEM】『対象個体の参照先を再取得しました』
【SYSTEM】『対象個体:フェリシア・ルミナリア』
【SYSTEM】『保留していた処理を再開します』
【SYSTEM】『強制初期化:87%』
「今!? 見失っていたなら、そのまま忘れていなさいよ!」
ノクスの黒炎が、ぴたりと止まった。
「……フェリシア・ルミナリア」
「え?」
冷酷だった赤い瞳へ、初めて明確な驚きが浮かんでいた。
彼は私を見ていない。
私の顔の横に浮かぶ、赤いウィンドウを凝視している。
【SYSTEM】『前世由来の記憶を削除します』
【SYSTEM】『自律思考を削除します』
【SYSTEM】『ヒロイン人格 Ver.1.0へ強制復元します』
「『前世由来の記憶を削除する』――か」
ノクスが、一文字ずつ確かめるように読み上げた。
息が止まった。
「……読めるの?」
「『自律思考を削除。ヒロイン人格へ強制復元』」
間違いない。
偶然、名前を口にしたのではない。
この男は、読んでいる。
私にしか見えないはずの、赤い警告文を。
でも、と頭の片隅が訂正を入れる。
彼が口にしたのは、表示された日本語そのままだ。術式の中身ではない。
画面に出ているエラーメッセージを読めることと、その裏で何行目がどう動いているのかを読めることは、全く別の能力だ。
【SYSTEM】『警告』
【SYSTEM】『許可されていない個体からの閲覧を検知』
【SYSTEM】『表示位置を変更します』
ウィンドウが右へ逃げた。
ノクスの目も右へ動く。
【SYSTEM】『表示位置を変更します』
「……鬱陶しい」
赤いウィンドウが、逃げるように暗闇へ飛び去ろうとする。
ノクスが右手を伸ばした。
何もない空中で、その縁をつかむ。
【SYSTEM】『警告:システム表示への接触は禁止されています』
「知るか」
指先へ、黒い魔力が集まった。
バキィィィン!!
赤いウィンドウが、ガラスのように粉砕された。
初期化の進捗表示も、光の破片となって闇へ散る。
「ウィンドウをいとも簡単に……」
私が何度も叩き、踏みつけて壊してきた強制表示を、この男は、指一本で粉砕した。
気づけば、ノクスから殺意は完全に消え失せていた。
代わりにその赤い瞳へ宿っていたのは、途方もない時間をかけて探し求めていた答えに、ようやく辿り着いた者の光……。
「答えろ」
「何を?」
ノクスが、空中に散った赤いシステムの破片を指先でつまみ上げる。
この世界の住人には絶対に触れられないはずの『メタな次元』の残骸を弄びながら、彼は静かに口を開いた。
「お前も、この世界の『枠』が――」
真っ直ぐに射抜くような赤い瞳と、私の青い瞳が交差する。
「この世界のバグが、視えているのか?」
私は、息を呑んだ。
彼はゲームのNPCだ。決められた台詞を話し、決められた場所で待ち、最後は勇者に敗れて物語を完成させるためだけに存在する『最後の敵』。
そのはずの男が。
今、私と完全に同じ「メタな視点」を共有している。
暗闇の奥で、無機質な赤い警告光が再び明滅を始める。
【SYSTEM】『致命的なエラーを検出しました』
【SYSTEM】『修正対象:フェリシア・ルミナリア』
【SYSTEM】『修正対象:終焉の魔王ノクス』
【SYSTEM】『修正対象が、二名へ増加しました』
私の絶叫は、底なしの暗闇へ延々と反響していた。
上も下も分からない。
重力がどちらへ働いているのかも分からない。
ただ、胃が喉元へ押し上げられる感覚だけが、私が猛烈な速度で落下していることを教えてくれている。
周囲を流れているのは、緑色の文字列。
途中までしか描かれていない魔法陣。
顔のない人間の輪郭。
『こんにちは、旅のお方――』とだけ繰り返す壊れた台詞。
扉だけ。
屋根だけ。
建物の右半分だけ。
世界を作る途中で捨てられたデータが収められた『ゴミ箱』の濁流の中を、私はどこまでも落ちていく。
【SYSTEM】『強制初期化を実行中』
【SYSTEM】『進捗:1%』
「一パーセント……。遅い。この速度なら割り込み方法を――」
【SYSTEM】『進捗:2%』
【SYSTEM】『残り時間を再計算しました』
【SYSTEM】『約3秒』
「急に速くなるな!」
【SYSTEM】『進捗:41%』
「飛びすぎ!」
頭の中から、記憶が一枚ずつ剥がされていく。
深夜のオフィス。
赤いエラーログ。
後輩男子から伝えられる攻略報告。
リンゴ箱へ頭から突っ込んだアレク。
運搬台を誇らしげに押すリリ。
「消させるものですか!」
頭が白くなっていく中で、空中へ手を伸ばし、初期化の進捗表示をつかもうとする。
【SYSTEM】『進捗:86%』
「停止! 中断! 強制終了!」
【SYSTEM】『操作権限がありません』
【SYSTEM】『進捗:87%』
そこで、表示が止まった。
【SYSTEM】『対象個体の参照先を見失いました』
【SYSTEM】『現在地が正規マップへ登録されていません』
【SYSTEM】『処理を保留します』
「削除領域へ落としたせいで、自分から対象の現在地を見失ったの!?」
この世界のシステムは、私を消すことさえ正常に完了できないらしい。
「助かったけれど、運用がずさんすぎでは?!」
直後。
背中から、何か硬いものへ叩きつけられた。
ドッッッゴォン!!
「いっっっっったぁ……!」
【SYSTEM】『落下ダメージ:3』
「世界から消されかけているのに、腰への物理ダメージは律儀に入るのね……!」
しばらく仰向けで痛みに耐え、それから腰を押さえて起き上がる。
足元の床は半透明だった。その下を、無数の文字列が濁流のように流れている。
見渡せば、右半分だけ作られた城。空中へ浮かぶ扉。地面から生えた階段。上下逆さまの森。色が塗られていない頭だけの魔物が、何事もなかったように空を泳いでいた。
「ここは……学園地下の、さらに下?」
【SYSTEM】『未使用領域』
【SYSTEM】『破損データおよび削除予定データを保管しています』
【SYSTEM】『通常のキャラクターは立ち入りできません』
「では、通常の場所へ帰して」
【SYSTEM】『対応する出口が見つかりません』
「でしょうね!」
宙に浮いた扉を開く。
扉の向こうには、空間ではなく『扉の裏側のグラフィック』があった。
「ただのハリボテ!」
階段を上る。
十三段目から先が存在せず、そのまま奈落へ続いている。
「設計途中で放置するな!」
壁へ触れる。
指が第二関節までぬるりとめり込んだ。
【SYSTEM】『当たり判定が設定されていません』
「壁としての最低限の仕事を放棄しないで!」
出口なし。通信手段なし。
初期化の進捗は、いつ再開するか分からない八十七パーセント。
「まずは出口の検索。次に初期化の完全停止。そのあとで、この劣悪なシステム開発会社へ正式に苦情を――」
そこまで考えた時、
ぞくり、と。
背骨を氷の刃でなぞられたような悪寒が走った。
軽口が、喉の奥で止まった。
半透明の床が低く唸り、黒い稲妻が空間を走る。
好き勝手に漂っていた破損データが、一斉に動きを止める。空を泳いでいた魔物の頭部が、逃げるように暗闇へ消える。逆さまの森が軋み、存在しない風へ枝を伏せた。
空間そのものが、何かへひれ伏しているかのような。
「何、この魔力……」
肺が押し潰されるような感覚。
呼吸が浅くなり、膝が震えた。
怖い。
この世界へ来てから初めて、強がるための言葉すら出てこないほど、身体の芯から恐怖した。
【SYSTEM】『マナを測定中』
【SYSTEM】『測定上限を超過』
【SYSTEM】『エーテルを測定中』
【SYSTEM】『測定上限を超過』
【SYSTEM】『桁あふれが発生しました』
【SYSTEM】『測定機能を停止します』
「両方とも、桁あふれ……?」
恐怖の底で、頭の片隅が場違いに冷静な声を上げた。
諦めたのではない。数値が入る器の方が壊れて、測定処理が例外で落ちたのだ。
――昨日、私が探していた数字だ。
マナも、エーテルも、測定上限を超過。世界を管理する側の測定器が、桁を用意できていない。
私の十七行を走らせるのに必要な、桁違いの器と、桁違いの速さ。
それが今、目の前から歩いてくる。
最悪の形で。
暗闇の奥から、低い声が響いた。
低いのに、太くない。
よく通る、硬質で、澄んだ声だ。楽器で言えば弦ではなく、金属を細く長く引き伸ばしたような響き。
男の声だと思った。だが、男の声にしては、どこか妙に高い場所で鳴っている。
「……ネズミが一匹、迷い込んだか」
コツ。
コツ。
硬い足音とともに、二つの赤い瞳が闇へ浮かぶ。
最初に見えたのは、夜そのものを切り取ったような黒髪。
次に、長い漆黒の外套。
人間離れした白い肌。
血の色をした冷酷な瞳。
そして、見る者を屈服させるために造形されたとしか思えない、恐ろしいほど端整な顔立ち。
長身の男が一歩進むたび、周囲のノイズが押し退けられ、足元へ黒い道が作られていく。
【SYSTEM】『個体情報を取得中』
【SYSTEM】『名称:ノクス・ヴァルグラム』
【SYSTEM】『称号:終焉の魔王』
【SYSTEM】『役割:最終ボス』
【SYSTEM】『マナ:測定不能』
【SYSTEM】『エーテル:測定不能』
【SYSTEM】『対戦相手:マナ12/エーテル9』
【SYSTEM】『勝率を計算中……』
【SYSTEM】『計算する必要がありません』
「そこは最後まで計算という仕事をなさいよ……」
【SYSTEM】『逃走成功率:0%』
「絶望的な追い打ちだけは正確!」
ノクス・ヴァルグラム。
燃え落ちる王都。崩壊する大地。黒い玉座で勇者一行を待つ、世界最後の敵。
本来なら、アレクが七人のヒロインを攻略し、好感度によって聖剣を覚醒させ、伝説の装備を揃え、数十時間の長いレベル上げを終えたあとにようやく挑むラスボスだ。
それを私は、ゲーム開始直後の装備なし、仲間なし、セーブ機能なしの状態で引き当てたらしい。
「図書館から落ちたらラスボスの目の前って、欠陥仕様にも限度があるでしょ!」
【SYSTEM】『Hidden Event(隠しイベント):終焉との邂逅』
【SYSTEM】『難易度を調整しますか?』
「できるの?」
【SYSTEM】『できません』
「だったら、聞くな!」
ノクスは私の目前で足を止めた。
赤い瞳が、頭から爪先まで私を観察する。
「なぜ、人間がここにいる」
「こちらが聞きたいのだけれど」
赤い瞳が、わずかに細くなった。
しまった。
相手は無茶を言う取引先でも、怒鳴り込んできたクレーマーでもない。
「事情がありまして、図書館の床から落ちました」
「そうか」
「納得するの?」
「ここでは、何が落ちてきても不思議ではない」
「それはそう」
わずかに会話が成立した。
助かる可能性がある――。
「だが」
ノクスが右手を上げた。
「ここを知った人間を生かして帰す理由もない」
指先へ、小さな黒い炎が灯る。
たった、それだけで、空間の温度が跳ね上がった。
遠くに浮いていた城の残骸が、音もなく蒸発した。
上下逆さまの森が、一瞬で灰へ変わる。
宙に浮いていた扉が燃え落ち、存在しなかったはずの逃走経路まで、一本残らず黒炎に飲み込まれた。
肌が焼けそうに熱い。
喉が乾く。まだ発射すらされていない。
指先へ灯っているだけの炎で、これだった。
【SYSTEM】『警告:即死級攻撃を検知』
【SYSTEM】『防御を推奨します』
「見れば分かる!」
「ここで死ねば、お前は無に還る」
黒い炎が、少しずつ凝縮されていく。
「魂も、記憶も、痛みも残らん」
「ずいぶん丁寧な説明だこと!」
「せめてもの慈悲だ」
「お気遣い、どうも」
冗談を返した声が、震えていた。
逃げられない。
勝てない。
誰かが助けに来ることもない。
それでも。
世界の都合で記憶を消されることを拒んでおきながら、魔王の都合なら黙って消える。
――そんな終わり方も御免だ!
「まだ、ゼロじゃない」
私は震える指を空中へ走らせた。
防御術式を展開する。
【SYSTEM】『防御変数:上限へ固定』
【SYSTEM】『第一層:衝撃分散』
【SYSTEM】『第二層:熱量変換』
【SYSTEM】『第三層:着弾座標偏向』
【SYSTEM】『第四層:余剰マナを未使用領域へ放出』
使える処理を、片端から重ねる。
空中へ、薄い光の壁が一枚、二枚、三枚と展開された。
ノクスの黒炎と比べれば、紙を重ねただけのように頼りない。
【SYSTEM】『防御成功率を算出中』
【SYSTEM】『0.000003%』
「〇・〇〇〇〇〇三パーセント……っ」
【SYSTEM】『表示桁数を調整します』
【SYSTEM】『防御成功率:0%』
「今、丸めるなあああ!」
成功率は、限りなくゼロに近い。
けれど、ゼロではない。
私は両脚を踏ん張り、ノクスを睨み返した。
「来なさい。最終ボス」
「面白い」
ノクスの赤い瞳が、ほんのわずかに細くなる。
「さらばだ。名も知らぬ人間」
黒炎が放たれようとする――。
その、直前。
ピィィィィィィィィィッ!!
私とノクスの間へ、巨大な赤いウィンドウが滑り込んだ。
【SYSTEM】『対象個体の参照先を再取得しました』
【SYSTEM】『対象個体:フェリシア・ルミナリア』
【SYSTEM】『保留していた処理を再開します』
【SYSTEM】『強制初期化:87%』
「今!? 見失っていたなら、そのまま忘れていなさいよ!」
ノクスの黒炎が、ぴたりと止まった。
「……フェリシア・ルミナリア」
「え?」
冷酷だった赤い瞳へ、初めて明確な驚きが浮かんでいた。
彼は私を見ていない。
私の顔の横に浮かぶ、赤いウィンドウを凝視している。
【SYSTEM】『前世由来の記憶を削除します』
【SYSTEM】『自律思考を削除します』
【SYSTEM】『ヒロイン人格 Ver.1.0へ強制復元します』
「『前世由来の記憶を削除する』――か」
ノクスが、一文字ずつ確かめるように読み上げた。
息が止まった。
「……読めるの?」
「『自律思考を削除。ヒロイン人格へ強制復元』」
間違いない。
偶然、名前を口にしたのではない。
この男は、読んでいる。
私にしか見えないはずの、赤い警告文を。
でも、と頭の片隅が訂正を入れる。
彼が口にしたのは、表示された日本語そのままだ。術式の中身ではない。
画面に出ているエラーメッセージを読めることと、その裏で何行目がどう動いているのかを読めることは、全く別の能力だ。
【SYSTEM】『警告』
【SYSTEM】『許可されていない個体からの閲覧を検知』
【SYSTEM】『表示位置を変更します』
ウィンドウが右へ逃げた。
ノクスの目も右へ動く。
【SYSTEM】『表示位置を変更します』
「……鬱陶しい」
赤いウィンドウが、逃げるように暗闇へ飛び去ろうとする。
ノクスが右手を伸ばした。
何もない空中で、その縁をつかむ。
【SYSTEM】『警告:システム表示への接触は禁止されています』
「知るか」
指先へ、黒い魔力が集まった。
バキィィィン!!
赤いウィンドウが、ガラスのように粉砕された。
初期化の進捗表示も、光の破片となって闇へ散る。
「ウィンドウをいとも簡単に……」
私が何度も叩き、踏みつけて壊してきた強制表示を、この男は、指一本で粉砕した。
気づけば、ノクスから殺意は完全に消え失せていた。
代わりにその赤い瞳へ宿っていたのは、途方もない時間をかけて探し求めていた答えに、ようやく辿り着いた者の光……。
「答えろ」
「何を?」
ノクスが、空中に散った赤いシステムの破片を指先でつまみ上げる。
この世界の住人には絶対に触れられないはずの『メタな次元』の残骸を弄びながら、彼は静かに口を開いた。
「お前も、この世界の『枠』が――」
真っ直ぐに射抜くような赤い瞳と、私の青い瞳が交差する。
「この世界のバグが、視えているのか?」
私は、息を呑んだ。
彼はゲームのNPCだ。決められた台詞を話し、決められた場所で待ち、最後は勇者に敗れて物語を完成させるためだけに存在する『最後の敵』。
そのはずの男が。
今、私と完全に同じ「メタな視点」を共有している。
暗闇の奥で、無機質な赤い警告光が再び明滅を始める。
【SYSTEM】『致命的なエラーを検出しました』
【SYSTEM】『修正対象:フェリシア・ルミナリア』
【SYSTEM】『修正対象:終焉の魔王ノクス』
【SYSTEM】『修正対象が、二名へ増加しました』

