同じ頃、私は中庭のベンチで、分厚い魔導書を優雅に読んでいた。
【SYSTEM】『勇者との正門再会イベント:失敗』
【SYSTEM】『勇者との隣席イベント:失敗』
【SYSTEM】『同時返答による相性演出:失敗』
【SYSTEM】『居眠りした勇者を優しく起こすイベント:失敗』
【SYSTEM】『学園編・勇者ルートの開始に失敗しました』
「よっし、一連の入学式の出会いイベントのスキップに成功!」
会心の笑みを浮かべながら、魔導書を一ページめくる。世界が用意した大イベントを丸ごとキャンセルして読む魔導書は、たいへんよく頭へ入った。
その時、
――ガッシャガッシャガッシャ。
鉄とガラスと紙がぶつかり合うような音が、近づいてきた。
「ふぇぇぇ……前が見えないですぅ……!」
小柄な少女が、自分の背丈より高い荷物の塔を抱えて中庭へ入ってきた。
ふわふわのピンク髪。大きな緑の瞳。庇護欲を刺激する小動物のような容姿の美少女だ。
彼女の腕の中に積み上がっているのは、枕、魔導書十冊、薬品入りのガラス瓶、花瓶、植木鉢、そして巨大な鉄鍋……。
重心という概念に、正面から宣戦布告したような積み方である。
【SYSTEM】『攻略対象ヒロイン:リリ・フローレンス』
【SYSTEM】『属性:ドジっ子/小動物系/後輩』
【SYSTEM】『固有イベント:転倒救出』
リリは私と同じく『聖剣のラバーズ』のヒロインの一人だ。

固有イベントが『転倒救出』ということは、たぶん、本来であれば、ここでリリが転ぶのだろう。そして、それをたまたま通りかかったアレクが華麗に抱き留めて救う。それで勇者への好感度が一気に上がる、リリ・ルートの最初のフラグ。実にゲームらしい、『偶然』を重機で固定したようなイベントだ。
しかし、肝心のアレクはというと……正門で花束とともに立ち枯れている。
【SYSTEM】『救出担当:勇者アレク』
【SYSTEM】『現在地を検索中……』
その時、
「ふぇ?」
リリの爪先の石畳が、唐突に二センチだけ盛り上がった。
世界、まさかの当たり判定への物理介入。
「きゃああああああっ!?」
リリの身体が傾いた。
枕が飛び、ガラス瓶が陽光を反射しながら宙を舞った。
魔導書十冊が開き、植木鉢が回転し、最後に巨大な鉄鍋がリリの頭めがけて落下し始める。
【SYSTEM】『救出イベントを開始します』
【SYSTEM】『勇者を検索中……』
【SYSTEM】『勇者を検索中……』
【SYSTEM】『勇者を検索中……』
「検索が終わる前に、イベント開始するなーーー!!」
私は魔導書を放り出し、空中に展開した仮想コンソールへ両手を突き出した。
「浮遊・飛行系の重力モジュールを強制流用! 単体指定だったターゲットを落下物と少女の計二十三個の配列へ拡張し、上方向への加速度をゼロへ上書き、さらに座標指定と組み合わせてその場で空間固定――『重力固定』!」
パァンッ!!
リリの鼻先、一センチーー。
石畳すれすれで、少女の身体がピタリと止まる。
同時に、鉄鍋も、植木鉢も、飛び散ったガラス瓶も、すべてが空中へ縫い留められた。
「ふ、ふぇ……? 私、生きてます……?」
「生きています……わ。怪我は?」
「ないですぅ……!」
私は宙に浮いた荷物を組み直す。
鉄鍋と本は下。割れ物は衣類で挟んで中央。枕は一番上。最後に紐で十字に固定した。
「重量物は下。重心を低く。割れ物は柔らかい物で保護。枕を一番下へ置いても、三十キロ載せた時点でただの薄い布に変わりますわ」
「枕って、そんな簡単に枕じゃなくなるんですね……!」
「今日知れてよかったですわね」
リリの身体を起こし、重力を元へ戻す。
それと同時に、遠くから、馬のいななきのような声が近づいてきた。
「待ったああああああああああ!」
勇者アレクである。
巨大な花束を抱えたまま正門から全力疾走し、噴水を飛び越え、植え込みへ突っ込み、花びらと葉と小枝を全身へ貼りつけて中庭へ転がり込んでくる。
「よしっ! 間に合った!」
アレクは派手に転げ込んだ事実をなかったことにして、リリを抱き留める予定だった両腕を格好よく広げた。
「もう大丈夫だよ、可愛い後輩さん。怪我はないかい?」
リリはぽかんと口を開ける。
突然現れてキメ顔をしている目の前の男に、困惑している様子だった。
「えっと……?」
そして助けを求めるように、私の袖をきゅっとつかんだ。
「あの……この人、何もしてないですよね……? なのに……こわい」
その途端に、空中のシステムウィンドウが激しく明滅し始めた。
【SYSTEM】『イベント実行者が規定と一致しません』
【SYSTEM】『結果を正規シナリオへ強制補正します』
【SYSTEM】『救出担当:勇者アレク』
【SYSTEM】『リリ → アレク 好感度:0 → 20』
警告音と共に、理不尽な桃色の光が、リリへ降り注いだ。
風が吹いた。噴水が輝いた。白い鳩がいっせいに飛び立った。どこからともなく甘い音楽まで流れ始める。
完璧な恋の始まりを演出する、強制的なシステム補正……。
――しかし。
「……あの」
リリは降ってくる光を不思議そうに見上げ、目をパチクリとさせてから、アレクを見た。
「助けてくれたのは、ここのお姉さまなんですけど」
「え?」
アレクの笑顔が固まる。
「荷物を止めてくれたのも、私を起こしてくれたのも、正しい積み方を教えてくれたのも、お姉さまです。ですから……」
リリはぺこりと頭を下げて、にっこり笑った。
「さようなら、面白いお兄さん」
その無垢で素直な言葉が響いた瞬間。
パキンッ、と。
見えない何かが――システムが強制的に立てようとした恋愛フラグが、呆気なく折れる音がした。天空から降ってきた光が、粉々に砕けちる。
流れていた甘い音楽が盛大に音を外して止まる。
鳩がUターンして帰っていった。
当のリリはまるで気づいていない様子で、組み直した荷物の塔をよいしょと抱え上げた。
「お姉さま、本当にありがとうございましたっ! 私、また積み方を教えてほしいですぅ!」
「フェリシア・ルミナリアよ。積み方くらい、いつでも教えてあげましてよ」
「フェリシアお姉さま……! 私、リリ・フローレンスですっ!」
律儀にもう一度頭を下げると、リリは今度こそ安定した足取りで、とてとてと中庭を横切っていった。枕は、ちゃんと一番上に載っていた。
中庭に取り残されたのは、両腕を広げたまま固まるアレクと、十五キロの花束だった。
【SYSTEM】『リリ → アレク 好感度:20 → 0』
【SYSTEM】『対象の意思により、補正値が破棄されました』
「……あら」
思わず声が出た。
さっきシステムが強引に流し込んだ二十が、きれいさっぱり巻き戻されている。
【SYSTEM】『好感度加算:失敗』
【SYSTEM】『規定値を再送信します』
【SYSTEM】『エラー:対象の感情と論理的に合致しません』
【SYSTEM】『フラグの修復に失敗しました』
空中で赤い警告表示が増殖し、システムが必死に二十を書き戻そうと処理を繰り返している。だが、結果はすべてエラー。入力するそばから、リリ自身の気持ちが上書きし返している。
「……なるほど」
私は内心でひそかに感心していた。
ゲームの世界とはいえ、この世界の住人には「キャラクターの気持ち」に相当する内部ロジックがちゃんと存在しているらしい。
しかも、それはシステムからの干渉を突っぱねるどころか、書き込まれた数値を上書きし返すこともある。目の前の出来事と真逆の感情まで、外部から一瞬で固定できるほど単純な仕様ではないらしい。
「これなら、誰かとのエンドを強制されることはないわね」
キャラクターの気持ちと言えば……。
アレクは、広げた両腕をどうしていいか分からず、わなわなと震えている。
私はそんな彼を見て小首を傾げ、ちょこんと唇に指を当てて尋ねた。
「……気になっていたのですけれど。あなたがさっきから抱えているその巨大な花束、何ですの?」
「えっ? あ、これ……本当は、入学式の前にフェリシアに渡そうと思ってて……」
しょんぼりと肩を落とす姿は、巨大な花束を抱えた大型犬のようだった。
彼は三時間も正門で待っていた。十五キロの花を誰にも渡せないまま、入学式まで逃した。
それを笑って終わらせるのは、さすがに少し可哀想だ。そもそも、私が戦うべき相手は、人の心を勝手に操作するクソシステム。アレクではない。彼もまた、決められた役を演じさせられている側だ。
「でしたら、入学祝いとして私がいただきますわ」
「……え?」
「せっかく用意してくださったのでしょう?」
私は両腕を差し出し、巨大な花束を受け取った。
「お、重っ!?」
想像以上の重量が腕へ食い込み、膝が一瞬だけ沈む。
どうして入学祝いへ十五キロも用意した。半分は筋力訓練ではないか。
それでも何とか抱え直し、花の向こうから顔を出す。
「お花、ありがとうございます。と、とても綺麗ですわ」
花に負けないくらい華やかな笑顔を向けると、アレクの顔がぱっと明るくなった。
「フェリシア……!」
「さあ、勇者様。いつまでも落ち込んでいないで、早く教室へ向かいなさいな」
「……うん! ありがとう、フェリシア!」
アレクは満面の笑みを浮かべて、元気に中庭を駆けていった。
【SYSTEM】『アレク → フェリシア 信頼度:微増』
【SYSTEM】『恋愛イベント:非検知』
空中のウィンドウに表示された文字を見て、私は満足げに頷いた。
強制的な恋愛フラグは立たなくても、人としての関係はちゃんと築ける。
「これでいいのよ」
花束を抱え直した私は、次なる本番環境=教室へと向かうべく、ご機嫌な足取りで歩き出した。
* * *
その光景を見ていた者たちがいた。
中庭を囲む回廊に、金髪縦ロールの公爵令嬢ステラ。
噴水の向こうに、青髪の剣士ミラ。
階段脇には、眼鏡をかけた秀才ナナ。
開いた窓辺には、黒髪の天才魔術師イリス。
そして木陰の長椅子には、白髪の病弱聖女ソフィア。
全員が、まるで美少女ゲームのパッケージから抜け出してきたような、属性の違う完璧な美少女たち。
そして全員が、このあと順番にアレクと出会い、助けられたり、負けたり、倒れたり、とにかくなんやかんやあって、半強制的に恋へ落ちる予定になっている。
「そうか。フラグって折れるんだ……」
誰かが呟いた。
その一言は、火花のように残る四人の瞳へ飛び移った。
【SYSTEM】『被攻略対象による正規恋愛フラグの破棄を検知』
【SYSTEM】『反抗的自我の伝播を確認』
【SYSTEM】『感染源を検索中……』
この日、スキップされたのは、入学式だけではなかった。
一人のヒロインが、世界から割り当てられた恋を、自分の手でへし折った。
そして、その『バグの起こし方』を、残る五人がしっかりと見ていた。
【SYSTEM】『勇者との正門再会イベント:失敗』
【SYSTEM】『勇者との隣席イベント:失敗』
【SYSTEM】『同時返答による相性演出:失敗』
【SYSTEM】『居眠りした勇者を優しく起こすイベント:失敗』
【SYSTEM】『学園編・勇者ルートの開始に失敗しました』
「よっし、一連の入学式の出会いイベントのスキップに成功!」
会心の笑みを浮かべながら、魔導書を一ページめくる。世界が用意した大イベントを丸ごとキャンセルして読む魔導書は、たいへんよく頭へ入った。
その時、
――ガッシャガッシャガッシャ。
鉄とガラスと紙がぶつかり合うような音が、近づいてきた。
「ふぇぇぇ……前が見えないですぅ……!」
小柄な少女が、自分の背丈より高い荷物の塔を抱えて中庭へ入ってきた。
ふわふわのピンク髪。大きな緑の瞳。庇護欲を刺激する小動物のような容姿の美少女だ。
彼女の腕の中に積み上がっているのは、枕、魔導書十冊、薬品入りのガラス瓶、花瓶、植木鉢、そして巨大な鉄鍋……。
重心という概念に、正面から宣戦布告したような積み方である。
【SYSTEM】『攻略対象ヒロイン:リリ・フローレンス』
【SYSTEM】『属性:ドジっ子/小動物系/後輩』
【SYSTEM】『固有イベント:転倒救出』
リリは私と同じく『聖剣のラバーズ』のヒロインの一人だ。

固有イベントが『転倒救出』ということは、たぶん、本来であれば、ここでリリが転ぶのだろう。そして、それをたまたま通りかかったアレクが華麗に抱き留めて救う。それで勇者への好感度が一気に上がる、リリ・ルートの最初のフラグ。実にゲームらしい、『偶然』を重機で固定したようなイベントだ。
しかし、肝心のアレクはというと……正門で花束とともに立ち枯れている。
【SYSTEM】『救出担当:勇者アレク』
【SYSTEM】『現在地を検索中……』
その時、
「ふぇ?」
リリの爪先の石畳が、唐突に二センチだけ盛り上がった。
世界、まさかの当たり判定への物理介入。
「きゃああああああっ!?」
リリの身体が傾いた。
枕が飛び、ガラス瓶が陽光を反射しながら宙を舞った。
魔導書十冊が開き、植木鉢が回転し、最後に巨大な鉄鍋がリリの頭めがけて落下し始める。
【SYSTEM】『救出イベントを開始します』
【SYSTEM】『勇者を検索中……』
【SYSTEM】『勇者を検索中……』
【SYSTEM】『勇者を検索中……』
「検索が終わる前に、イベント開始するなーーー!!」
私は魔導書を放り出し、空中に展開した仮想コンソールへ両手を突き出した。
「浮遊・飛行系の重力モジュールを強制流用! 単体指定だったターゲットを落下物と少女の計二十三個の配列へ拡張し、上方向への加速度をゼロへ上書き、さらに座標指定と組み合わせてその場で空間固定――『重力固定』!」
パァンッ!!
リリの鼻先、一センチーー。
石畳すれすれで、少女の身体がピタリと止まる。
同時に、鉄鍋も、植木鉢も、飛び散ったガラス瓶も、すべてが空中へ縫い留められた。
「ふ、ふぇ……? 私、生きてます……?」
「生きています……わ。怪我は?」
「ないですぅ……!」
私は宙に浮いた荷物を組み直す。
鉄鍋と本は下。割れ物は衣類で挟んで中央。枕は一番上。最後に紐で十字に固定した。
「重量物は下。重心を低く。割れ物は柔らかい物で保護。枕を一番下へ置いても、三十キロ載せた時点でただの薄い布に変わりますわ」
「枕って、そんな簡単に枕じゃなくなるんですね……!」
「今日知れてよかったですわね」
リリの身体を起こし、重力を元へ戻す。
それと同時に、遠くから、馬のいななきのような声が近づいてきた。
「待ったああああああああああ!」
勇者アレクである。
巨大な花束を抱えたまま正門から全力疾走し、噴水を飛び越え、植え込みへ突っ込み、花びらと葉と小枝を全身へ貼りつけて中庭へ転がり込んでくる。
「よしっ! 間に合った!」
アレクは派手に転げ込んだ事実をなかったことにして、リリを抱き留める予定だった両腕を格好よく広げた。
「もう大丈夫だよ、可愛い後輩さん。怪我はないかい?」
リリはぽかんと口を開ける。
突然現れてキメ顔をしている目の前の男に、困惑している様子だった。
「えっと……?」
そして助けを求めるように、私の袖をきゅっとつかんだ。
「あの……この人、何もしてないですよね……? なのに……こわい」
その途端に、空中のシステムウィンドウが激しく明滅し始めた。
【SYSTEM】『イベント実行者が規定と一致しません』
【SYSTEM】『結果を正規シナリオへ強制補正します』
【SYSTEM】『救出担当:勇者アレク』
【SYSTEM】『リリ → アレク 好感度:0 → 20』
警告音と共に、理不尽な桃色の光が、リリへ降り注いだ。
風が吹いた。噴水が輝いた。白い鳩がいっせいに飛び立った。どこからともなく甘い音楽まで流れ始める。
完璧な恋の始まりを演出する、強制的なシステム補正……。
――しかし。
「……あの」
リリは降ってくる光を不思議そうに見上げ、目をパチクリとさせてから、アレクを見た。
「助けてくれたのは、ここのお姉さまなんですけど」
「え?」
アレクの笑顔が固まる。
「荷物を止めてくれたのも、私を起こしてくれたのも、正しい積み方を教えてくれたのも、お姉さまです。ですから……」
リリはぺこりと頭を下げて、にっこり笑った。
「さようなら、面白いお兄さん」
その無垢で素直な言葉が響いた瞬間。
パキンッ、と。
見えない何かが――システムが強制的に立てようとした恋愛フラグが、呆気なく折れる音がした。天空から降ってきた光が、粉々に砕けちる。
流れていた甘い音楽が盛大に音を外して止まる。
鳩がUターンして帰っていった。
当のリリはまるで気づいていない様子で、組み直した荷物の塔をよいしょと抱え上げた。
「お姉さま、本当にありがとうございましたっ! 私、また積み方を教えてほしいですぅ!」
「フェリシア・ルミナリアよ。積み方くらい、いつでも教えてあげましてよ」
「フェリシアお姉さま……! 私、リリ・フローレンスですっ!」
律儀にもう一度頭を下げると、リリは今度こそ安定した足取りで、とてとてと中庭を横切っていった。枕は、ちゃんと一番上に載っていた。
中庭に取り残されたのは、両腕を広げたまま固まるアレクと、十五キロの花束だった。
【SYSTEM】『リリ → アレク 好感度:20 → 0』
【SYSTEM】『対象の意思により、補正値が破棄されました』
「……あら」
思わず声が出た。
さっきシステムが強引に流し込んだ二十が、きれいさっぱり巻き戻されている。
【SYSTEM】『好感度加算:失敗』
【SYSTEM】『規定値を再送信します』
【SYSTEM】『エラー:対象の感情と論理的に合致しません』
【SYSTEM】『フラグの修復に失敗しました』
空中で赤い警告表示が増殖し、システムが必死に二十を書き戻そうと処理を繰り返している。だが、結果はすべてエラー。入力するそばから、リリ自身の気持ちが上書きし返している。
「……なるほど」
私は内心でひそかに感心していた。
ゲームの世界とはいえ、この世界の住人には「キャラクターの気持ち」に相当する内部ロジックがちゃんと存在しているらしい。
しかも、それはシステムからの干渉を突っぱねるどころか、書き込まれた数値を上書きし返すこともある。目の前の出来事と真逆の感情まで、外部から一瞬で固定できるほど単純な仕様ではないらしい。
「これなら、誰かとのエンドを強制されることはないわね」
キャラクターの気持ちと言えば……。
アレクは、広げた両腕をどうしていいか分からず、わなわなと震えている。
私はそんな彼を見て小首を傾げ、ちょこんと唇に指を当てて尋ねた。
「……気になっていたのですけれど。あなたがさっきから抱えているその巨大な花束、何ですの?」
「えっ? あ、これ……本当は、入学式の前にフェリシアに渡そうと思ってて……」
しょんぼりと肩を落とす姿は、巨大な花束を抱えた大型犬のようだった。
彼は三時間も正門で待っていた。十五キロの花を誰にも渡せないまま、入学式まで逃した。
それを笑って終わらせるのは、さすがに少し可哀想だ。そもそも、私が戦うべき相手は、人の心を勝手に操作するクソシステム。アレクではない。彼もまた、決められた役を演じさせられている側だ。
「でしたら、入学祝いとして私がいただきますわ」
「……え?」
「せっかく用意してくださったのでしょう?」
私は両腕を差し出し、巨大な花束を受け取った。
「お、重っ!?」
想像以上の重量が腕へ食い込み、膝が一瞬だけ沈む。
どうして入学祝いへ十五キロも用意した。半分は筋力訓練ではないか。
それでも何とか抱え直し、花の向こうから顔を出す。
「お花、ありがとうございます。と、とても綺麗ですわ」
花に負けないくらい華やかな笑顔を向けると、アレクの顔がぱっと明るくなった。
「フェリシア……!」
「さあ、勇者様。いつまでも落ち込んでいないで、早く教室へ向かいなさいな」
「……うん! ありがとう、フェリシア!」
アレクは満面の笑みを浮かべて、元気に中庭を駆けていった。
【SYSTEM】『アレク → フェリシア 信頼度:微増』
【SYSTEM】『恋愛イベント:非検知』
空中のウィンドウに表示された文字を見て、私は満足げに頷いた。
強制的な恋愛フラグは立たなくても、人としての関係はちゃんと築ける。
「これでいいのよ」
花束を抱え直した私は、次なる本番環境=教室へと向かうべく、ご機嫌な足取りで歩き出した。
* * *
その光景を見ていた者たちがいた。
中庭を囲む回廊に、金髪縦ロールの公爵令嬢ステラ。
噴水の向こうに、青髪の剣士ミラ。
階段脇には、眼鏡をかけた秀才ナナ。
開いた窓辺には、黒髪の天才魔術師イリス。
そして木陰の長椅子には、白髪の病弱聖女ソフィア。
全員が、まるで美少女ゲームのパッケージから抜け出してきたような、属性の違う完璧な美少女たち。
そして全員が、このあと順番にアレクと出会い、助けられたり、負けたり、倒れたり、とにかくなんやかんやあって、半強制的に恋へ落ちる予定になっている。
「そうか。フラグって折れるんだ……」
誰かが呟いた。
その一言は、火花のように残る四人の瞳へ飛び移った。
【SYSTEM】『被攻略対象による正規恋愛フラグの破棄を検知』
【SYSTEM】『反抗的自我の伝播を確認』
【SYSTEM】『感染源を検索中……』
この日、スキップされたのは、入学式だけではなかった。
一人のヒロインが、世界から割り当てられた恋を、自分の手でへし折った。
そして、その『バグの起こし方』を、残る五人がしっかりと見ていた。

