好きな人のためにダウナー系になったら、ライバルが「本物」でした。


 東京駅の長いホームから滑り出した普通電車は、重い金属音とともに不規則に揺れながら横浜駅を通り過ぎた。停車するたびに残寒を纏った春の風がドアから流れ込んでくる。ぎゅうぎゅうだった車内はいつしか三人が座れるほどに空いた。
 進むにつれ、車窓の景色に少しずつ淡い暖色が混ざり始める。低い家々が並ぶ沿線には早咲きの桜がちらほらと顔を覗かせていた。
 ようやく訪れた春の始まりに浸っていたとき、不意に自分の肩へ何かが伸し掛かる感触がした。反射的に横を向きかけ、顎に触れた柔らかな髪の感触に動きを止める。寺本の頭がくたりと凭れかかっていた。
 ──寝たのか。
 寝顔を上から見るのは新鮮だった。こうしてよく見ると肌が滑らかで、睫毛が長い。窓から差し込む優しい日差しに照らされた髪が一本一本光って見える。この顔を目の前にすると、景色なんてどうでもよくなる。

「あっ、海」

 暗いトンネルを抜けた途端、白洲の弾むような声が聞こえた。つられて顔を上げる。車窓にはくっきりと青い海──ではなく、春霞でぼんやりと輝く海が広がっていた。

「今日フリーのままでよかった〜」

「そうだな」

 一カ月前に宿を予約した時から白洲は不安がっていた。白洲が所属するアイドルグループは爆発的に売れ、学校がない日と土日はぎっちりと仕事のスケジュールで埋まっていた。休みだと言っていても前日に仕事になることもある。旅行となれば余計に難しかったが、今日来られたのは奇跡的に近い。

「でも、本当は沖縄とか北海道行きたかったのに……俺のせいでごめん」

 沖縄を提案したのは寺本だ。三月は空いてるからちょうどいいと意気込んでいたが、明日の正午から仕事が入っている白洲のことを考えると、断念せざるを得なかった。

「寺本と二人で行くから別にいい」

「ふは、宵ってなんか付き合い始めてから変わったよな」

 白洲は穏やかな笑顔を浮かべた。彼の視線が海からこちらに流れてくる。

「なにが」

「イチャイチャ隠さなくなったじゃん。寺本への独占欲が強くて怖いし。あ、クリスマスイヴに会いに行ったのは俺のおかげだって知ってる?」

「颯の前だから隠す必要はないだろ」

「そりゃあ、そうだけど」

 白洲が唇を尖らせたとき、電車が大きく揺れた。その衝撃で寺本の瞼がふっと持ち上がる。

「あれ……? あっ」

 寄りかかっていることを自覚したのか、寺本は慌てて頭を起こした。姿勢を正した横顔は真っ赤に染まっている。
 ──こういう反応が、いちいち可愛い。
 照れてこちらを見ることができないところも、素直に甘えられないところも。

「まだ二十分くらいある」

 灰島は寺本の頭を手で押さえつけ、再び肩へと倒させた。

「ちょ、いいって!」

「寝ろよ」

「もう寝た、大丈夫だから」

 押し返されそうになっても頭から手は離さない。軽く揉み合っていると、

「またやってる……」

 白洲に呆れたような目でため息を吐かれた。

 時期外れだというのに、熱海駅前の商店街はそこそこ賑わっていた。帽子とマスクを着けた白洲の近くで、ボディーガードを真似て歩く寺本のせいで余計に目立っている気がする。

「寺本……そこまでしなくてもいいよ」

「いや盗撮でもされたら嫌じゃん。なんかあったらすぐ言って、俺がなんとかする!」

「お前のせいで目立ってんだよ」

 寺本の腕を引き、白洲から遠ざけた。さっきからベタベタと。触りすぎだ。

「なんだし」

 下から睨みつけられたが一ミリも怖くない。
 ダウナー系を目指していた時期は幻だったのかと思うほど、今の寺本は白洲に素を曝け出している。白洲に色んな顔を見せてほしくない。怒った顔もおどけて笑う顔も、全部ひとり占めできればいいのに。
 子どもの頃に来た記憶では、商店街はまんじゅうや干物ばかりが並んでいた気がする。食べたいものがないと親に文句を言うほど。それが今では若者向けの飲食店が増えたらしい。いわゆるSNS映えの食べ物が軒を連ねていた。
 自分は串に刺さった焼き団子を、白洲は抹茶ラテを買っている間に、寺本は大きな苺が乗ったピンク色のソフトクリームを持って戻ってきた。

「よくそんなの飯前に食えるな」

「え、アイスはいつ食っても美味いじゃん」

 けろっとした顔で寺本は苺に齧りついた。

「今日寒いのに」

 寺本は寒がりのくせ、冬でも冷たいジュースだのアイスをよく食べる。それから「ううう寒い……」とキンキンに冷えた指先を首元に押し付けてくる。やめろと言っても聞かない。手を掴んでズボンのポケットに入れてやると、途端に静かになる。まるでそれを待ち望んでいたかのように。
 一時間ほど並んで海鮮丼を食べた後、住宅街の緩やかな坂を下りた。道路を渡ってすぐのところに熱海サンビーチが広がっている。

「お、人少なっ! ラッキー」

 マスクを外しながら白洲が笑った。さすがの寺本もようやく肩の力が抜けたようで、隣で両手を広げた。
 波打ち際まで近づいた。靴底が砂に持っていかれる感覚を確かめながら歩く。ざあ、ざあ、ざあ──と波音がひっきりなしに続いている。潮っぽい風が肌に纏わりついてくる。自然と歩幅が小さくなった。まだまだ時間はあるのに、帰りたくないと思うのは何故だろう。

「宵と寺本、同じ大学に行けるのいいな」

 白洲が沈黙を破った。声に寂しさが滲んでいた。

「遊べばいいじゃん。白洲も」

「そう言ってくれるけどさ、お互い忙しくなると思うし……今みたいには会えなくなるよ」

「それは……」

 寺本が口を閉ざして俯いた。
 どこかで薄々感じていたことを改めて言葉にされると、ついに来月から生活環境が変わるのだという実感が湧いてくる。これまで通りにはいかない。大学生と芸能人では考え方も生き方も違う。疎外感を抱き始めて当然だ。

「ふたりは付き合ってるから俺のこと誘ってくれないだろうし」

 唇を尖らせた白洲に、寺本は慌てて手を横に振った。

「いやいや、ちゃんと誘う。俺も会いたいから」

「問題は宵だよ」

 二人同時にぎろりと睨まれた。

「……誘う」

「ほんとかよー!」

「大丈夫、俺が連れて行く!」

 白洲と寺本が声を張り上げる。前を歩いていたカップルが驚いた顔でこちらを振り向いた。それを気に留めることなく、彼らは続けた。

「俺がキューピッドってこと忘れんなよー!」

「白洲ありがとうっ!」

 弾けるような笑い声が波にさらわれ、海へと溶けていった。

*

 交通費を節約した分、それなりにいい宿を予約しておいた。畳が敷き詰められた和室の中央に置かれた重厚な木のテーブル。ふかふかの座布団が乗った座椅子。壁一面に広がる大きな窓から、夕暮れに包まれた熱海の街並みとコバルトブルーに煌めく海を一望できる。
 ブッフェでたらふく食べた後は大浴場に向かった。備え付けの露天風呂へ出る。目の前を遮るものはなく、暗闇のなかで光を放つ夜景がどこまでも続いていた。頬を打つ冷たい風が心地良い。

「きもちいいな……」

 石で作られた浴槽の縁に腕を乗せた寺本がうっとりと呟いた。夜景か風呂の湯か、彼の瞳に青白い光が反射して輝いている。乱れた前髪。上気した頬。薄く開いた唇。魅惑的な光景に、ぞくりと体が熱くなる。思わず顔が吸い寄せられた。
 唇が触れかけた瞬間──、バシャッと寺本の手が湯の中から飛び出した。そのまま口を塞がれる。

「な、なにしてんだよこんなとこで!」

 極限まで絞った声で思い切り叫ばれた。

「したい」

「いや他に人が……っ」

 寺本は周りを見回し、あれっと目を丸くした。夢中になって景色を見ている間に、とっくに他の人達は出て行った。

「俺さあ、宵が恋愛したらこうなるなんて知らなかったよ。付き合っても素っ気ないままなのかと思ってた」

 すいーっとこちらへ移動してきた白洲に言われ、なんとなく気恥ずかしくなった。
 逆に寺本は変わらなさすぎだ。白洲と話すだけで挙動不審だったあの時みたいに、自分がやることにも動揺してほしい。

「白洲。こいつ二人きりになるともっとやばい。一瞬も離してくれない」

「え、うそ」

「昨日も灰島の家泊まったんだけど、ほとんどベッドにいたし……」

「あーあー、俺には惚気にしか聞こえない」

「ち、ちがう、そういうんじゃなくて!」

「陽向。まだその話続けんの?」

「だってお前が──……えっ、今、名前……」

「もう、見てるこっちが恥ずかしいよ。俺もう先出るからね」

 白洲が湯から上がったのを見て、湯の中で寺本も動き始めた。

「待って俺も」

 自分のそばから離れていこうとする体に、後ろから手を伸ばす。寺本の胸辺りに巻きついた。

「逃げるなよ」

 抱き寄せながら耳朶に齧りつく。びくん、と彼の肩が大きく震えた。

「あ……っ、ちょ、まじで耳やめて……」

 言われたことはないが、どうやら寺本はこの声が好きらしい。行為中に囁くと体がふにゃりと柔らかくなる。甘えてほしい時に囁くと素直になる。そんな反応をされると、もっとやりたくなってしまう。

 部屋のテーブルがあった場所には布団が三組敷かれていた。

「どこで寝る?」

 言いながら、白洲が中央の布団の上で胡座をかいた。

「……なんで颯がそこ」

「俺の安眠のために」

 含みのある言い方だった。のぼせたのか、白洲の言葉に照れたのか、寺本は赤い顔のまま窓側の布団を選んだ。

「……灰島、来るなよ。こっち」

 充血した目で睨まれた。それすら可愛い──なんて言ったら、また怒るだろう。
 受験が終わり、ほとんど毎日一緒にいるが、近くにいればいるほど触りたくなる。これまで我慢していた分を取り返そうとするみたいに。大学で新しい出会いがあっても、他に目移りしてほしくない。寺本と付き合って、初めて自分が欲深い人間だということを知った。

 消灯後、白洲はすぐに寝息を立てた。一日歩き回って疲れが溜まっていたようだ。自分も同じはずだが目を瞑っていても眠気が訪れない。
 横向きに寝返りを打つと、白洲越しに寺本と目が合った。

「俺のこと見てた?」

「あ、いや……」

 図星らしい。目を泳がせた寺本に悪戯心を掻き立てられ、布団から出る。音を立てないようにゆっくりと。

「おい、来るなって……」

 そう言う割に、押し返そうとする寺本の手に力は入っていない。掛け布団の中にすべり込む。寺本の上に跨がると、浴衣から露出した素肌同士が重なり合った。

「っ」

 ──まずい。
 ちょっとからかうつもりが、自分の余裕が一瞬にして消え去った。もぞもぞと下で動かれるせいで余計に肌が触れ、空気がしっとりと熱を帯びていく。

「ま、まって……っぅ」

 気が付いた時にはもう、唇を塞いでいた。寺本の両手を掴んで布団に押さえつける。息苦しいのか、ん、ん、とくぐもった声が彼の鼻から抜けた。
 さすがに白洲の隣でセックスなんかできない。そう分かっていても、火がついた体を止めるのは困難だった。

「はい、じま……、ん、宵っ……」

「──え?」

 灰島の動きがぴたりと止まる。寺本の口から出た自分の名前に、驚きを隠せなかった。 

「て……、陽向。もう一回、呼んで」

 窓から差し込む月明かりでもはっきりと分かる。寺本の顔が真っ赤に染まり、震えているのが。
 寺本が口を開こうとした瞬間、

「ふたりとも。ここでエロいことしたら廊下で寝てもらうから」

 厳しい白洲の言葉が飛んできた。