駅に着いた後、全力で走った。息を切らしながらマンションの前にある公園に入り、ベンチに腰掛ける。ひやりと冷たく硬い感触が尻から足にかけて伝わってきた。
話があるから家にいたら出てきて。公園で待ってる。
震える指でメッセージを打った。裸の木の横に立った街灯が、ぼうう……と頼りなく光っている。がらんとした公園は余計に寒さを感じた。こんなに冷える夜に、わざわざ外で過ごすカップルはいない。
三十分ほど経っただろうか。ぼんやりとマンションを見上げた寺本は、薄く息を吐いた。
──家に直接行ったら灰島の家族に迷惑がかかるかもしれない。
そう思うと足が動かなかった。受験真っ只中でクリスマスイヴに家まで会いに来る友達なんて、気味悪がられる可能性もある。
「寒すぎ……。早く出てこいよお」
垂れてくる鼻水をすんと啜る。鼻奥の粘膜が張り付いていて痛い。口から吐き出した息を両手に当てたが、気休めにもならなかった。
せっかく白洲のお陰で奮い立った気持ちが、みるみるうちに萎んでいく。ここで会えないということはそういう運命だったんじゃないのか。もう諦めよう。会ってもきっと灰島を困らせるだけだ。ぐるぐると渦を巻いた感情は胸の中で大きく広がった。
「……会いたかったな」
瞼を閉じた拍子に、冷え切った頬に温かいものが伝い落ちた。
せめて、普通の友達としてでもいい。恋人になれなくても。誕生日おめでとうの一言さえ聞けたら、それでもう──。
「はあっ、寺本?」
突然、離れたところから名前を呼ばれた。ずっと聞きたくてたまらなかった声だ。寺本はゆっくりと瞼を持ち上げ、瞠目した。
「え……うそ」
灰島が公園の入口に立っていた。まさか意識を失って幻想でも見ているのかと思ったが、灰島は息を切らして近づいてきた。そのまま家を飛び出してきたような薄っぺらい部屋着だ。時期外れのサンダルをぺたぺたと鳴らしながら灰島は目の前に立った。街灯の光が塞がれ、影の中に包まれる。
「っ、何しに来た? なんでこんなところで……」
酷い言われ方だった。引っ込んだはずの涙がまたじわりと姿を表す。
「な、泣いてる?」
「泣いてねー」
──ああもう、みっともない。情けない。どうしても灰島の前だと取り繕えない。
「泣いてんじゃん……」
灰島は呆れたようにため息をつき、寺本の頭に手を伸ばした。くしゃりと髪を撫でられる。
「っ」
咄嗟に立ち上がると、灰島が僅かにたじろいだ。本人にとって何気ない行為に心をかき乱されるこっちの身にもなってほしい。
「灰島は……誰にでもキスすんの」
「は? あー、いや。そんなわけないだろ」
「じゃあなんでキスした? 勝手に始めたくせに、勝手に終わらせて」
──違う。言いたかったのは責める言葉じゃなかったのに、口が止まらない。
「その気にさせておいて、急にやめんな!」
「……え、恋愛する気になった? ……俺と?」
灰島が首を傾げた。とぼけたその顔に腹が立ってくる。
「灰島しかいないじゃん」
「い、いやだって……寺本は颯に未練があるんだと思ってた。キス見られた時も突き飛ばされたし」
「誰かに見られたらそういう反応になるって普通! 灰島がっ、あんな場所でしてくるから」
「……それは、悪かった。お前が鈴木といちゃついてたから苛ついた。手触られて喜んでただろ。必要以上に距離も近いし」
「はあ? 喜んでないんだけど。灰島こそ白洲と楽しそうにしてたじゃん。まだ未練あるんじゃないの」
ぶるぶると体が、声が震えた。立っているのもやっとだ。体は冷え切っているのに顔だけが熱い。息が上がり、鼓動が速くなる。
「なに言って──」
「俺は灰島と付き合いたい。キスもしたい。好きだから。……っ、でも、お前は?」
白洲の初恋も何もかも全部知っていると、灰島は言っていた。それほど好きだった相手に自分は勝つことができるのか。妥協で加藤にも手を出しているのだとしたら、いっそ振られたほうがまだ良い。
「勘違いさせてごめん」
灰島が申し訳なさそうに眉を寄せた。
──やっぱり勘違いだったんだ。
キスされたからって盛り上がって、好きだと言われなくて落ち込んで、全部が自分の独りよがりだった。終いには家にまで突撃してしまった。
これ以上、醜態を晒すわけにはいかない。そう思うのに涙が溢れ出てくる。
「寺本が颯のことばっか気にしてるから、つい嫉妬した」
「……え?」
「最初はただ……好奇心だった。颯のためにダウナーになるとか意味不明なこと言ってるのが面白くて。でもそういうの見てたら、そんな風に好かれるのが羨ましいと思った。俺は経験ないから」
ため息交じりに、「寺本の好みのタイプでもないし」と灰島は続けた。
ハッ、とまとまった白い息がこぼれる。無意識に息を止めていたことに気がついた。
「な、に、それ」
「俺は、阿呆っぽくてダサくてかっこつけてない素のほうが好き。からかうとムキになって言い返してくるところも可愛い」
「か、かわ…………?」
灰島から出てきたとは思えない言葉だった。
意味を理解したのと同時に、ふっと灰島が距離を詰めてきた。背中に回った腕に抱きしめられる。キリキリと冷えて痛む頬が、灰島の温かい頬に重なった。
「てかどんだけここで待ってたの。こんなに体冷やして……。直接来いよ。勉強中はスマホ触らないようにしてるの知ってるだろ」
鼓膜を揺らす低い声に、自然と足の力が抜けていく。ひどく心を揺さぶられるのに心地良い。このまま全身を預けてしまいたい。
「め、迷惑になるかなって」
背中に手を回す直前、するりと体が離れた。
「なるわけない。ちょっと来て」
腕を掴まれてマンションのほうへと連れて行かれる。エントランスに入った瞬間、急激な温度差で耳が痛くなった。
「待て待て待て、家族いるよな?」
「ああ。でも俺に関心ないから大丈夫。お前と違って部屋の壁も厚いし。声は聞かれない」
──そういうことを言ってるんじゃない!
──というかさり気なくこの前の冗談を掘り返すなよ!
この状況ではいつもの調子で茶化すこともできない。寺本は顔を赤らめて俯いた。
案の定リビングで寛いでいたご両親に挨拶を済ませた後、逃げるように灰島の部屋へ移った。扉が閉まった瞬間に唇を塞がれ、そのままベッドになだれ込む。
「ふ、っ」
逃さないと言わんばかりに灰島が伸し掛かってきた。触れ合った肌から、じんじんと痺れるような熱が広がっていく。勢いのある波に飲まれてしまった気分だった。わけも分からず狼狽えている間に、深いキスを何度も受けた。
「〜っ、待って、灰島」
「なに」
「か、加藤さんにも手出したんじゃないの? 雨の日、一緒に帰ってたじゃん。二股になるのは嫌だ」
「加藤? ただの本仲間だけど。この前はたまたま会ったから入れてやっただけ。そもそも俺の恋愛対象は男だから、好きになることは絶対ない」
「あ、そう……だったんだ」
「それも勘違いしてたのか」
ふっと鼻で笑われ、頬が熱くなる。見たものを都合悪く捉えてしまうほど精神的に落ち込んでいたのだから、仕方ないだろう。
「寺本だけだから。好きなのも、キスしたいって思うのも」
「……うん」
迫ってくる灰島の視線に耐えきれず、目を泳がせたその時、肩越しにちらりと壁掛けの時計が見えた。
「──あっ! 俺、もう帰らないと」
「……なんで」
「母さんがケーキ買って来てるから食べなきゃ怒られる。連絡するのも忘れてたし」
「ケーキ? ああ、クリスマスの」
「いや誕生日の」
「…………寺本の誕生日って」
「今日だけど?」
当然のように言った寺本に、灰島は長いため息を吐いて頭を抱えた。
「そんな大事なこと、もっと早く言えよ。どこにも書いてないし」
「あれ、書いてなかったっけ。じゃあ白洲には言ってあったのかな……」
「颯に祝われたのか」
「うん。さっき飯奢ってもらった」
「は?」
すっと灰島の目が細くなった。あまり怒らないこいつが本気で怒る時は、極端に空気が冷たくなる。肌で感じ取れるほど。
──なんかまずいこと言った感じ?
「なんで俺のこと誘わないで、二人で会ってんの」
「だ、だってお前ずっと連絡してくれなかったじゃん。祝ってもらえるの待ってたのに。まあ、これは言ってなかった俺が悪いんだけど」
重い沈黙が流れた。灰島が押し黙ったせいだ。
何か言わなきゃと頭をぐるぐるさせているうちに、灰島が苛立った顔で口を開いた。
「無自覚に人を煽る癖、なんとかしろよ」
「え──……んっ」
不貞腐れたのを誤魔化すようなキスが落ちてきた。つるりと入ってきた舌に蹂躙され、あっという間に息が上がる。
「んん、っぁ」
いつの間にか忍び込んでいた灰島の温かい手のひらに脇腹を優しく撫でられ、寺本は体を捩った。
「ぅ、う………ん、はあ……」
湿った音とともに唇が離れた。視界いっぱいに広がる灰島の顔から、濡れた唇から、真っ黒な瞳から視線を外せない。細められた目尻が赤くなっているように見えるのは気の所為だろうか。
「誕生日おめでとう。今日は帰すけど、明日また来て。日中は親いないから」
珍しく早口でそう言った灰島は名残惜しそうにまた唇を重ねてきた。言葉の意味になんとなく気がつき、頷くよりも先にごくんと喉が鳴った。



