静まり返ったトイレの洗面台で、寺本はふうっと気合いの息を吐いた。鏡には緊張で引き攣る情けない顔が映っている。
幼い頃から続けてきた水泳のせいで髪色は明るく、口角は真顔でも少し上がっていて、たれ目気味の優しい目元も相まって、人が良さそうに見える。
どうすれば灰島のような独特な雰囲気を出せるのだろう。昨日さっそく家であいつの真似をしてみたが、自意識過剰な男みたいでキモかった。鏡の中の自分に向かって眉を寄せ、目を細めてみる。
「……なんか微妙なんだよなあ」
爽やかだねとよく褒められるこの顔では、どうしたってただの不機嫌な表情になってしまう。顔は変えようがない。
「話しかけんの緊張するし。あーもう」
寺本はポケットから手のひらサイズのメモ帳を取り出し、表紙を開いた。
今日の目標 白洲と一緒に昼飯を食べる。
クラスメイトに「昼食べよう」と話しかけるのは容易なことだ。性格が外交的な自分にとって、なんてことない。だが相手が好きな人となれば話は別だ。今日はまだ顔も合わせていないのに、心臓が口から出てきそうなほど高鳴っている。
ダウナーっぽく話しかける練習は家で何度もした。声とテンションを落ち着かせ、焦らずゆっくり喋る。よし。いける。
メモ帳を戻して振り向いた瞬間、トイレのドアが開いた。──白洲颯だ。
「あ……」
彼が足を一歩踏み入れただけで、淀んでいた空気が一瞬にして澄み渡った。爽やかな風とともに近づいてくる。
「お、寺本じゃん」
に、に、に、認知されてるーっ! 聞いたか灰島ざまあみろ!
飛び跳ねかけた体をギリギリのところで食い止め、顔から力を抜く。
「……おう」
想定より冷めた声が出てしまった。失礼なヤツだと思われたんじゃないかと不安に駆られたが、白洲はその可愛らしい口元に笑みを浮かべた。
「俺たち、地味に三年間も同クラだったよな。また一緒になれて嬉しい」
「えっ」
「今年もよろしく」
白洲は距離を詰めながら、寺本の背中をトントンと軽く叩いた。ふわりと清潔感のある香りが鼻を掠める。
一緒になれて…………嬉しい……?
「寺本?」
「あ、っ……ああ、俺も」
「でもあんま喋ったことなかったよな。寺本、友達多いくせに。俺とは仲良くしないの?」
頭の中が真っ白になった。まるで、自分とも仲良くしろと言われた気分だ。一気に頬が熱くなり、呼吸が乱れる。
ダメだ。落ち着け。ここでボロを出したらすべてが終わってしまう。昨日からミステリアスなダウナー系男子に生まれ変わったばかりじゃないか!
「じゃあ、今日から昼一緒に食う?」
「え?」
白洲の整った眉が驚いたみたいに引き上がった。つやんとした唇を半開きにしたまま、首を傾げられる。
火照っていた体から、急速に熱が引いていく。勢いで言ってしまった。今日の昼飯だけならまだしも、今日からって何だよ。恥ずかしい。今すぐトイレの窓から外へダイブしたい。
「……嫌ならいい」
寺本は呟きながら体を翻した。「あっ」と白洲が咄嗟に腕を掴み、足が止まる。何も考えず振り向いたせいで、至近距離で視線が絡んだ。
「別に嫌じゃないよ」
「え」
「寺本は弁当だっけ? 俺いつも食堂なんだよね」
「あ、俺も……食堂」
母さんごめん、弁当はあとで食う。
「じゃあよかった。決まり〜」
白洲は朗らかに笑い、個室に入った。
──二年間片思いしてきた相手と、ふたりきりで、飯。いや、初デートと言ってもいい。
夢みたいな気分でトイレの扉を開けると、うんざりするほど見てきた学校の廊下がとんでもなく輝いて見えた。
四時限目のチャイムが鳴った。昼休みまであと一時間。授業がこれほど長く感じたのは初めてだ。肘をついて口元を隠しても自然と唇の端が上がってしまう。
時間よ早く過ぎろと心の中で唱えていた時、唐突に後ろから椅子の脚を蹴られた。
(なんだ?)
何事かと振り向くと、灰島がこちらを睨みつけていた。くしゃくしゃに丸まった紙を渡される。広げた紙には、書き殴った文字があった。
『ニヤニヤしててきもい。イメチェン失敗?』
灰島このやろう!
やっぱり嫌なヤツだ。というかこれのどこがダウナー系なんだ。灰島は見た目がそれっぽいだけで中身は幼稚なガキじゃないか。こんな男、白洲には相応しくない。
「だる……」
ぽつりと呟いた途端、ふっと背後でヤツが笑う声が聞こえた。
我慢、我慢だ。真のミステリアスダウナー系男子はこういう時こそ冷静でいられるもの。後ろからの視線に耐えること数十分、ついにチャイムの音が鳴り響いた。
財布を握って立ち上がる。当然、白洲もこちらを向いてくれる──はずだったのに、なぜか彼は灰島のことを見ていた。
「宵いこー」
「ああ」
──え?
当然のように灰島の席に行った白洲と、当然のように頷いた灰島。歩き出した二人の背中を追いかけることもできず、呆然と眺めていたその時だった。
白洲が「あっ」と何かを思い出したみたいな顔で振り向く。
「ごめん寺本!」
「え、あ……」
「早く行こ」
こちらに向かって手招きした白洲の横で、灰島が眉を寄せた。
「なんで寺本」
「約束したんだ。今日から飯一緒に食うって」
「はあ?」
灰島の鋭い視線が突き刺さる。
「な、なんだよ」
何もそこまで露骨に態度に出さなくてもいいのに。そもそも、一緒に食べることを承諾したのは白洲だ。灰島には文句を言う権利はない。
「いいよな? 二人とも」
ギスギスした空気が白洲の一言によって呆気なくぶち壊れる。嘘でも嫌と言えぬ雰囲気に、灰島と同時に頭を垂れた。
食堂に着き、真っ先にトレーを取った。手早く皿を取って席を探す。全ては白洲の隣を確保するために。
「白洲、ここ空いてる」
「あ、さんきゅー」
一番端の席にトレーを置くと、白洲は自然と向かいの席に座ってしまった。慌てて彼の隣へ移動しようとしたが、後ろから歩いて来た灰島にするりとその席を奪われた。
──くそ、本当に邪魔くさいな!
苛つきながら睨んだ寺本に、灰島は「ガキかよ」と笑い飛ばした。
「宵と寺本って意外に仲いいよな」
「良くない」
灰島がすかさず否定した。
「そう? でもさっきも授業中にこそこそやってたじゃん」
「あ、あれは灰島が──」
「寺本がニヤニヤしててキモかったから」
「お前な!」
つい声を荒げてしまった。咄嗟に口を手で覆ったが、手遅れだ。どんどんダウナー系男子とかけ離れていく。
「あはは、やっぱ仲いいっしょ」
咳払いをひとつ挟み、寺本はトレーから小皿を取って白洲の前へと滑らせた。赤く艶々と光る大ぶりの苺が二粒。自分の好物を他人に譲るなんて、これまでの人生で一度たりともなかった。
「これやる」
「え? あ、でも」
「俺がもらう」
白洲の横からすっと出てきた灰島の長い指が、皿ごと掠め取るように奪い去った。さらに苺をひょいとつまむと、寺本を冷ややかに見下しながら口のなかに放り込む。灰島は時間をかけて咀嚼し、飲み込んでから、低い声でぽつりと吐き捨てた。
「颯、いちご嫌いだから」
──いやいやいやいやいや。嫌いなのは仕方ないとして、灰島にくれてやるなんて一言も言ってないんだけど!?
「こいつ果物あんま食べないし」
白洲は「あー、まあ……」と気まずそうな表情を浮かべている。
灰島にやるくらいなら自分で食いたかった。せっかく苺が付いているメニューを選んだのに。しかし一度渡ってしまえば今さら奪い返す訳にもいかず、拳を握り締めてなんとか怒りを沈めた。
「寺本も苺嫌いなの? くれようとしたってことは」
「いや……俺は、好きだけど」
「え、好きなものくれるって変わってるな」
好物をあげたいくらい白洲颯が好きなんです!
「……好きなものは、相手にも分けたいから」
「あ〜なるほど。優しいんだ」
「別に」
白洲と会話しているだけで天にも昇るような気分だが、喜びを隠しながらダウナー系を演じるのはかなりキツい。感情が表に出せなくてフラストレーションも溜まっている気がする。灰島は素でこれをやっていると思うと、なんだか悔しい。
「なんか……寺本ってさ、前からそんな感じだったっけ?」
「なにが」
「いや、何というか。もっと明るくて元気なイメージあったけど、意外と落ち着いてる部分もあるんだなって。いいねそういうギャップ」
──きたっ!
寺本は心の中でガッツポーズをした。思わず緩みかけた頬を無理やり引き締め、白洲を見つめる。
こういう時、真のダウナー系だったらなんと言うだろう。照れるのは変だ。ありがとうも違うか。お前のために……もキモい。
「元々こうだよ」
悩んだ末に出たのは何の面白みもない返事だった。白洲の隣で灰島がふんっと鼻を鳴らし、ラーメンを啜る。
「俺、あんま寺本のこと知らなかったなあ」
「……白洲と灰島って、いつから友達?」
「中学! 三年間ずっとクラス一緒だったんだ」
「へえ……」
まったく運がいいヤツめ。努力もせずに白洲の親友という立場を得たのか。
「旅行もしたしお互いの家にも泊まった。颯の初恋の相手も知ってる。こいつが人に言ってないようなことも、全部。俺だけが知ってる」
無表情で滑らかに言い切った灰島の背中を、白洲は頬を染めて叩いた。
「急にどうしたんだよ。恥ずいって」
「事実を言っただけ。こいつが知りたがってたから」
そこまで聞いてねえよ──という言葉を飲み込み、相槌の代わりにため息を落とした。箸でつまんだ唐揚げを口に運ぶ気にもなれない。胸のあたりが詰まっている感じがして、息が苦しい。
灰島と白洲の関係には第三者が入れぬ透明の厚い壁がある。そのことにはうっすらと気づいていたが、改めて言葉にされたせいで強烈なパンチを食らってしまった。
まずは灰島を知り尽くし、ヤツを懐柔してから白洲に近づいたほうが良さそうだ。



