眠る巨獣の背中で町づくり――夢の景色は消せないので、仲間と動かせる暮らしを始めます

 レントは寝床へ横になる前に、出口脇の携行水へもう一度手を伸ばした。

「近い。暗くても取れる」

「先ほども確認しました」

「朝まで使えたら、これは試作品じゃない。住める場所になる」

 向かいに座ったセラフィナは、幕の端が毛並みに沿って滑るのを見ていた。

「一夜を越えただけで完成とは言いません」

「祭守殿は、期待を削るのが上手いな」

「眠る前に現実へ戻しているだけです」

 幕の外では、毛玉が少し離れた高みに伏せていた。人間側の寝床へ入る様子はない。セラフィナが低く祈りの言葉を唱え始めると、耳だけをこちらへ向けた。

「祈りは聞くのに、俺の境界は無視する」

「あなたの道具の上へ座ることと、危険を感じないことは別なのでしょう」

「祭守殿には甘い」

「近づけば逃げます」

 試すようにセラフィナが手を上げると、毛玉はすぐに身を起こした。彼女が手を下ろすと、また伏せる。

 夜は深まり、巨獣の呼吸が毛並みをゆっくり持ち上げた。

 幕は横へ滑り、留め具の位置で止まる。寝床の下層だけが少しずれた。分散させた荷物も、それぞれ別の方向へ傾いたが、互いを引きずらない。

「狙いどおりだ」

「まだ通常の呼吸です」

「成功を小分けに認める気はないのか」

「朝まで残しておきます」

 レントは横になった。完全に静かな地面ではない。身体の下で寝床がわずかに動き、その後を巨獣の重い呼吸が追ってくる。

 だが、強く引かれる綱の音はなかった。

 目を閉じてから、どれほど経ったか。

 先に動いたのは毛玉だった。

 小さな影が立ち上がり、耳を伏せる。毛並みが膨らみ、そのまま暗がりへ駆け出した。

 直後、寝床が大きく横へ滑った。

 レントは片手をついて起き上がった。幕の端が留め具へ当たり、布が低く鳴る。今度の呼吸は長い。下の毛が一方向へ流れたまま、戻ってこない。

「レント殿、退避します」

 セラフィナはすでに立っていた。外へ出ると、毛の斜面そのものがゆっくり傾いている。

「待て。荷物が——」

 別の場所へ置いた道具の包みが転がり始めた。レントは反射的にそちらへ踏み出した。

「レント殿!」

 短く鋭い声が背中を打った。

「携行水と身体だけです。あなたが決めたのでしょう」

 道具の包みが毛の谷間へ滑っていく。追えば拾えるかもしれない。だが、その先は退避路から外れていた。

 巨獣がさらに息を吸う。

 足元の毛が持ち上がり、レントの膝が揺れた。

「……分かった」

 悔しさごと吐き捨て、出口脇の携行水を掴む。

「行くぞ、セラフィナ」

「こちらです」

 二人は並ばず、決めていた線を進んだ。毛玉はすでに先にいる。二人を待つ様子も、振り返って案内する様子もない。ただ自分が安全だと感じた方向へ走っている。

 幕が背後で大きく鳴った。

 レントは振り返らなかった。

 暗い毛の斜面を越えたところで、毛玉の灰白色が闇へ紛れた。

「毛玉!」

 返事はない。白い影も見えない。

 足元がまた沈んだ。セラフィナが腕を伸ばしかけるが、レントは踏み直した。

「毛玉、止まれ!」

 自分でも、何を呼んでいるのか分からなくなった。毛玉は姿を表す呼び方でしかない。暗がりに似た毛の塊があれば、区別できない。

 灰白色の柔らかな毛。

 丸く膨らみ、ふるりと揺れる身体。

「モフル!」

 口から出た音を、レントはもう一度投げた。

「モフル!」

 前方の毛の陰で、小さな影が止まった。

 耳がこちらへ向く。続いて二つの目が暗がりの中でレントを捉えた。

 戻ってはこない。

 短く「ふる」と鳴くと、毛玉は再び先へ進んだ。

「今の音を、自分へ向けられたものとして区別しました」

 セラフィナも前方を見たまま言う。

「モフル。そちらにいるのですね」

 影の耳が一度だけ動いた。

 それだけだった。呼ばれたから従うわけでもなく、二人の歩調へ合わせるわけでもない。だが、見失わずに済む。

「案内しているわけではありません」

「分かってる。俺たちより先に逃げてるだけだ」

「その判断が、今は役に立っています」

 三人は毛の深い谷へ降りた。周囲より低く、流れた毛が重なっている。足元は動くが、大きく滑る傾斜はない。

 モフルはセラフィナの声が届く位置へ伏せた。彼女が近づこうとすると、すぐに一歩ぶん距離を取る。

 セラフィナは追わず、その場へ腰を下ろした。

「ここで待ちます」

「拠点は?」

「今戻れば、設備を守るために同じ危険へ入ります」

 レントは暗い斜面の向こうを見た。夢へ入れば、巨獣が何を見ているか確認できるかもしれない。だが、夢を覗いたところで、この呼吸を止められるわけではない。

 眠りも、身体の動きも、レントの都合で押さえるものではなかった。

「入らない」

「夢へ、ですか」

「ああ。揺れを止める方法はない。分かった気になるより、今ある動きを見る」

 セラフィナはわずかに肩の力を抜いた。

「では、私は呼吸の間隔を見ます。レントは毛の張りが戻るか確認してください」

「再開するかどうか、祭守殿だけで決めないのか」

「あなたは、道具を捨てました。判断を任せる材料にはなります」

「褒め方が厳しいな」

「褒めています」

 レントが顔を向けると、セラフィナはすでに巨獣の呼吸へ視線を戻していた。

 やがて、長かった呼吸が少しずつ短くなる。毛の流れも一方向へ押し続けるものではなくなり、谷の縁で倒れていた毛束がゆっくり起き上がった。

 モフルは二人より先に立ち上がった。

「戻る気らしい」

「本人の都合で移動するだけかもしれません」

「それでも同じ方向なら助かる」

 モフルは返事をせず、毛の斜面を登っていった。

 拠点へ戻ると、道具の包みは見えなくなっていた。露の器も横倒しになり、残していた実がいくつか散っている。

 それでも幕は留め具から外れていなかった。大きく滑ってはいたが、毛束を引き潰してはいない。寝床も下層と上層が別々にずれ、形だけは残っている。

「全部は守れなかったな」

「全部を守らないと決めたから、戻れました」

 レントは失った道具を探しに行かず、幕の端だけを戻した。セラフィナは毛の根元を確かめ、張りが残っていない場所を示す。二人で必要な範囲だけを整え、携行水を再び出口近くへ置いた。

 モフルは離れた場所から作業を見ていたが、寝床へ入ろうとはしなかった。

「モフル。そこは危なくないのか」

 耳だけがこちらへ向く。

「返事はするが、動かない」

「返事と決めつけないでください」

「祭守殿も呼んだだろ」

「位置を確認するためです」

「俺も同じだ」

 残りの夜、拠点は何度か小さく滑った。それでも二人は退避せずに済んだ。レントは浅い眠りの合間に幕の動きを感じたが、朝の光が布越しに差し込むまで、大きな呼吸は戻ってこなかった。

 翌朝、レントとセラフィナは自然採水点へ向かった。

 毛の窪地には、再び透明な露が集まっていた。レントは器へ受け、匂いと濁りを確かめてから口をつける。冷たい水が喉を通った。

「昨日と変わらない」

 セラフィナも少量を飲み、しばらく身体の様子を確かめた。

「供給も続いています。少なくとも、昨夜の呼吸で失われてはいません」

 帰りに熟した実を選び、拠点へ持ち帰る。二人は保存食を分け、実を添えて食べた。

「これだけで腹を満たすのは無理だな」

「補助にはなります。主な食料として数えてはいけません」

「朝から現実へ戻すのが好きだな」

「昨夜、現実から外れかけた方がいましたので」

「道具一つで長く責めるな」

「一つとは限りません」

 レントは言い返さず、残った保存食を包み直した。

 食事の後、滑った幕を元の位置へ移す。寝床の層を重ね直し、留め具を確認する。長く使える住居ではない。保管場所も作業場もなく、また大きな呼吸が来れば同じように退避しなければならない。

 それでも、昨夜使い、逃げ、戻り、朝になってもう一度使えた。

 モフルが毛の斜面から現れた。呼び寄せたわけではない。自分の足で二人の生活圏へ戻り、散らばった布の端を嗅いでから、レントの道具があった場所へ座る。

「そこにはもう何もないぞ、モフル」

 モフルは耳だけを向け、丸くなった。

 セラフィナが低く祈り始めると、目を閉じる。近づけば離れるだろう。呼んでも従わない。だが、レントとセラフィナがいる場所へ、自分の意思で戻ってきた。

 レントは立て直した幕を見上げた。

 町には遠い。食料も足りない。次の大きな呼吸で、また何かを失うかもしれない。

 それでも水を飲み、朝飯を食べ、寝床を戻した。

「今日も、ここで暮らせるな」

「今日も試す、の間違いです」

「そこは住めるでいいだろ、セラフィナ」

 彼女は幕と自然採水点への道を見比べ、それからほんの少しだけ頷いた。

「今日については、認めます」

 モフルが「ふる」と鳴いた。

 同意したのか、ただ寝返りを打ったのかは分からない。

 レントはそれで十分だった。