眠る巨獣の背中で町づくり――夢の景色は消せないので、仲間と動かせる暮らしを始めます

 レントは、ずれた幕の端を押さえたまま言った。

「ここを引っ越す」

 セラフィナは簡易幕の外へ目を向けた。泉、露の集まる毛の窪地、実のある一帯。そのどれにも歩いて通える場所はある。ただし、巨獣の呼吸で毛並みが大きく流れる場所でもあった。

「先ほどより、さらに動く場所です」

「水と実から遠いままでは、使うたびに往復が増える。踏む場所も増える」

「近づくことには賛成します。ただし、今の幕をそのまま移すのであれば反対です」

「反対される前に直すつもりだった」

「今、端を押さえている方の言葉とは思えません」

 深くなった呼吸が収まり、幕の端がレントの手から逃げるように戻っていく。

「だから固定を増やす」

「そこから反対します」

 レントは聞こえなかったふりをして、荷物をまとめ始めた。

 携行水と保存食は一つにせず、二つの包みに分ける。残った実と露の器も別にした。泉は近くを通ったが、立ち止まらない。今夜使った水は自然採水点の露であり、泉は相変わらず状態の読めない補助候補だった。

 二人は旧簡易幕を外し、毛の窪地へ運んだ。地上へ戻る経路を塞がず、露の採水線にも実の採取区画にも重ならない場所を選ぶ。

 レントは幕の四隅から綱を伸ばし、太い毛束へ絡めた。さらに横ずれを止めるため、途中へ二本追加する。引く方向を分散させれば、どちらへ揺れても支えられるはずだった。

「これなら動かない」

「動かないことが問題です」

「住居が動いたら困るだろ」

「巨獣は動きます」

 セラフィナは綱へ触れず、その先の毛束を指した。

「次の呼吸を見てください」

 暗い毛並みがゆっくりと持ち上がる。幕は一瞬だけ安定していた。だが、毛が流れ始めると、右側の綱が張り、左側が緩んだ。次いで別の綱が逆方向へ引かれ、絡めた毛束の根元が不自然に沈む。

 幕そのものは動かない。

 代わりに、その下が引かれていた。

「外してください」

 セラフィナの声が低くなった。

 レントはすぐに綱を緩めた。張力が消えると、押し倒されていた毛がゆっくり起き上がる。

「皮膚まで引いているか」

「断定はできません。ただ、毛の戻りが周囲より遅れています。このまま続けるべきではありません」

 安定させるために固定を増やした。増やすほど、巨獣の身体が人間の拠点へ合わせて引かれる。

 レントは結び目をすべて外した。

「失敗だな」

「止めるのであれば、失敗のままではありません」

「祭守殿は慰め方が厳しい」

「慰めていません。次も同じことをするなら失敗です」

 レントは幕を毛の上へ広げたまま、呼吸による流れを見直した。土の上なら、動かない場所を探す。船なら、揺れないよう固定する。だが、ここは地面そのものが呼吸していた。

「固定していい場所はないのか」

「少なくとも、この周辺で強く引いてよい場所は示せません」

 セラフィナはしゃがみ、毛先の向きを追った。

「ただし、流れは毎回まったく違うわけではありません。こちらへ動き、呼吸が戻ると半分ほど元の方向へ戻ります」

「止める場所じゃなく、動かしていい方向か」

「その範囲なら、強く逆らわずに済みます」

 レントは幕と荷物を見比べた。今までは全部を一つの拠点として守ろうとしていた。幕が動けば寝床も荷物も崩れる。だから一体化させ、まとめて固定しようとした。

「一緒にするから引きずられる」

 幕を軽くする。寝床は別にする。荷物もまとめない。それぞれが毛の流れへ沿って少しずつ動けば、どれか一つの重さが全体を引っ張らない。

「祭守殿、もう二呼吸ぶん見てくれ。動く幅を決めたい」

「私が危険だと判断した場合は中止します」

「今度は先に聞いた」

「進歩として記録しておきます」

「記録はいらない」

 二人は呼吸のたびに幕の端がどこまで流れるかを見た。レントは強く結ばず、軽い留め具を毛の間へ置く。完全に止めるのではなく、端が一定以上流れたときだけ引っかかる位置へずらした。

 寝床用の布は折り重ねず、素材ごとに分ける。下へ硬めの薄布、その上へ柔らかな布を置こうとしたところで、白い影が横切った。

「あ」

 毛玉が柔らかな布の端を咥えていた。

「それは寝床だ」

 毛玉は耳を伏せ、布を引いた。

「返せとは言ったが、綱引きをしろとは言ってない」

 レントが手を離すと、毛玉は一瞬よろめいた。それから布を抱えるように丸まり、毛の斜面を駆け上がっていく。

 セラフィナが立ち上がりかける。

「追いますか」

「いや。巣まで追えば、次から見えない場所で奪う」

「奪うことは前提なのですね」

「もう実績がある」

 レントは残った素材から、使う予定の薄い布と、予備にしていた粗い布を選んだ。粗い方だけを毛玉から見える場所へ置く。

「交換ですか」

「成立するかは向こう次第だ」

 毛玉は少し離れた高所からこちらを見ていた。柔らかな布を足元へ押さえたまま、粗い布へ鼻を向ける。すぐには来ない。レントが作業へ戻ると、ようやく駆け下り、粗い布を嗅いだ。

 前脚で一度押し、気に入らなかったのか顔を背ける。

「選り好みが激しいな」

 毛玉は柔らかな布を咥え直し、毛束の陰へ消えた。

 レントは追わなかった。ただ、少し距離を取り、巣の入口が見える位置へ座る。

 毛玉は布を一枚のまま敷かなかった。毛のくぼみへ端を押し込み、ずらし、折れた部分へ周囲から集めた細い素材を重ねる。下の層と上の層はぴたりと揃わず、少しずつ向きが違っていた。

 巨獣が呼吸すると、巣の下の毛が流れた。

 布の端は動いたが、上の層は一緒に引かれない。ずれた部分が互いの動きを逃がし、巣全体は形を保っていた。

「……そういうことか」

「何が見えましたか」

「重ねるなら、揃えない方がいい」

 レントは人間側の寝床へ戻り、下へ粗い布を敷いた。その上へ別の素材を、端をずらして載せる。さらに寝る部分だけ柔らかな布を置く。層同士を縫い合わせず、滑る余地を残した。

 毛玉が巣から顔を出している。

「毛玉。これはこっちのだ」

 レントは寝床の縁を指し、次に毛玉の巣の方角を示した。

 毛玉は耳を動かしたが、こちらへ来ない。

「通じましたか」

「分からない」

「では、境界としては不十分です」

「言葉だけならな」

 レントは寝床の周囲へ余った粗い布を細く置いた。壁ではない。踏み越えようと思えば簡単に越えられる。ただ、人間側が使う範囲を目で分ける印にはなる。

 毛玉はしばらくそれを見たあと、レントの道具の上へ飛び乗った。

「そこもこっちだ」

 毛玉は鳴き、動かなかった。

「境界交渉は難航していますね」

「巣へ踏み込まない代わりに、道具へ座る権利を要求してるらしい」

「意味を読み込みすぎです」

「祭守殿に言われるとは思わなかった」

 毛玉はレントが別の道具へ手を伸ばすと、興味を失ったように降りた。だが巣へ戻る前に一度振り返り、重ね直された寝床を見た。

 レントもその反応を待っていたことに気づき、少しだけ口元を緩めた。

 幕は毛並みへ沿って流れる向きだけ余裕を持たせた。端の留め具は、行き過ぎたときだけ動きを止める。寝床は層ごとに滑り、荷物は三か所へ分けた。携行水は出口に近い位置へ置き、保存食は別の包みのまま残す。

 短い呼吸が来た。

 幕が横へ滑る。寝床の下層も少し動く。荷物の包みはそれぞれ別の方向へ傾いたが、一つが他を引きずることはなかった。

 呼吸が戻ると、幕の端が留め具に沿って半分ほど戻る。寝床は完全には元の位置へ戻らなかったが、形は崩れていない。毛の根元にも、先ほどのような強い張りは残らなかった。

「動いたな」

「動くように作ったのでしょう」

「成功したときくらい、素直に言ってくれ」

「一度の呼吸で長期の安全は判断できません」

「そこまで言ってない」

 二度目の呼吸でも、幕と寝床と荷物は別々に動いた。レントは端を直したが、持ち上げて組み直す必要はない。

 次に、拠点から地上へ戻る方向まで歩く。途中で毛が深く沈む場所を避け、二人が並ばず通れる線を選んだ。露の窪地へ向かう道とは交差させない。

「異常があれば、ここから離脱する」

 レントは携行水の包みを持ち上げた。

「持つのはこれと、自分の身体だけだ」

「保存食は?」

「余裕があれば。全荷物を拾っていたら、退避路を作る意味がない」

 道具も、残した実も、露の器も置いていく。悔しくはあるが、守る順番を曖昧にするよりいい。

 セラフィナは経路を往復し、毛の流れと足元を確かめた。

「幕が大きく流れる、皮膚の張りが戻らない、毛並みが乱れ続ける。そのいずれかがあれば使用を止めます。巨獣の呼吸が通常と異なる場合も同じです」

「毛玉が道具を全部運び始めた場合は?」

「それは別の問題です」

 当の毛玉は、自分の巣で柔らかな布へ潜り込み、こちらを見ようともしなかった。

 レントは新しい拠点の中央へ座った。幕は完全には静止していない。寝床も最初の位置から少しずれている。それでも、どこか一つを無理に縛りつける音はなかった。

 水と実へ通える。異常があれば、人と携行水を優先して離れられる。強い拠点ではない。長く使える保証も、一夜を越えた実績もない。

 だが、人間が巨獣を止めるのではなく、人間側が動くことで保つ寝床にはなった。

「今夜、ここで試す」

「準備が整っただけです。朝まで安全だったとは、まだ言えません」

「分かってる。だから試すんだ」

 セラフィナは幕の端と退避路をもう一度見たあと、レントの向かいへ腰を下ろした。

「では、停止判断は私が行います」

「頼む。俺は、ずれたら直す」

 巨獣の呼吸が、再び毛並みをゆっくり動かした。

 幕は逆らわずに滑り、端で止まり、静かに戻った。