眠る巨獣の背中で町づくり――夢の景色は消せないので、仲間と動かせる暮らしを始めます

 レントは露を入れた器と、布に包んだ実を自分の前へ並べた。

「まず水を飲む。そのあと実も食べる」

「却下します」

 即答だった。

 簡易幕の向こうでは、巨獣の呼吸に合わせて暗い毛並みがゆっくりとうねっている。セラフィナは器へ手を伸ばさず、レントの顔を正面から見た。

「両方を続けて口にすれば、異常が起きたとき、どちらが原因か分かりません」

「少量ずつなら――」

「少量でも同じです。それに、レント殿が試すのであれば、レント殿自身は正確な観察役になれません」

「自分の身体だ。違和感くらい分かる」

「意識を失ってから報告していただいても困ります」

 反論しようとして、レントは口を閉じた。

 危険を他人へ押しつけないつもりだった。だが、試す者と止める者が同じでは、倒れる寸前まで続けてしまう可能性がある。前世でも、狭い船内で一人が点検と作業を兼ねれば、見落としは増えた。

「……水から試す。実は時間を空ける」

「それだけでは足りません」

「祭守殿が俺を見る。俺は巨獣と採取場所を見る。何かあれば、祭守殿の判断で止める」

 セラフィナの眉がわずかに動いた。

「私が中止を告げた場合、反論せず従いますか」

「理由は聞く」

「停止した後であれば」

「厳しい条件だな」

「未知の物を食べようとしている方へ、甘い条件を出す理由がありません」

 レントは露の器を持ち上げた。

「分かった。観察役を頼む」

 セラフィナはしばらく彼を見ていたが、やがて小さくうなずいた。

「では、採取場所から確認します。持ち帰った水だけを見て、安全とは判断できません」

 二人は地上へ戻れるだけの時間が残っていることを確かめ、携行水と保存食を持ったまま、毛の密集部へ引き返した。

 窪地の手前で、レントは足を止める。

「ここから先は同じ場所を踏む」

「道を決めるのですか」

「採るたびに周りを踏み荒らしたら、水より先に窪地が駄目になる」

 長い毛の流れを見て、露が集まる窪みを避けるように接近線を選ぶ。踏む場所は毛の根元が見えず、比較的厚く重なった部分に限定した。採水する窪みも一つだけに決める。

 レントはその場へしゃがみ、器を傾けた。水はわずかに揺れたが、濁りは目立たない。匂いを確かめても、土や腐敗した植物の臭気はなかった。

「夢の魔力は?」

 セラフィナは毛先へ指を近づけ、触れずに目を細めた。

「微かにあります。ただし泉の周囲ほど濃くありません。毛そのものに残る魔力と区別できない程度です」

「安心材料としては弱いな」

「危険の証拠にもなりません」

「なら、予定どおり試す」

 レントは器の縁を唇へ当てた。

「一口です」

「分かってる」

 本当に、舌を湿らせる程度だった。

 冷たい。目立つ味はなく、わずかに植物の青い匂いがする。飲み込んだあと、喉へ痛みはない。舌の痺れも、胸の熱も感じなかった。

 セラフィナは巨獣の毛並みを一度見てから、レントへ視線を戻した。

「顔色に変化はありません。呼吸は?」

「普通だ」

「手を動かしてください」

「俺は今、何の試験を受けているんだ」

「指示へ従えるかどうかです」

 レントは右手を開閉し、腕を上げた。動きに鈍さはない。

「眩暈、吐き気、眠気、痛み、感覚の違いが出た時点で中止します。採水も増やしません」

「巨獣の毛が変色する、呼吸が乱れる、窪地が濁る。その場合も止める」

「泉に異常が出た場合は?」

「泉とここは別に扱う。泉が揺れても、この水まで危険だとは決めない。ただし同時には使わない」

 セラフィナは一拍置いてうなずいた。

「その区別なら妥当です」

 時間を置くあいだ、二人は窪地から離れ、決めた接近線の外へ座った。レントは携行水を少し飲み、保存食をひとかけら齧った。試験した露だけで渇きを満たすつもりはない。

 しばらくしても、身体に異常は出なかった。

「今夜の範囲では、飲めた」

「一度だけです。明日も同じ水が得られるとは限りません」

「分かってる。それでも、候補から一歩進んだ」

 レントが立ち上がったとき、毛束の上から短い鳴き声が落ちてきた。

 毛玉だった。

 いつから見ていたのか、丸い身体を半分だけ覗かせている。レントたちが近づかないと分かると、毛玉はするりと下り、実のある葉陰へ走った。

 一つの実へ鼻を寄せ、すぐに顔を背ける。

「未熟な物を避けました」

 セラフィナの声に、わずかな期待が混じった。

「選べるのかもしれないな」

 毛玉は次の実も嗅いだ。今度はまだ硬く、色も浅い。ところが毛玉は急に毛を震わせ、飛びつくように抱え込んだ。

「そっちは熟してないぞ」

 レントの声など気にせず、毛玉は勢いよく齧った。

 直後、身体が固まった。

 黒い目が大きく見開かれ、口元の毛がぶわりと膨らむ。毛玉は実を放り出し、前脚で舌を掻くような仕草をしながら、甲高く鳴いた。転がる実へ向かって何度も威嚇し、最後には後ろ脚で蹴り飛ばす。

「賢い選別役ではなかったようです」

 セラフィナが真顔で言った。

「最初の一個で期待させるのが上手いな」

 毛玉は二人を睨んだ。自分の失敗を笑われたと理解したわけではないだろうが、機嫌が悪いことだけはよく分かる。

 レントは蹴り飛ばされた実へ近づかず、毛玉が最初に避けた物と見比べた。

「食べられるかどうかじゃない。匂いに引かれたんだろう」

「夢の魔力が強い実だった可能性があります」

「好みの問題か。参考にはなるが、答えではないな」

 毛玉は鼻を鳴らすように顔を背け、今度は色の濃い柔らかな実を選んだ。慎重さなど忘れたように齧り始め、今度は途中で捨てなかった。

 レントは毛玉が触れていない実の中から、同じ色と柔らかさの物だけを分けた。未熟な実は採らず、目印としてそのまま残す。

「水を飲んでから、十分に時間は空きました」

 セラフィナが言った。

「次は実だな」

「口内の痛み、痺れ、強い苦味、眠気が出た時点で吐き出してください。飲み込んだ後に異常が出れば、以後の採取も停止します」

「命令が細かくなってきたな」

「従うと約束した方がいるので」

 レントは実を割り、ほんの一片だけを口へ入れた。

 薄い甘さのあとに、少し青い酸味が広がった。未熟な物ほどではないのだろう。舌へ痺れはなく、喉も痛まない。

「どうですか」

「甘い。少し酸っぱい。保存食よりは食事らしい」

「感想ではなく異常を聞いています」

「異常なし」

 残りは食べずに包み直した。試験は試験だ。空腹を理由に量を増やせば、ここまで分けた意味がなくなる。

 再び時間を置いたが、眠気も痛みも現れなかった。毛玉は離れた場所で熟した実を食べ終え、二人の結果には興味もなさそうに毛づくろいをしている。

 レントは採水場所から実のある一帯までを見渡した。

「水へ行く道と、実を採る場所は分ける。窪地の周りは踏まない。実は色の濃い柔らかい物だけ。未熟な物は残す」

「採取は少量。毛並み、窪地、水の状態が変われば停止します。レント殿に異常が出た場合も同様です」

「携行水と保存食は減らさない前提で持つ。泉とは同時に使わない」

「その条件であれば、次の確認には反対しません」

 禁止ではなく、続けるための条件だった。

 レントはセラフィナを見る。

「祭守殿の反対は、計画へ入れた方が役に立つらしい」

「ようやく理解しましたか」

「全部聞くとは言ってない」

「では、止める必要があるときは止めます」

「それでいい。判断を頼む」

 セラフィナは驚いたように瞬きをしたが、すぐに露の窪地へ目を戻した。

「任される範囲を越えるつもりはありません」

「俺も全部預けるつもりはない」

「その程度が妥当でしょう」

 二人は決めた接近線を崩さず、簡易幕へ戻った。

 現地の水を初めて飲んだ。現地の実を初めて食べた。どちらも、今夜の少量試験では悪影響がなかった。

 だが、明日も採れる保証はない。腹を満たせる量もなく、簡易幕は相変わらず巨獣の呼吸に合わせて頼りなく揺れている。

 レントは残った実と露の器を分けて置き、携行水を手に取った。

「水と食事は、一歩進んだな」

「一歩だけです」

「祭守殿は成果を小さく言う」

「あなたが大きく言いすぎるのです」

 毛の密集部の方角から、毛玉の不満そうな鳴き声が響いた。

「丸いのは、実選びで一歩下がったか」

「本人はそう思っていないでしょう」

「なら、三者とも満足だな」

 セラフィナは否定しかけ、揺れる簡易幕を見上げた。

「住居については、誰も満足できません」

 巨獣の呼吸が一つ深くなり、幕の端がずるりと動いた。

 レントは手で押さえながら、苦笑した。

「次の問題は、ずいぶん自己主張が強いな」