「最初に採水。それから朝食の確認、共用設備、軽作業、最後に住居だ」
レントは町の入口で、試験居住者たちへ今日の順路を指し示した。前回の見学より荷物は多い。だが、誰も案内役へ渡そうとはせず、自分で背負っている。
「無理に全部覚えなくていい。順番どおり回れば、必要なことは一つずつ説明する」
「随分きれいに並べましたね」
隣でセラフィナが言った。
「初日くらい、きれいに始めたいんだ」
「巨獣にも、その予定を伝えましたか」
「伝わっているなら、今日だけ協力してほしい」
返事の代わりに、足元がゆっくり持ち上がった。
巨獣の深い呼吸だった。
町を支える毛並みが大きく傾き、独立して置かれた連絡足場同士の位置がずれる。壊れた物はない。揺れも想定内だ。だが、レントが最初に渡るつもりだった足場は遠ざかり、採水地点へ続く近道は使えなくなった。
試験居住者たちが立ち止まる。
レントも、手にした順路を見つめた。
「……よし。迂回する」
頭の中で新しい順番を組み直す。先に共用区画を通り、そこから採水へ回ればいい。設備説明を途中へ挟んで――。
「レント」
セラフィナの声が止めた。
「今、別の順路を作っても、次の呼吸でまた変わります」
「だからといって、初日から好きに歩かせるわけにはいかない」
「好きに歩くことと、自分で選ぶことは違います」
彼女は試験居住者へ向き直り、傾いた毛並みと、離れた足場との間を指した。
「道の名前より、見る場所を覚えてください。毛がどちらへ倒れているか。足場の端に余裕があるか。引き返す場所が残っているか。分からなければ進まず、待つ。それでも判断できなければ呼んでください」
「巨獣がこちらへ行けと言っている、ということですか」
候補者の一人が尋ねた。
「違います」
セラフィナは即答した。
「巨獣が何を望んでいるかは、私にも断定できません。私たちが確認できるのは、今どこが動き、どこに負担があり、どこなら安全に止まれるかです」
レントは、折り目まで付けた順路を畳んだ。
全部を説明しきれないまま任せるのは不安だった。だが、今日だけ予定どおり動けても、明日同じ道があるとは限らない。
「今日、必ずやるのは水を確保すること、食べること、無理のない作業を一つすること、日が落ちる前に住居へ戻ることだ」
レントは三つの経路を見渡した。
「退路を塞がない。足場が動いている時は渡らない。迷ったら止まる。それを守って、採水へ行く道を選んでくれ」
「案内しないんですか」
「危険な方を選んだら止める。だが、俺の後ろを歩くだけにはしない」
候補者たちは顔を見合わせたあと、毛並みの傾きを確かめ始めた。一人が遠回りになる広い足場を指し、別の一人が帰路にも使える空間が残っていることを確認する。
「こちらから行きます」
「分かった。先頭は任せる」
レントは半歩後ろへ下がった。
採水地点へ向かう途中、荷を背負った候補者が休むため、通路脇へ包みを置いた。
直後、前方から現れたモフルが足を止めた。
「ふる」
丸い毛並みが一回り大きく膨らみ、耳が横へ倒れる。包みと足場の端との隙間は、モフルが通れないほどではない。だが、逃げ道として選ぶには狭い。
「動かない方がいいですか」
「モフルを動かそうとしないでくれ」
レントが答えるより先に、別の候補者が包みを持ち上げた。
「ここへ置くと、通り道を狭めますね」
荷物が壁際ではなく、広い床板の中央寄りへ移される。人間には邪魔でも、両側に抜け道が残る置き方だった。
モフルはしばらく鼻先を揺らしたあと、包みを動かした者の横を通った。そのまま数歩進み、背中を向けて座る。
「認められた、ということですか」
「そこまで便利な判定はしてくれない」
レントは苦笑した。
「今の置き方より、後の置き方の方が落ち着けた。それだけだ。次も同じとは限らない」
最初に荷を置いた者は、少し考えてから自分の立ち位置を変えた。
「人が通れるだけでは、退路を空けたことにならないんですね」
「そういうことだ」
「むぅ」
モフルは確認するように一声鳴いたが、呼ばれる前に採水地点とは別の方角へ去っていった。
「案内してはくれないんですね」
「本人の用事があるらしい」
必要量だけ水を汲み、器を満杯にはしない。帰りの揺れでこぼれない量を候補者たち自身が選び、荷物を片側へ寄せずに分けて持った。
共用区画へ戻る頃には、全員の歩調が朝より遅くなっていた。
昼食を終えると、レントは用意していた作業を示した。共用物の運搬と、軽い整理。予定では両方を済ませるつもりだったが、候補者の一人がさらに別の荷まで見て言った。
「これも運べます。人数がいるうちに終わらせた方がいいでしょう」
「駄目だ」
ガルドが即座に切った。
「まだできます」
「できるかどうかは聞いていない。朝から慣れない足場を歩いて、水を運んで、食った量もいつもより少ない。その状態で夕方まで働けば、夜に動けなくなる」
「試験なのに、働かない方がいいんですか」
「明日の朝まで暮らす試験だ。今日のうちに潰れる競争じゃない」
ガルドは運搬物を見比べ、必要な物だけを残した。
「これだけだ。二人で持つ。残りは触るな」
レントが口を挟む。
「もう少し――」
「お前も黙れ。全部見せたがる顔をしている」
「顔で作業量を決めるな」
「では、朝に自分で作った予定表を出せ」
レントは畳んだ紙から目を逸らした。
「今日の予定は、もう死んだ」
「なら埋めておけ」
候補者たちは笑いをこらえながら、運ぶ物を減らした。片方が持ち手を確かめ、もう片方が進行方向を決める。残った者は通路上の小物を整理し、足元を空けた。
作業の途中、毛並みの下から低い振動が伝わってきた。
朝より細かい揺れだった。危険ではない。続けようと思えば続けられる程度だ。
候補者の一人が荷物を持ち直す。だが、先頭の者は足場の継ぎ目を見て、首を振った。
「置きます。揺れが収まるまで待ちたいです」
「まだ運べるぞ」
もう一人が言う。
「運べても、戻る場所が狭くなっています」
荷はその場で低く置かれ、通路を塞がない位置へ寄せられた。全員が広い区画まで戻り、揺れが落ち着くのを待つ。
セラフィナは止めもしなければ、褒めもしなかった。足場と退路を見たあとで、短く言う。
「今の判断なら続けられます」
それで十分だった。
夕方、候補者たちは朝に使わなかった経路を選んで滑動式の仮設拠点へ戻った。水は夜の分と予備に分け、荷物は出口から離し、退避路へ続く側を空ける。保存食も手元へ置いたが、すぐ食べ切るためではない。
「夜に揺れたら、外へ出た方が安全ですか」
「外が安全とは限らない」
セラフィナは住居の入口で答えた。
「まず足場を見る。住居の動きが通常の範囲で、出口と退避路が使えるなら、慌てて移動しない。判断できなければ声を上げてください」
「モフルが逃げたら?」
「モフルの行動だけで決めないでください。あの子は人とは違う場所を通れますし、別の理由で動くこともあります」
夜が深まると、住居は巨獣の呼吸に合わせて緩やかに揺れた。
床がわずかに傾き、置いた水の表面が震える。候補者たちは飛び出さず、入口側の足場と、荷物が退路を塞いでいないことを確かめた。外からセラフィナの短い声が届く。
「通常の範囲です。分からない変化があれば、その時に呼んでください」
揺れが収まっても、誰も作業の続きを始めなかった。
夜は、何事も起こらなかったのではない。
動いてもよい時に動き、止まるべき時に止まったから、何事にもならなかった。
翌朝、レントが滑動式の仮設拠点を訪れると、候補者たちはすでに起きていた。体調を確かめ合い、夜の間にずれた荷物を直し、水を朝の分へ分けている。
「眠れたか?」
「何度か目は覚めました」
「戻りたいと思ったか?」
「夜中には少し」
正直な返答だった。
「朝になっても同じか?」
候補者は住居の外へ目を向けた。呼吸に合わせて毛並みがゆっくり波打ち、昨日とはわずかに違う位置に足場がある。
「まだ決められません。でも、昨日よりは、ここで何を見ればいいか分かります」
ガルドは残った食事と顔色を確認し、セラフィナは住居周辺と退避路を見る。レントも床や荷物へ目を向けたが、担当に向いているかを口にはしなかった。
「昨日できたのは、採水、食事、移動、軽い作業。それと、自分たちで止まったことだ」
「一夜を越したこともですね」
セラフィナが加える。
「ただし、それだけです」
「分かっている」
レントは頷いた。
「住民になれるとも、仕事を任せられるとも、まだ決めない。今日も同じようにできるかは別だ」
「随分慎重になったな」
ガルドが言う。
「昨日の朝、予定表を一枚失ったからな」
「失ったのは紙ではなく、お前の思い込みだろう」
「朝から正確なことを言うな」
滑動式の仮設拠点の前で、候補者たちが水を持ち直す。今度は誰に言われるでもなく、通路の両側を空けていた。
町に新しい住民が増えたわけではない。任せられる仕事も、続けられる日数も、まだ決まっていない。
それでも、昨日まで見学者だった者たちが、巨獣の背で一日を選び、一夜を止まり、翌朝の暮らしを自分の手で始めていた。
空いていた仮設拠点に、初めて朝の生活音が生まれていた。
レントは町の入口で、試験居住者たちへ今日の順路を指し示した。前回の見学より荷物は多い。だが、誰も案内役へ渡そうとはせず、自分で背負っている。
「無理に全部覚えなくていい。順番どおり回れば、必要なことは一つずつ説明する」
「随分きれいに並べましたね」
隣でセラフィナが言った。
「初日くらい、きれいに始めたいんだ」
「巨獣にも、その予定を伝えましたか」
「伝わっているなら、今日だけ協力してほしい」
返事の代わりに、足元がゆっくり持ち上がった。
巨獣の深い呼吸だった。
町を支える毛並みが大きく傾き、独立して置かれた連絡足場同士の位置がずれる。壊れた物はない。揺れも想定内だ。だが、レントが最初に渡るつもりだった足場は遠ざかり、採水地点へ続く近道は使えなくなった。
試験居住者たちが立ち止まる。
レントも、手にした順路を見つめた。
「……よし。迂回する」
頭の中で新しい順番を組み直す。先に共用区画を通り、そこから採水へ回ればいい。設備説明を途中へ挟んで――。
「レント」
セラフィナの声が止めた。
「今、別の順路を作っても、次の呼吸でまた変わります」
「だからといって、初日から好きに歩かせるわけにはいかない」
「好きに歩くことと、自分で選ぶことは違います」
彼女は試験居住者へ向き直り、傾いた毛並みと、離れた足場との間を指した。
「道の名前より、見る場所を覚えてください。毛がどちらへ倒れているか。足場の端に余裕があるか。引き返す場所が残っているか。分からなければ進まず、待つ。それでも判断できなければ呼んでください」
「巨獣がこちらへ行けと言っている、ということですか」
候補者の一人が尋ねた。
「違います」
セラフィナは即答した。
「巨獣が何を望んでいるかは、私にも断定できません。私たちが確認できるのは、今どこが動き、どこに負担があり、どこなら安全に止まれるかです」
レントは、折り目まで付けた順路を畳んだ。
全部を説明しきれないまま任せるのは不安だった。だが、今日だけ予定どおり動けても、明日同じ道があるとは限らない。
「今日、必ずやるのは水を確保すること、食べること、無理のない作業を一つすること、日が落ちる前に住居へ戻ることだ」
レントは三つの経路を見渡した。
「退路を塞がない。足場が動いている時は渡らない。迷ったら止まる。それを守って、採水へ行く道を選んでくれ」
「案内しないんですか」
「危険な方を選んだら止める。だが、俺の後ろを歩くだけにはしない」
候補者たちは顔を見合わせたあと、毛並みの傾きを確かめ始めた。一人が遠回りになる広い足場を指し、別の一人が帰路にも使える空間が残っていることを確認する。
「こちらから行きます」
「分かった。先頭は任せる」
レントは半歩後ろへ下がった。
採水地点へ向かう途中、荷を背負った候補者が休むため、通路脇へ包みを置いた。
直後、前方から現れたモフルが足を止めた。
「ふる」
丸い毛並みが一回り大きく膨らみ、耳が横へ倒れる。包みと足場の端との隙間は、モフルが通れないほどではない。だが、逃げ道として選ぶには狭い。
「動かない方がいいですか」
「モフルを動かそうとしないでくれ」
レントが答えるより先に、別の候補者が包みを持ち上げた。
「ここへ置くと、通り道を狭めますね」
荷物が壁際ではなく、広い床板の中央寄りへ移される。人間には邪魔でも、両側に抜け道が残る置き方だった。
モフルはしばらく鼻先を揺らしたあと、包みを動かした者の横を通った。そのまま数歩進み、背中を向けて座る。
「認められた、ということですか」
「そこまで便利な判定はしてくれない」
レントは苦笑した。
「今の置き方より、後の置き方の方が落ち着けた。それだけだ。次も同じとは限らない」
最初に荷を置いた者は、少し考えてから自分の立ち位置を変えた。
「人が通れるだけでは、退路を空けたことにならないんですね」
「そういうことだ」
「むぅ」
モフルは確認するように一声鳴いたが、呼ばれる前に採水地点とは別の方角へ去っていった。
「案内してはくれないんですね」
「本人の用事があるらしい」
必要量だけ水を汲み、器を満杯にはしない。帰りの揺れでこぼれない量を候補者たち自身が選び、荷物を片側へ寄せずに分けて持った。
共用区画へ戻る頃には、全員の歩調が朝より遅くなっていた。
昼食を終えると、レントは用意していた作業を示した。共用物の運搬と、軽い整理。予定では両方を済ませるつもりだったが、候補者の一人がさらに別の荷まで見て言った。
「これも運べます。人数がいるうちに終わらせた方がいいでしょう」
「駄目だ」
ガルドが即座に切った。
「まだできます」
「できるかどうかは聞いていない。朝から慣れない足場を歩いて、水を運んで、食った量もいつもより少ない。その状態で夕方まで働けば、夜に動けなくなる」
「試験なのに、働かない方がいいんですか」
「明日の朝まで暮らす試験だ。今日のうちに潰れる競争じゃない」
ガルドは運搬物を見比べ、必要な物だけを残した。
「これだけだ。二人で持つ。残りは触るな」
レントが口を挟む。
「もう少し――」
「お前も黙れ。全部見せたがる顔をしている」
「顔で作業量を決めるな」
「では、朝に自分で作った予定表を出せ」
レントは畳んだ紙から目を逸らした。
「今日の予定は、もう死んだ」
「なら埋めておけ」
候補者たちは笑いをこらえながら、運ぶ物を減らした。片方が持ち手を確かめ、もう片方が進行方向を決める。残った者は通路上の小物を整理し、足元を空けた。
作業の途中、毛並みの下から低い振動が伝わってきた。
朝より細かい揺れだった。危険ではない。続けようと思えば続けられる程度だ。
候補者の一人が荷物を持ち直す。だが、先頭の者は足場の継ぎ目を見て、首を振った。
「置きます。揺れが収まるまで待ちたいです」
「まだ運べるぞ」
もう一人が言う。
「運べても、戻る場所が狭くなっています」
荷はその場で低く置かれ、通路を塞がない位置へ寄せられた。全員が広い区画まで戻り、揺れが落ち着くのを待つ。
セラフィナは止めもしなければ、褒めもしなかった。足場と退路を見たあとで、短く言う。
「今の判断なら続けられます」
それで十分だった。
夕方、候補者たちは朝に使わなかった経路を選んで滑動式の仮設拠点へ戻った。水は夜の分と予備に分け、荷物は出口から離し、退避路へ続く側を空ける。保存食も手元へ置いたが、すぐ食べ切るためではない。
「夜に揺れたら、外へ出た方が安全ですか」
「外が安全とは限らない」
セラフィナは住居の入口で答えた。
「まず足場を見る。住居の動きが通常の範囲で、出口と退避路が使えるなら、慌てて移動しない。判断できなければ声を上げてください」
「モフルが逃げたら?」
「モフルの行動だけで決めないでください。あの子は人とは違う場所を通れますし、別の理由で動くこともあります」
夜が深まると、住居は巨獣の呼吸に合わせて緩やかに揺れた。
床がわずかに傾き、置いた水の表面が震える。候補者たちは飛び出さず、入口側の足場と、荷物が退路を塞いでいないことを確かめた。外からセラフィナの短い声が届く。
「通常の範囲です。分からない変化があれば、その時に呼んでください」
揺れが収まっても、誰も作業の続きを始めなかった。
夜は、何事も起こらなかったのではない。
動いてもよい時に動き、止まるべき時に止まったから、何事にもならなかった。
翌朝、レントが滑動式の仮設拠点を訪れると、候補者たちはすでに起きていた。体調を確かめ合い、夜の間にずれた荷物を直し、水を朝の分へ分けている。
「眠れたか?」
「何度か目は覚めました」
「戻りたいと思ったか?」
「夜中には少し」
正直な返答だった。
「朝になっても同じか?」
候補者は住居の外へ目を向けた。呼吸に合わせて毛並みがゆっくり波打ち、昨日とはわずかに違う位置に足場がある。
「まだ決められません。でも、昨日よりは、ここで何を見ればいいか分かります」
ガルドは残った食事と顔色を確認し、セラフィナは住居周辺と退避路を見る。レントも床や荷物へ目を向けたが、担当に向いているかを口にはしなかった。
「昨日できたのは、採水、食事、移動、軽い作業。それと、自分たちで止まったことだ」
「一夜を越したこともですね」
セラフィナが加える。
「ただし、それだけです」
「分かっている」
レントは頷いた。
「住民になれるとも、仕事を任せられるとも、まだ決めない。今日も同じようにできるかは別だ」
「随分慎重になったな」
ガルドが言う。
「昨日の朝、予定表を一枚失ったからな」
「失ったのは紙ではなく、お前の思い込みだろう」
「朝から正確なことを言うな」
滑動式の仮設拠点の前で、候補者たちが水を持ち直す。今度は誰に言われるでもなく、通路の両側を空けていた。
町に新しい住民が増えたわけではない。任せられる仕事も、続けられる日数も、まだ決まっていない。
それでも、昨日まで見学者だった者たちが、巨獣の背で一日を選び、一夜を止まり、翌朝の暮らしを自分の手で始めていた。
空いていた仮設拠点に、初めて朝の生活音が生まれていた。
