明日の探索に使う器が、一つ足りない。
簡易幕の脇で荷物を並べ直していたレントは、空いた場所を見つめた。泉から採った水を置いた器ではない。携行用に使う、浅くて軽い木の器だ。
「祭守殿。そこに置いてあった器、動かしたか?」
「触れていません」
少し離れたところで泉の方角を見ていたセラフィナが、すぐに答えた。
次の瞬間、幕の裏から白っぽい何かが転がり出た。
丸い。毛だらけだ。短い脚で器を抱え、器というより自分の方が転がりそうな走り方をしている。
「おい」
レントが一歩踏み出すと、毛玉は全身の毛を一斉に逆立てた。輪郭が倍ほどに膨らみ、甲高い鳴き声を一つ上げて逃げる。
「待て。それは食べられないぞ」
「レント殿、追い詰めないでください」
「追い詰める気はない。返してもらう気はある」
毛玉は数歩先で止まり、振り返った。器を前脚で押さえたまま、黒い目だけをこちらへ向けている。
ただ逃げるつもりなら、もっと先へ行けるはずだ。
レントは歩幅を狭めた。正面から近づかず、毛玉が横へ抜けられる距離を残す。
「未知の生き物を捕まえて、噛まれて、道具も壊れる。三重に損だな」
「損得で判断するのですね」
「祭守殿は神聖さで判断してるのか?」
「巨獣の魔力に近い生物である可能性を考えています」
「まだ何も分からない点では同じだ」
セラフィナは言い返さず、足音を抑えてついてきた。
毛玉は二人が近づきすぎると走り、距離が開くと止まった。案内しているようにも見えるが、器を抱えて逃げ切る機会をうかがっているだけかもしれない。
やがて毛玉は泉のある窪地へ向かった。
「水を飲みに来たのか?」
レントが呟くと、毛玉は泉の縁で急に足を止めた。
水面が揺れている。
巨獣の呼吸に合わせた大きな波とは別に、細かな波紋が水面の一部へ重なっていた。風はほとんどない。泉へ落ちる雫も見えない。
毛玉の毛先が尖るように逆立った。
次の呼吸で地面がゆるく上下すると、毛玉は器を抱えたまま泉から飛び退き、別の方向へ走った。
「今のを、どう見る?」
レントは泉へ近づかずに尋ねた。
「異常とは断定できません。水面の動きが巨獣の状態と連動している可能性はあります」
「少なくとも、いつでも同じ水が採れる泉とは考えない方がよさそうだ」
「毛玉の反応だけを根拠にはできません」
「分かってる。だが、確認する優先順位は変えられる」
泉を詳しく調べるために毛玉を見失うより、毛玉がどこへ向かうのかを見る。
レントはそう決めて、再び追った。
毛玉が入り込んだのは、長い毛が密集して生えた一帯だった。夜の入口を迎えた空気は冷え始め、足元には草とも毛ともつかない細い繊維が重なっている。
その奥に、浅い窪みがいくつも続いていた。
毛玉は一つの窪みへ器を置き、顔を突っ込んだ。ぺちゃぺちゃと小さな音がする。
「水か?」
レントはしゃがんだが、すぐには手を出さなかった。
巨獣の毛を伝った露が、絡み合った植物片を通って窪みに集まっている。泉のように湧いているのではない。冷えた空気の中で生じた雫が、毛の傾きに沿って少しずつ溜まっていた。
毛玉は露を舐め終えると、今度は窪みの縁を前脚で掻き始めた。葉の陰から、小さな実がいくつか転がり出る。
「水の次は食事か。ずいぶん準備のいい盗人だな」
毛玉は実を一つ抱え込み、レントを睨んだ。
「それを渡せとは言ってない。器を返せ」
通じるはずもない。それでもレントが空の手を見せると、毛玉は器へ片脚を乗せた。所有を主張しているように見える。
レントは背負い袋を探り、柔らかい布を少しだけ引き出した。毛玉の目がそちらへ動く。
「交換するか?」
布を地面へ置く。
毛玉は数歩近づいたが、器から離れない。鼻先を動かしたあと、布ではなく実を抱え直した。
「交渉不成立だな」
「当然です。あなたの意図を理解しているとは限りません」
「祭守殿より条件が厳しい」
「比較しないでください」
毛玉は二人が動かないと分かると、再び露を舐め始めた。実を一つ齧り、別の実は転がして選り分けている。
食べたから安全とは限らない。あの生き物と人間では、身体の仕組みが違う可能性がある。
それでも、候補にはなる。
レントは毛玉の逃げ道を塞がない位置から、空いている別の窪みへ近づいた。布越しに露を少量だけ器へ移す。毛や土が混ざらないよう、表面に溜まった分だけだ。
続いて、毛玉が触れていない実を一つ選び、別に包んだ。
「飲まないのですか」
「今夜は飲まない。実も食べない」
セラフィナがわずかに眉を上げた。
「目の前で食べている生物がいても?」
「さっき、泉を前にして水筒を飲んだ男だぞ。今さら格好はつけない」
「妥当です」
「その言い方、便利だな」
セラフィナは毛玉へ視線を戻した。
彼女はゆっくり膝をつき、両手を見える位置へ置いた。
「小さな夢毛獣。私たちは、あなたの場所を奪うつもりはありません」
低く整った声だった。
毛玉は顔を上げた。逃げはしない。だがセラフィナがもう少し近づこうとすると、器を蹴るように後ろへ下がり、高い毛の束へ飛び乗った。
セラフィナの動きが止まる。
「近づきすぎたようです」
「神聖な使者として迎えられる予定だったか?」
「そのような断定はしていません」
「顔には少し出てた」
セラフィナは否定しかけ、毛玉を見上げて口を閉じた。
当の毛玉は二人ではなく、レントが置いた布を見ていた。しばらく迷った末、毛束から下り、布の端だけを咥える。引っ張ってみて、重いと分かると即座に捨てた。
代わりに器の匂いを嗅ぎ、前脚で押した。
器は緩い傾斜を滑り、レントの足元まで戻ってきた。
「返した、でいいのか?」
「不要になっただけかもしれません」
「その方が納得できるな」
レントが器を拾っても、毛玉は襲ってこなかった。高い場所へ戻り、身体を丸めたまま二人を監視している。
少なくとも、今すぐ追い払うべき敵とは見なされていないらしい。
こちらも同じだった。
レントは露を入れた器と、実を包んだ布を持ち上げた。
「泉は主な水源として考えない。先に、この露が飲めるか、同じ場所へまた溜まるかを確かめる」
「泉は放置するのですか」
「少量採取と観察は続ける。ただし別枠だ。泉が揺らいでも、全部の水を失う形にはしない」
「実は?」
「水とは分けて試す。毛玉が食べたことは参考にはするが、保証にはしない」
セラフィナは露の器を覗き込み、それから泉の方角を振り返った。
「許可ではありません。採取量を増やさず、毛の状態と巨獣の皮膚を確認すること。明日も溜まっているかを見ること。その条件なら、観察には反対しません」
「十分だ」
高所の毛玉が短く鳴いた。
二人の合意に参加したわけではない。実を抱え直し、自分の場所から早く立ち去れとでも言うように毛を膨らませている。
「分かったよ、丸いの。縄張りには長居しない」
レントが下がると、毛玉の毛が少しだけ落ち着いた。
簡易幕へ戻る道で、セラフィナは何度か背後を振り返った。毛玉はついてこない。ただ、高い毛束の上から二人を見送っていた。
幕へ戻る頃には、空はすっかり暗くなり始めていた。
レントは露と実を泉水の器から離して置き、保存食を取り出した。今夜の食事が増えたわけではない。安全な水も、食べられる実も、まだ一つも確定していない。
それでも、少し前とは違う。
水の可能性は、能力で残した泉だけではなくなった。
レントは携行水を一口飲み、保存食を齧った。
「盗まれた器を追った結果としては、悪くない」
「毛玉があなたを導いたとは考えないでください」
「考えてない。あいつは自分の水と食事を取りに行っただけだ」
「では、何を得たのですか」
「勝手に動く相手を、勝手に観察した結果だな」
セラフィナは露の器へ目を向けた。
「互いに、都合のよい意味を与えないことが必要ですね」
「祭守殿にも、俺にも、あの毛玉にもか」
「毛玉は、私たちへ意味を与えていないでしょう」
「布を持ってくる遅い生き物くらいには思われたかもしれない」
毛の密集部から、かすかな鳴き声が聞こえた。
同意には聞こえなかった。
簡易幕の脇で荷物を並べ直していたレントは、空いた場所を見つめた。泉から採った水を置いた器ではない。携行用に使う、浅くて軽い木の器だ。
「祭守殿。そこに置いてあった器、動かしたか?」
「触れていません」
少し離れたところで泉の方角を見ていたセラフィナが、すぐに答えた。
次の瞬間、幕の裏から白っぽい何かが転がり出た。
丸い。毛だらけだ。短い脚で器を抱え、器というより自分の方が転がりそうな走り方をしている。
「おい」
レントが一歩踏み出すと、毛玉は全身の毛を一斉に逆立てた。輪郭が倍ほどに膨らみ、甲高い鳴き声を一つ上げて逃げる。
「待て。それは食べられないぞ」
「レント殿、追い詰めないでください」
「追い詰める気はない。返してもらう気はある」
毛玉は数歩先で止まり、振り返った。器を前脚で押さえたまま、黒い目だけをこちらへ向けている。
ただ逃げるつもりなら、もっと先へ行けるはずだ。
レントは歩幅を狭めた。正面から近づかず、毛玉が横へ抜けられる距離を残す。
「未知の生き物を捕まえて、噛まれて、道具も壊れる。三重に損だな」
「損得で判断するのですね」
「祭守殿は神聖さで判断してるのか?」
「巨獣の魔力に近い生物である可能性を考えています」
「まだ何も分からない点では同じだ」
セラフィナは言い返さず、足音を抑えてついてきた。
毛玉は二人が近づきすぎると走り、距離が開くと止まった。案内しているようにも見えるが、器を抱えて逃げ切る機会をうかがっているだけかもしれない。
やがて毛玉は泉のある窪地へ向かった。
「水を飲みに来たのか?」
レントが呟くと、毛玉は泉の縁で急に足を止めた。
水面が揺れている。
巨獣の呼吸に合わせた大きな波とは別に、細かな波紋が水面の一部へ重なっていた。風はほとんどない。泉へ落ちる雫も見えない。
毛玉の毛先が尖るように逆立った。
次の呼吸で地面がゆるく上下すると、毛玉は器を抱えたまま泉から飛び退き、別の方向へ走った。
「今のを、どう見る?」
レントは泉へ近づかずに尋ねた。
「異常とは断定できません。水面の動きが巨獣の状態と連動している可能性はあります」
「少なくとも、いつでも同じ水が採れる泉とは考えない方がよさそうだ」
「毛玉の反応だけを根拠にはできません」
「分かってる。だが、確認する優先順位は変えられる」
泉を詳しく調べるために毛玉を見失うより、毛玉がどこへ向かうのかを見る。
レントはそう決めて、再び追った。
毛玉が入り込んだのは、長い毛が密集して生えた一帯だった。夜の入口を迎えた空気は冷え始め、足元には草とも毛ともつかない細い繊維が重なっている。
その奥に、浅い窪みがいくつも続いていた。
毛玉は一つの窪みへ器を置き、顔を突っ込んだ。ぺちゃぺちゃと小さな音がする。
「水か?」
レントはしゃがんだが、すぐには手を出さなかった。
巨獣の毛を伝った露が、絡み合った植物片を通って窪みに集まっている。泉のように湧いているのではない。冷えた空気の中で生じた雫が、毛の傾きに沿って少しずつ溜まっていた。
毛玉は露を舐め終えると、今度は窪みの縁を前脚で掻き始めた。葉の陰から、小さな実がいくつか転がり出る。
「水の次は食事か。ずいぶん準備のいい盗人だな」
毛玉は実を一つ抱え込み、レントを睨んだ。
「それを渡せとは言ってない。器を返せ」
通じるはずもない。それでもレントが空の手を見せると、毛玉は器へ片脚を乗せた。所有を主張しているように見える。
レントは背負い袋を探り、柔らかい布を少しだけ引き出した。毛玉の目がそちらへ動く。
「交換するか?」
布を地面へ置く。
毛玉は数歩近づいたが、器から離れない。鼻先を動かしたあと、布ではなく実を抱え直した。
「交渉不成立だな」
「当然です。あなたの意図を理解しているとは限りません」
「祭守殿より条件が厳しい」
「比較しないでください」
毛玉は二人が動かないと分かると、再び露を舐め始めた。実を一つ齧り、別の実は転がして選り分けている。
食べたから安全とは限らない。あの生き物と人間では、身体の仕組みが違う可能性がある。
それでも、候補にはなる。
レントは毛玉の逃げ道を塞がない位置から、空いている別の窪みへ近づいた。布越しに露を少量だけ器へ移す。毛や土が混ざらないよう、表面に溜まった分だけだ。
続いて、毛玉が触れていない実を一つ選び、別に包んだ。
「飲まないのですか」
「今夜は飲まない。実も食べない」
セラフィナがわずかに眉を上げた。
「目の前で食べている生物がいても?」
「さっき、泉を前にして水筒を飲んだ男だぞ。今さら格好はつけない」
「妥当です」
「その言い方、便利だな」
セラフィナは毛玉へ視線を戻した。
彼女はゆっくり膝をつき、両手を見える位置へ置いた。
「小さな夢毛獣。私たちは、あなたの場所を奪うつもりはありません」
低く整った声だった。
毛玉は顔を上げた。逃げはしない。だがセラフィナがもう少し近づこうとすると、器を蹴るように後ろへ下がり、高い毛の束へ飛び乗った。
セラフィナの動きが止まる。
「近づきすぎたようです」
「神聖な使者として迎えられる予定だったか?」
「そのような断定はしていません」
「顔には少し出てた」
セラフィナは否定しかけ、毛玉を見上げて口を閉じた。
当の毛玉は二人ではなく、レントが置いた布を見ていた。しばらく迷った末、毛束から下り、布の端だけを咥える。引っ張ってみて、重いと分かると即座に捨てた。
代わりに器の匂いを嗅ぎ、前脚で押した。
器は緩い傾斜を滑り、レントの足元まで戻ってきた。
「返した、でいいのか?」
「不要になっただけかもしれません」
「その方が納得できるな」
レントが器を拾っても、毛玉は襲ってこなかった。高い場所へ戻り、身体を丸めたまま二人を監視している。
少なくとも、今すぐ追い払うべき敵とは見なされていないらしい。
こちらも同じだった。
レントは露を入れた器と、実を包んだ布を持ち上げた。
「泉は主な水源として考えない。先に、この露が飲めるか、同じ場所へまた溜まるかを確かめる」
「泉は放置するのですか」
「少量採取と観察は続ける。ただし別枠だ。泉が揺らいでも、全部の水を失う形にはしない」
「実は?」
「水とは分けて試す。毛玉が食べたことは参考にはするが、保証にはしない」
セラフィナは露の器を覗き込み、それから泉の方角を振り返った。
「許可ではありません。採取量を増やさず、毛の状態と巨獣の皮膚を確認すること。明日も溜まっているかを見ること。その条件なら、観察には反対しません」
「十分だ」
高所の毛玉が短く鳴いた。
二人の合意に参加したわけではない。実を抱え直し、自分の場所から早く立ち去れとでも言うように毛を膨らませている。
「分かったよ、丸いの。縄張りには長居しない」
レントが下がると、毛玉の毛が少しだけ落ち着いた。
簡易幕へ戻る道で、セラフィナは何度か背後を振り返った。毛玉はついてこない。ただ、高い毛束の上から二人を見送っていた。
幕へ戻る頃には、空はすっかり暗くなり始めていた。
レントは露と実を泉水の器から離して置き、保存食を取り出した。今夜の食事が増えたわけではない。安全な水も、食べられる実も、まだ一つも確定していない。
それでも、少し前とは違う。
水の可能性は、能力で残した泉だけではなくなった。
レントは携行水を一口飲み、保存食を齧った。
「盗まれた器を追った結果としては、悪くない」
「毛玉があなたを導いたとは考えないでください」
「考えてない。あいつは自分の水と食事を取りに行っただけだ」
「では、何を得たのですか」
「勝手に動く相手を、勝手に観察した結果だな」
セラフィナは露の器へ目を向けた。
「互いに、都合のよい意味を与えないことが必要ですね」
「祭守殿にも、俺にも、あの毛玉にもか」
「毛玉は、私たちへ意味を与えていないでしょう」
「布を持ってくる遅い生き物くらいには思われたかもしれない」
毛の密集部から、かすかな鳴き声が聞こえた。
同意には聞こえなかった。
