泉の水を今夜から使えれば、携行水を減らさずに済む。
レントは小さな器を手に、水際へしゃがみ込んだ。夕日はもう草原の端へ沈みかけている。それでも泉は消えず、水面は巨獣の呼吸に合わせてかすかに揺れていた。
少し前まで存在しなかった水だ。澄んでいても、飲めるとは限らない。
「まずは一杯分にも満たないくらいで――」
「その水から手を離してください」
鋭い声に、レントは器を止めた。
窪地の縁に、一人の女性が立っていた。旅装ではない。簡素だが整った衣服と、巨獣の背を歩き慣れた足運び。風に揺れる草の向こうから、彼女は泉と木を順に見て、最後にレントへ視線を固定した。
「聞こえませんでしたか。採らないでください」
「聞こえてる。ただ、まだ水には触れてない」
「触れる直前だったことを、触れていないとは言いません」
祭守の女性は窪地へ下りてきたが、泉には近づかなかった。水面よりも、その周囲の草と地面を見ている。
「これは、あなたが生じさせたものですか」
「正確には、眠っている巨獣の夢にあった景色の一部を、ここへ残した」
「残した?」
「消し方は分からない。能力を使い終えても、泉も木も残ってる」
女性の表情が硬くなった。
「では、元へ戻せない変化を、許可も確認もなく巨獣の身体へ加えたのですね」
「結果としては、そうなる」
「結果ではありません。あなたが選んだ行為です」
言葉の切れ味は、夕方の風より鋭かった。
レントは器を地面へ置き、立ち上がった。言い返す材料ならある。水が必要だったこと。小さな範囲に留めたこと。夕方まで泉も木も崩れていないこと。
だが、それで安全を証明できるわけではない。
「巨獣は嫌がっていない、と言うつもりですか」
「いや」
祭守の女性がわずかに目を細めた。
「沈黙してるから許された、とは思ってない。俺には、この泉が負担になってるかどうか分からない」
「分からないまま、利用するのですか」
「だから飲んでない。今も、少量を採って確かめようとしただけだ」
「利用を始めれば、次は量を増やす理由が生まれます。水が足りない。暮らしに必要だ。せっかく出したのだから使うべきだ。人はそうやって、沈黙へ自分の都合を足していきます」
否定しづらい指摘だった。
レント自身、泉を今夜から使えれば便利だと考えていた。携行水を温存できれば、ここへ留まれる時間も延びる。その期待が判断を急がせていないとは言い切れない。
「それなら、先に聞く」
レントは泉から一歩下がった。
「何を見れば、少なくとも今すぐ危険かどうか分かる?」
「私の判断を、利用の許可にするつもりですか」
「違う。俺に見えないものを教えてほしい。俺は水そのものを調べる。あなたは巨獣への負担を見る。それでも判断できないなら、使わない」
女性はすぐには答えなかった。
巨獣の呼吸が地面を持ち上げ、木の葉がざわめく。彼女はその周期を数えるように視線を落とした。
「呼吸の間隔。泉の周囲の体温。皮膚の張り方を見ます。苦痛や強い違和感があれば、普段と異なる緊張が現れることがあります」
「巨獣が何を考えてるか分かるのか?」
「分かりません」
返答は即座だった。
「私は意思を聞けるわけではありません。見える変化から、負担の兆候を探すだけです。兆候がないことも、許可を意味しません」
「十分だ。少なくとも、俺が水面だけ眺めて判断するよりましだ」
女性はレントを見据えたまま、名乗った。
「祭守、セラフィナ・ルゥネです。巨獣の状態を観察し、その身体を害する行為を止める役目を負っています」
「レント・アシュベル。ここで暮らせる方法を探してる」
「許可された居住者ではありませんね」
「今のところは、勝手に幕を張った異邦人だな」
「自覚があるなら、なお悪いです」
「そこは今後の交渉材料にしてくれ、祭守殿」
セラフィナは軽口には応じなかった。ただ、泉から離れた位置へ膝をつき、掌を草の間へ差し入れた。
「採るなら、ごく少量です。水面を乱さないように。異変があれば、即座に接近も採取も止めてください」
「分かった」
「まだ許可ではありません」
「試す条件を確認しただけだ」
レントは器を持ち直した。
水際を踏み荒らさないよう、乾いた場所から腕だけを伸ばす。器の縁を浅く沈め、底を満たす前に引き上げた。こぼれた雫が草へ落ちる。
泉の広がりに変化はない。周囲の土が急に沈む様子もなかった。
レントは採った水へ生活魔法を使った。普段なら飲み水や食器に明らかな汚れがないかを見るための、ごく簡単なものだ。淡い光が器の表面を滑り、濁りや異臭、目立った異常反応を探って消える。
「明らかな濁りはない。変な匂いも出てない。魔法も強い反応は返してない」
「安全なのですか」
「そこまでは分からない」
レントは器を口元へ運ばず、地面へ置いた。
「これは毒を何でも見抜く魔法じゃない。普通の生活で避けるべき異常が、今のところ見当たらないだけだ」
セラフィナの視線が、器からレントの顔へ移った。
「飲まないのですね」
「飲めると分かってないからな。ここで倒れたら、泉の観察どころじゃない」
「成功を証明したいのでは?」
「成功したかどうかを知りたい。証明したいわけじゃない」
言いながら、少しだけ惜しいとは思った。冷たく澄んだ水は、乾いた喉には十分すぎる誘惑だった。
レントは背負い袋から携行水を取り出し、一口だけ飲んだ。
「目の前に泉があるのに水筒を飲むのは、二度目でも間抜けに見えるな」
「妥当な判断です」
「慰める気はなさそうだ」
「必要がありますか」
「ないな」
その後、二人は会話を減らした。
レントは採取前に目印とした草の位置を確かめ、水面の高さと湿りの広がりを見る。セラフィナは泉から距離を保ち、呼吸のたびに変わる地面の動きへ手を当てた。ときおり立ち位置を変え、木の根元から離れた場所とも温度を比べている。
日がさらに沈み、草原の影が長くなった。
「呼吸の周期に、目立った乱れはありません」
セラフィナがようやく口を開いた。
「泉の周囲だけ体温が急に上がった様子も、皮膚が強く張っている様子もない。現時点で、苦痛を示す変化は確認できません」
「採った水も、見える範囲では変化なし。泉も広がってない」
「短時間の観察です」
「分かってる。今日の結果だけで飲用には進めない」
セラフィナは立ち上がり、衣服についた草を払った。
「採取は少量に限定すること。採る前後で水面と周囲を確認すること。呼吸、体温、皮膚に異常があれば即座に中止すること。そして、安全が確認されるまで飲まないこと」
「異常が出たら泉へ近づかない。使う理由があっても、携行水へ戻る」
「泉を消せない以上、利用しない判断も必要です」
「そこも受け入れる」
レントは器の水を泉へ戻さなかった。採ったものを不用意に混ぜ直す理由もない。飲まず、生活にも使わず、変化を見るために離れた場所へ置いておく。
「これで泉は使える水源、ではない」
「当然です」
「観察を続ける限定試験の対象だ」
セラフィナは一拍置いてから、うなずいた。
「その表現なら、異論はありません」
全面禁止ではない。かといって、成果として生活へ組み込めるわけでもない。
それでも、少し前までレント一人が眺めていた未検証の泉に、次の判断へ進むための条件ができた。
レントは簡易幕へ戻りながら、隣ではなく半歩後ろを歩くセラフィナを見た。可能性を閉ざすだけの人物かと思ったが、彼女が見ているのは伝統ではなく、呼吸と熱と皮膚の変化だった。
自分には読めないものを読める。
それは反対される以上に、無視できない事実だった。
「祭守殿」
「何でしょう、レント殿」
「次に採る前も、同じ条件で見てほしい」
「あなたが条件を守る限りは」
「信用はされてないな」
「信用する材料が、今日一度の自制だけでは足りません」
「それはお互い様だ」
セラフィナは否定しなかった。
窪地では簡易幕が夕風に揺れていた。安全な住居とは呼べず、夜を越えた実績もない。食事は保存食のままで、泉の水にもまだ口をつけられない。
それでもレントは、携行水を手に取る気持ちが少し前とは違っていることに気づいた。
使えると決めたわけではない。
使わないと決めたわけでもない。
巨獣の沈黙へ勝手な答えを足さず、確かめ、止める条件を持ったまま次へ進める。
泉の水面が、遠くの呼吸に合わせて静かに揺れた。
今度はその動きを、二人が別々の場所から見ていた。
レントは小さな器を手に、水際へしゃがみ込んだ。夕日はもう草原の端へ沈みかけている。それでも泉は消えず、水面は巨獣の呼吸に合わせてかすかに揺れていた。
少し前まで存在しなかった水だ。澄んでいても、飲めるとは限らない。
「まずは一杯分にも満たないくらいで――」
「その水から手を離してください」
鋭い声に、レントは器を止めた。
窪地の縁に、一人の女性が立っていた。旅装ではない。簡素だが整った衣服と、巨獣の背を歩き慣れた足運び。風に揺れる草の向こうから、彼女は泉と木を順に見て、最後にレントへ視線を固定した。
「聞こえませんでしたか。採らないでください」
「聞こえてる。ただ、まだ水には触れてない」
「触れる直前だったことを、触れていないとは言いません」
祭守の女性は窪地へ下りてきたが、泉には近づかなかった。水面よりも、その周囲の草と地面を見ている。
「これは、あなたが生じさせたものですか」
「正確には、眠っている巨獣の夢にあった景色の一部を、ここへ残した」
「残した?」
「消し方は分からない。能力を使い終えても、泉も木も残ってる」
女性の表情が硬くなった。
「では、元へ戻せない変化を、許可も確認もなく巨獣の身体へ加えたのですね」
「結果としては、そうなる」
「結果ではありません。あなたが選んだ行為です」
言葉の切れ味は、夕方の風より鋭かった。
レントは器を地面へ置き、立ち上がった。言い返す材料ならある。水が必要だったこと。小さな範囲に留めたこと。夕方まで泉も木も崩れていないこと。
だが、それで安全を証明できるわけではない。
「巨獣は嫌がっていない、と言うつもりですか」
「いや」
祭守の女性がわずかに目を細めた。
「沈黙してるから許された、とは思ってない。俺には、この泉が負担になってるかどうか分からない」
「分からないまま、利用するのですか」
「だから飲んでない。今も、少量を採って確かめようとしただけだ」
「利用を始めれば、次は量を増やす理由が生まれます。水が足りない。暮らしに必要だ。せっかく出したのだから使うべきだ。人はそうやって、沈黙へ自分の都合を足していきます」
否定しづらい指摘だった。
レント自身、泉を今夜から使えれば便利だと考えていた。携行水を温存できれば、ここへ留まれる時間も延びる。その期待が判断を急がせていないとは言い切れない。
「それなら、先に聞く」
レントは泉から一歩下がった。
「何を見れば、少なくとも今すぐ危険かどうか分かる?」
「私の判断を、利用の許可にするつもりですか」
「違う。俺に見えないものを教えてほしい。俺は水そのものを調べる。あなたは巨獣への負担を見る。それでも判断できないなら、使わない」
女性はすぐには答えなかった。
巨獣の呼吸が地面を持ち上げ、木の葉がざわめく。彼女はその周期を数えるように視線を落とした。
「呼吸の間隔。泉の周囲の体温。皮膚の張り方を見ます。苦痛や強い違和感があれば、普段と異なる緊張が現れることがあります」
「巨獣が何を考えてるか分かるのか?」
「分かりません」
返答は即座だった。
「私は意思を聞けるわけではありません。見える変化から、負担の兆候を探すだけです。兆候がないことも、許可を意味しません」
「十分だ。少なくとも、俺が水面だけ眺めて判断するよりましだ」
女性はレントを見据えたまま、名乗った。
「祭守、セラフィナ・ルゥネです。巨獣の状態を観察し、その身体を害する行為を止める役目を負っています」
「レント・アシュベル。ここで暮らせる方法を探してる」
「許可された居住者ではありませんね」
「今のところは、勝手に幕を張った異邦人だな」
「自覚があるなら、なお悪いです」
「そこは今後の交渉材料にしてくれ、祭守殿」
セラフィナは軽口には応じなかった。ただ、泉から離れた位置へ膝をつき、掌を草の間へ差し入れた。
「採るなら、ごく少量です。水面を乱さないように。異変があれば、即座に接近も採取も止めてください」
「分かった」
「まだ許可ではありません」
「試す条件を確認しただけだ」
レントは器を持ち直した。
水際を踏み荒らさないよう、乾いた場所から腕だけを伸ばす。器の縁を浅く沈め、底を満たす前に引き上げた。こぼれた雫が草へ落ちる。
泉の広がりに変化はない。周囲の土が急に沈む様子もなかった。
レントは採った水へ生活魔法を使った。普段なら飲み水や食器に明らかな汚れがないかを見るための、ごく簡単なものだ。淡い光が器の表面を滑り、濁りや異臭、目立った異常反応を探って消える。
「明らかな濁りはない。変な匂いも出てない。魔法も強い反応は返してない」
「安全なのですか」
「そこまでは分からない」
レントは器を口元へ運ばず、地面へ置いた。
「これは毒を何でも見抜く魔法じゃない。普通の生活で避けるべき異常が、今のところ見当たらないだけだ」
セラフィナの視線が、器からレントの顔へ移った。
「飲まないのですね」
「飲めると分かってないからな。ここで倒れたら、泉の観察どころじゃない」
「成功を証明したいのでは?」
「成功したかどうかを知りたい。証明したいわけじゃない」
言いながら、少しだけ惜しいとは思った。冷たく澄んだ水は、乾いた喉には十分すぎる誘惑だった。
レントは背負い袋から携行水を取り出し、一口だけ飲んだ。
「目の前に泉があるのに水筒を飲むのは、二度目でも間抜けに見えるな」
「妥当な判断です」
「慰める気はなさそうだ」
「必要がありますか」
「ないな」
その後、二人は会話を減らした。
レントは採取前に目印とした草の位置を確かめ、水面の高さと湿りの広がりを見る。セラフィナは泉から距離を保ち、呼吸のたびに変わる地面の動きへ手を当てた。ときおり立ち位置を変え、木の根元から離れた場所とも温度を比べている。
日がさらに沈み、草原の影が長くなった。
「呼吸の周期に、目立った乱れはありません」
セラフィナがようやく口を開いた。
「泉の周囲だけ体温が急に上がった様子も、皮膚が強く張っている様子もない。現時点で、苦痛を示す変化は確認できません」
「採った水も、見える範囲では変化なし。泉も広がってない」
「短時間の観察です」
「分かってる。今日の結果だけで飲用には進めない」
セラフィナは立ち上がり、衣服についた草を払った。
「採取は少量に限定すること。採る前後で水面と周囲を確認すること。呼吸、体温、皮膚に異常があれば即座に中止すること。そして、安全が確認されるまで飲まないこと」
「異常が出たら泉へ近づかない。使う理由があっても、携行水へ戻る」
「泉を消せない以上、利用しない判断も必要です」
「そこも受け入れる」
レントは器の水を泉へ戻さなかった。採ったものを不用意に混ぜ直す理由もない。飲まず、生活にも使わず、変化を見るために離れた場所へ置いておく。
「これで泉は使える水源、ではない」
「当然です」
「観察を続ける限定試験の対象だ」
セラフィナは一拍置いてから、うなずいた。
「その表現なら、異論はありません」
全面禁止ではない。かといって、成果として生活へ組み込めるわけでもない。
それでも、少し前までレント一人が眺めていた未検証の泉に、次の判断へ進むための条件ができた。
レントは簡易幕へ戻りながら、隣ではなく半歩後ろを歩くセラフィナを見た。可能性を閉ざすだけの人物かと思ったが、彼女が見ているのは伝統ではなく、呼吸と熱と皮膚の変化だった。
自分には読めないものを読める。
それは反対される以上に、無視できない事実だった。
「祭守殿」
「何でしょう、レント殿」
「次に採る前も、同じ条件で見てほしい」
「あなたが条件を守る限りは」
「信用はされてないな」
「信用する材料が、今日一度の自制だけでは足りません」
「それはお互い様だ」
セラフィナは否定しなかった。
窪地では簡易幕が夕風に揺れていた。安全な住居とは呼べず、夜を越えた実績もない。食事は保存食のままで、泉の水にもまだ口をつけられない。
それでもレントは、携行水を手に取る気持ちが少し前とは違っていることに気づいた。
使えると決めたわけではない。
使わないと決めたわけでもない。
巨獣の沈黙へ勝手な答えを足さず、確かめ、止める条件を持ったまま次へ進める。
泉の水面が、遠くの呼吸に合わせて静かに揺れた。
今度はその動きを、二人が別々の場所から見ていた。
