眠る巨獣の背中で町づくり――夢の景色は消せないので、仲間と動かせる暮らしを始めます

 足元の草原が、ゆっくりと持ち上がった。

 レントは反射的に腰を落とした。次の瞬間、長い草が一斉に伏せ、背後から吹き抜けた風が外套を強くはためかせる。踏ん張りが遅れていれば、荷物ごと転がされていたかもしれない。

「地面が呼吸するって、こういうことか」

 つぶやいた声は、広すぎる草原へ吸い込まれた。

 遠くには緩やかな隆起が連なり、その先は霞んで見えない。土があり、草が生え、低木まで根を張っている。だが、ここは山ではない。

 眠っている。

 山と見間違えるほど巨大な、一頭の生き物が。

 再び足元が沈む。草の隙間から伝わる熱は、日差しだけのものではなかった。厚い毛と積もった土の下で、巨大な身体が一定の調子で息をしている。

 普通なら、降りる理由としては十分だ。

 レントは風に乱れた髪を押さえ、周囲を見回した。

「でも、風はある。地面も冷え切ってない」

 呼吸のたびに動くなら、固定するのではなく、動きに合わせればいい。強い風も、避けるだけでなく使い道があるかもしれない。体温が安定しているなら、寒さをしのぐ助けになる。

 危険を数えればきりがない。だが、使えるものも同じだけある。

 完成した安全な土地を探して、誰かに割り当ててもらうつもりはなかった。

「今日を越せる場所くらい、自分で見つけるか」

 背負い袋の位置を直し、レントは歩き出した。

 携行水、保存食、折り畳んだ簡易幕。今あるのは、それだけだ。現地で飲める水も、食べられるものも、夜を越せる住居もない。

 だからこそ、最初に確かめるべきなのは眺めのよさではなく、揺れ方だった。

 草原を横切るたび、足元の動きは少しずつ変わった。なだらかな斜面では、呼吸に合わせて身体が横へ流される。毛の密集した場所は柔らかいが、足を取られやすい。低木のそばは風を避けられても、枝が揺れるたびに根元の土まで動いた。

 何度か進路を変えた末、レントは浅い窪地を見つけた。

 周囲より低いため風が弱く、呼吸による上下も比較的小さい。荷物を置いて数度の呼吸を待つと、背負い袋は傾いたものの転がらなかった。

「悪くない」

 簡易幕を広げかけて、手を止める。

 見上げれば空は開けている。雨を遮るものはない。周囲に水音はなく、日差しを避ける木もない。ここで一晩しのぐことはできても、それ以上は携行品を減らすだけだ。

「場所はある。暮らす理由がない」

 その言葉を口にした途端、胸の奥が強く引かれた。

 視界が揺れたのではない。

 世界そのものが、足元から静かに遠ざかっていく。

 レントはとっさに膝をついた。草へ伸ばした手が触れるより早く、風の音が消えた。

 次に目を開いたとき、目の前には水面があった。

 鏡のように静かな泉だった。

 澄んだ水の縁には柔らかな草が生え、その向こうで一本の木が枝を広げている。葉の間から落ちる光が、水面でゆっくり揺れていた。

 風はない。呼吸による隆起もない。それでも、不自然な静止とは感じなかった。

 誰かが作った庭ではない。

 ここには以前から泉があり、木が立ち、長い時間をかけて水辺の景色になった。そんな重みがあった。

「俺の想像じゃないな」

 欲しいものを思い描いた結果にしては、形が具体的すぎる。木の幹はわずかに傾き、泉の縁もきれいな円ではない。便利さだけを考えれば、もっと小さく整った形を選んでいたはずだ。

 これは、眠る巨獣が見ている景色だ。

 記憶なのか、願いなのかは分からない。ただ、自分が好き勝手に作り出したものではないことだけは感じ取れた。

 レントは泉へ近づいた。

 すべてを持ち帰る考えが一瞬浮かび、すぐに捨てた。広い水辺も、木々も、何が起こるか分からないまま現実へ出すには大きすぎる。

 必要なのは、一晩を越える可能性だ。

「泉は一部だけ。木も一本でいい」

 水辺へ手を伸ばす。

 冷たい感触が指先へ触れた。

 同時に、木の葉が鳴った。

 レントはその二つだけを意識した。水を無限に湧かせたいわけではない。森を作りたいわけでもない。影響を見失わずに済む、小さな範囲でいい。

「残せ」

 泉の水面が光を弾いた。

 木の枝が大きく揺れ、視界を覆う。

 次の瞬間、レントは草原へ投げ戻されていた。

 湿った土の匂いがした。

 顔を上げると、窪地の端で草が濃く色づいていた。地面の一部が沈み、その中央に水が溜まっている。ほんの数歩で回り込めるほどの、小さな泉だった。

 その傍らには、先ほど夢で見た木が立っていた。

「……本当に出たのか」

 立ち上がる足がもつれた。今度は地面の呼吸のせいではない。

 レントは木へ駆け寄り、幹へ掌を当てた。粗い樹皮が指へ引っかかる。力を込めても揺らがず、葉を見上げれば、夕方へ傾き始めた光が枝の間からこぼれていた。

 幻ではない。

 泉へしゃがみ込み、水面へ指を入れる。冷たさが皮膚へ染み、すくい上げた水が指の間から落ちた。

 思わず口元まで運びかけ、止める。

「いや、待て」

 喉は渇いている。目の前の水は澄んでおり、匂いもない。

 それでも、飲める水かは分からない。今は地上へ戻れる距離にいるが、体調を崩せば話は別だ。能力が成功したことと、安全に利用できることは同じではない。

 レントは手の水を地面へ落とした。

「見た目がいいから飲めます、で済むなら苦労しない」

 惜しさを振り切るように立ち上がる。

 泉の位置は、窪地の中央ではなかった。木も、レントが望んだ場所より少し離れている。しかも幹は夢の中と同じ方向へ傾いていた。

 やはり、思いどおりに作ったのではない。

 眠る巨獣の中にある景色から、選んだ一部が出てきたのだ。

「創造じゃなくて、引っ張り出した……か」

 その違いは大きい。

 自分の望みだけで形を決められない。だが、巨獣が見ているものを現実へ残せるなら、この背で暮らすための条件そのものを変えられる。

 レントは泉から距離を取り、窪地の反対側へ荷物を移した。現れたばかりの水辺へ幕を近づける気にはならない。木の根がどこまで広がっているかも不明だ。

 地面の呼吸を二度待ち、比較的動きの小さい位置へ簡易幕を広げた。杭を深く打ち込むことはせず、荷物の重みを使って端を押さえる。これで夜を安全に越せる保証はない。強い呼吸が来れば、幕ごとずれる可能性もある。

 それでも、何もない場所で夜を迎えるよりはましだった。

 夕方、レントは幕の前に座り、保存食をかじった。喉を潤したのは、目の前の泉ではなく携行水だ。

「泉を眺めながら水筒を飲む。贅沢なのか間抜けなのか、判断に困るな」

 返事をする者はいない。

 木の葉だけが、巨獣の呼吸に合わせてざわめいた。

 日が傾いても、泉は消えなかった。水面は風に震え、木は草原へ細長い影を落としている。能力を使い終えたあとも、景色は現実に残り続けていた。

 消し方は分からない。

 そもそも、消せるのかも分からない。

 だからこそ、次はもっと慎重に扱う必要がある。泉の水量、周囲の湿り方、根が巨獣へ与える影響。確かめることはいくつも残っている。

 だが、レントは目の前の成果まで否定するつもりはなかった。

 昼には、ただ波打つだけだった草原だ。

 今は水面が夕日を映し、一本の木が影を作っている。

 安全な水源ではない。住居も仮の幕にすぎない。現地で食べられるものは、まだ一つも見つけていない。

 それでも、ここはもう、通り過ぎるだけの場所ではなかった。

 レントは背後の簡易幕を振り返り、それから泉と木を見た。

「完成してる場所を探すより、こっちのほうがいい」

 足元がゆっくり持ち上がる。

 巨大な呼吸に合わせ、泉の水面が揺れた。木の枝が風を受け、草原へ影が広がる。

 その動きを見ながら、レントは笑った。

「ここなら、育てられる」