ひとりのじかん

夕方の風が、カーテンをゆっくり揺らしていた。窓の外からは、子どもたちの声が聞こえる。
「ねえ、お母さん!」
「ん?」
「お父さんとお母さんって、どっちが先に好きになったの?」
私は持っていたコップを落としそうになった。
「……え?」
迅もソファから顔を上げる。
「なんで急にそんなこと聞くんだよ」
「だって気になるもん」
「そういうのは聞かなくていいの」
私が笑いながら言うと、子どもは少し考えてから首を傾げた。
「じゃあ、お父さんが先?」
「……」
「お母さんが先?」
「……」
「もしかして、二人とも?」
私と迅は顔を見合わせた。
そして――
「それは……」
「……秘密」
二人がほとんど同時に答える。
「秘密だって!秘密はよくないよー!」
子どもたちが声をそろえて笑った。その声を聞きながら、私もつられて笑みが溢れる。
「でも、昔から一緒だったの?」
「高校生のころからだな」
迅が答える。
「高校生?」
「うん」
「じゃあ、お父さんとお母さんも子どもだったんだ」
「そうだよ」
「学生かー」
「それがどうかした?」
「今のお父さんとお母さんしか知らないから」
その言葉に、私は少しだけ目を細めた。
そういえば、自分たちが今こうしていることも、あの頃の自分には想像できなかった。
「お母さん、昔はどんな子だったの?」
「……私が?」
「うん」
少し考えて、こう答えた。
「今より、ずっと静かだったかも」
「今も静かじゃん」
「そう?」
「うん」
迅が横から口を挟む。
「でもな、昔よりはよく笑うようになったんだよ」
私はじっと迅を見る。
「……そうかな」
「そうだよ」
「じゃあ、お父さんは?」
子どもが今度は迅を見る。
「昔のお父さんは?」
「俺は……今とあんまり変わらないと思う」
「ほんと?」
「たぶん」
「じゃあ、お母さんにいっぱい話しかけてた?」
「……まあ」
「やっぱり!」
子供なのに、こんな話題で黄色い声をあげていた。
「お父さん、昔からお母さんのこと好きだったんだ!」
「おい」
ぱっとソファーの方を見ると、迅の顔がとても赤くなっていた。それを見て、思わず吹き出してしまった。
「何笑ってんだよ」
「だって……」
昔も、こんなふうに迅のことで笑った気がする。
「ねえ、お母さん」
「なに?」
「お母さんって、昔から白かったの?」
私は一瞬、目を瞬かせた。
「うん。昔からだよ」
「へえ」
「どうして?」
「雪みたいだから」
正直言うと、驚いた。私は思わず聞き返した。
「雪?」
「うん。すんごくきれいだもん」
その一言に、私は少しだけ黙った。
昔なら、きっと違う言葉を思い出していた。
白くて、怖いやつだ。普通じゃない。
そんな言葉ばかりだったけど、今は違うと、子供が証明してくれたみたいだった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
子どもは嬉しそうに笑う。そして今度は迅を指差した。
「じゃあ、お父さんは?」
「俺?」
「うん。お父さんは何?」
「何って?」
「お母さんが雪なら、お父さんは?」
迅は少し考える。
「……夜かな」
「夜?」
「うん」
「なんで?」
「俺の髪が黒いから」
「それだけ?」
「……あと、星があるから」
不思議に思い、私は迅を見た。
「星?」
「夜があるから、星が見えるだろ」
その言葉に、私の胸の奥で何かがふっとほどけた。
昔、二人で行った海。
月。
星。
あの頃の約束。
「……懐かしいね」
葵依が呟く。
「うん」
迅も笑った。
「何が懐かしいの?」
「昔のこと」
「どんなことー?」
私は答えようとして、少し迷った。言いたくないという気持ちと交差し合う。
すると、もうひとりが突然口を挟んだ。
「じゃあ、お母さんは昔、お父さんに会うまで一人だったの?」
私は再び少しだけ考える。
「……そうだね」
「寂しくなかった?」
その質問に、私はすぐには答えられなかった。そして、ゆっくりと笑った。
「寂しかった日もあったよ」
「じゃあ、お父さんが来てくれてよかったね」
「……うん」
私は迅を見る。迅は子供を抱き抱えながら、話を聞いてくれていた。
「でもね」
私は子どもたちに言う。
「一人の時間も、悪いものじゃなかったんだよ」
「なんで?」
「一人だったから気づけたこともあったから」
「たとえば?」
「……秘密」
「また秘密だー!」
子どもたちが無邪気に笑う。私も笑った。その隣で、迅も笑っている。みんなでこの瞬間を共有できている事が嬉しくてたまらなかった。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「お母さんって、昔からこんな感じだったの?」
「そうだな、ちょっとだけ変だったぞ」
「ちょっと!そんな事ないってば!」
「失礼だな、事実だよ」
「そんなわけ…」
そう言いかけた時、子供が間に入ってきた。
「でも、お父さんも変だよね」
「なんでだよ」
「色々!なんか、みてる世界が違う感じ!」
迅が一瞬黙った。私も声が出せなかった。そして今度は二人して顔を見合わせた。
「……昔も、こんなこと言われてたな」
「うん」
「誰に?」
子どもが尋ねる。
「昔の友達に」
「どんなこと?」
「それは――」
葵依が迅を見る。
「話す?」
「いや、長くなるぞ」
「じゃあ、やめよう」
「そうだな」
「なんでよー!」
子どもたちがまた笑う。
夕暮れの部屋に、四人の笑い声が広がっていく。
その声を聞きながら、葵依はふと思った。
昔の自分が、今の自分を見たら、きっと、驚くだろう。
誰かと暮らしていること。隣で笑っている人がいること。そして、自分のことを『雪みたい』と曇りもなく言ってくれる小さな子どもたちがいること。
あの頃は、未来なんて想像できなかった。
でも今は――?
「お母さん!」
「なに?」
「お父さんとお母さんって、これからもずーっと一緒?」
「……どうだろうな」
迅がわざと考えているような顔をした。
「えー!」
「冗談だよ」
それを聞いて、私もあえて言った。
「たぶん、ずっと一緒」
「たぶん?」
「うん」
迅が笑った。
「そこは『ずっと』でいいだろ」
「じゃあ、ずっと」
「最初からそう言えよ」
「ふふっ」
笑い声が響き渡る。
そして――
その声も消えかけてきた頃、私たちはまた顔を見合わせた。
昔、同じように隣に立っていた頃を思い出して。
「……なんか、懐かしいね」
「うん」
「昔も、こんなふうに笑ってた」
「そうだったな」
夕暮れが夜へ変わっていく。
窓の外には、一番星が浮かんでいた。
私はそれを見上げた。そして、隣にいる迅を見る。
あの頃と変わらない笑顔。
でも、隣にいる理由は、もう昔とは違う。
ひとりだった時間を越えて、二人で過ごす時間を重ねて。
今は、その先にいる。
「お父さん、お母さん!」
「ん?」
「こっち来て!」
「今行くよ」
余韻に縋り付くかのようにゆっくり立ち上がった。
その後、迅が小さな声で言った。
「……『一人だったの?』って聞かれたとき、昔を思い出した」
「私も」
「なんか、懐かしいな」
「うん」
私たちは子どもたちのいるほうへ歩いていった。
その背中を、夜の静かな光が照らしていた。
子どもたちには、まだ分からない昔話。
いつか大きくなったら、きっと話してあげる。
あの日々があったから、今があること。
ひとりの時間があったからこそ、誰かと過ごす時間の大切さを知ったこと。
全てを紡いで、ひとりだった少女が、ひとりではない未来を選んだこと。
昔の二人なら、知らなかった未来。
今の二人なら、もう知っている。
明日も、その先も、きっと、ひとりの時間と、誰かと笑う時間が続いていく。
私たちは、子どもたちの言葉にまた昔を思い出して、
そして――
また、かつてと同じように笑い合った。