好きになるということ

「じゃあ、またな」

「……また」


×××


『瑞姫が好きなんだ』

『俺が瑞姫を落としてみせるから』

その日の夜、俺は全く眠れなかった。というか眠れるわけない。

あんなことを言われさすがの俺でも動揺が抑えられない。
いまだに心臓の鼓動が周囲の音を書き消すように耳に響き脳を揺らす。

終いには……きす、までされた。

たった一瞬の出来事だったというのに、その柔らく、温かなその感触に、俺の唇は離れるときどこか名残惜しそうに後を引いていた。

なんて気持ち悪いことを、そう腕で唇を擦っても一度知ってしまった感触を消し去ることはできなくて。

「おはよう、瑞姫」

「おは、よう」

どうしても、意識してしまう。

「なんだよ、その顔。可愛い顔が台無しだよ」

「痛っ。なにすんだよ」

怪訝な顔をする俺に、一発デコピンを喰らわせる。
可愛い、可愛いってこれも作戦の一つなのか。

それにしても八城はいつも通りだ。

可愛いの連呼は別にとして、俺に対する態度は動揺している自分が馬鹿だと思うほど普段と変わらない。
そこがまた無性にムカつく。

「痛っ!なにすんだよ」

「仕返し」

ーーーーーっふ。

あれ、今、俺。

「瑞姫どうした?」

「いや、なんでも、ない」

目の前にいる八城の姿を追うようにその後ろをついていく。
学校につき、靴を履き替え、教室の前へとたどり着く。

「八城おはよう!」

「八城くんおは!」

「皆おはよう」

もう当たり前となった1日が始まる。

その隙間から自席に向かおうとすると腕を掴まれ……。

「忘れないでね。俺、本気だから」

「うっせぇ。わかってるよ」

含んだ笑みを浮かべる八城を威嚇するチワワのように睨み付けた。


×××


「そんじゃテスト返すぞ。3分の1以下のやつは期末テスト赤点覚悟しとけよ」

あー、そういやそうだったね。

余裕の表情で自分の名前が呼ばれるのを待つ。
別に勉強が好きでも嫌いでもない。

この余裕も単にこの小テストに自信があるからというわけではない。
自分が目指しているのは中の上あたり。

周囲より秀でることもなければ蹴落とされることもない、誰もが一番無関心であろう領域に合わせる。

そう心がけるうちにいつしかそれが当たり前で自分の実力となっていた。

「橘ぁ」

こいつのこの舐めるような呼び方気持ち悪くて嫌いなんだよな。
貧乏揺すりを始めそうになったころに自分の名前を呼ばれスッと席を立つ。

いつも通りだろう。
そう鼻に空気を含ませ教員の手に掴まれたテストの解答用紙を手にとろうとしたとき、

「橘。……頑張れ」

名前はでかい声で呼ぶのに大事なところは声を小さくして俺に囁いた。

それがなにを意味していたのかはしるよしもなく、背中越しに心に抱く嫌悪感を伝えた。

自席に座り折りたたまれた解答用紙を開く。
そこには赤い油性ペンで書かれた不格好な太陽が…、否、雨が嵐のように降り注いでいた。

たかだ小テストでこんな思いしなくてもいいとは思うが流石にこんな乱雑な引かれようでは自分の存在を否定されているような感覚になる。

よく見てみれば間違ってるところはとことん間違っているし、わからないところはわからない。

しかし、ケアレスミスの部分が多い。
順に隙間に書いた計算式を見てみれば今なら60~70はとれるようなテストだった。
テストというのはそういうものだとはわかっているが流石にくるものはある。

それは何故か。

「あれ、瑞姫。そんな顔してどうした?」

酔ってるのかとツッコミをいれたくなるくらい左右に揺れながら、しかしまっすぐと俺のところに足を運ぶ八城が声をかけてきた。

顔には笑みを浮かべている。

「自慢でもしに来たのか?ガキくせぇ」

「おお、言葉が少し辛辣だね。他の人に言ったら嫌われちゃうよ」

「……別にお前にしか言わないし」

「……」

あ、なんか黙った。

八城のことだから俺かわいそうとかいうのかと言うのかと思っていたのだが。
心なしか耳のあたりが赤く見える。

「……で、テストどうだった?」

あ、誤魔化した。

「聞いてどうする」

「まぁ、つべこべ言わずに見せてろよ」

「ちょっ!」

力が緩んだ瞬間をつかれ、持っていた解答用紙が流れるように八城の手へと渡る。
紙の中に広がる光景に目を丸くした後、優越感に浸るような笑みを浮かべて、

「今日、俺の家こいよ。教えてやる、勉強」

そういって見せられたのは98と書かれた解答用紙。
100じゃないのか余計ムカつく。
原因は明確だった。

目の前で笑う八城であるということが。


×××


「あれ、できるじゃん」

「だからさっきから言ってんだろ。ミスしただけだって」

手取り足取り、家庭教師と生徒の秘密の恋のようなことを想像していたようで八城は明らかに不満げな顔をしていた。

終いには「えーつまんな。ブーブー」とかほんとのクソガキみたいにだだをこね始めた。
だから、お前のせいだっていうのに。

『好き』それがなにを示すのか、表すのかはわからない。

食べることが好き、動物が好き、アニメが好き、音楽が好き。
そういう好きとなにが違うのか。

『おまえのことが好きだ』

『瑞姫が好きなんだ』

「好き……」

外国人が日本語を話しているときのように片言の言葉を口に出す。

辞書で文字をひいたときと同じように親から子への愛情を表しているのなら多少理解できる。

本当の自分を知らないにしても、飯を作ってくれたり話しかけてくれたりする母親には感謝している。
まぁあの能天気さが逆に良かったのかもしれない。

しかし、その愛情が同年代、しかも男である俺に向くとなると理解しかねる。

心の中にある複雑に絡み合った知恵の輪はどうにも解けそうにない。

いくらペンを動かしても、様々な公式を当てはめてもその解答にたどり着かない。
書いては消して書いては消してを繰り返して、やっと導きだした解答を解答欄に書いた。

しかし、返ってきた答えは違っていた。

途中式の小さなケアレスミス。
それが大きな大きな違いを生んでいた。

「……いつもならこんなことないのに」

ーーーーー…ポキッ。

このいつもと違う悔しさに、シャーペンの芯が折れる。
その音に驚いたように自分を見つめる八城だが、何も言わずに口を膨らませている。

かまってほしい犬のような目をしているが、その瞳の奥には俺自身が自分で答えにたどり着けるのを少し先で待ってくれているようだった。

「はい、終わった」

「はや!」

「生チョコケーキ」

「はいはい、って俺はお前の犬か!」

「かもな」

浮かれている自覚はある。
どちらかといえば今の俺と八城の立場は逆転してるとも言える。

帰り道、ときなおしで75以上とれたら近くのケーキ屋の生チョコケーキをくれるという賭けに乗ってしまい俺は八城の部屋で再テストを受けることになった。

原因はケアレスミスのため、点数は80を超えた。

賭けは賭けな訳だから多少は八城を上から見てもいいだろう。

こうやって甘えてみるのも。

あま、える。

ーーーーー……ポキッ。

あ、また折れた。

手の上で回るシャーペンを眺めながら待っていると扉が開く音がした。

「おまたせ。っておい、入ってくんな姉貴」

「いいじゃん。瑞姫くんの顔みたいんだもん」

八城の後ろから背が高く、長い髪の毛を1本結びの女性が顔をだした。
どこかで見たような顔にその人を凝視する。

「あ」

「思い出した?あの時以来だね」

「あ、あのときはありがとうございました。って、は?」

「なにが、は?だよ。姉貴。覚えてないのか?」

「あ、あまりにも雰囲気変わりすぎて」

八城の凛月さんと言えば天然パーマがトレードマークでいつもアニメキャラのTシャツを来ていた。
長い前髪で顔は隠れ、今の今まで思い出せていなかった。

「こっちくるってなったのと社会人だし、見た目くらいちゃんとしなきゃと思って。あんなピッチリスーツなんてごめんだけどもうしばらくは我慢しないとね」

確かにあのとき、どこか懐かしい匂いを感じた。
そんな伏線がまさかこんな形で回収されるとは思ってもいなかった。

「因みに私はすぐわかったよ。で、颯(はやて)に連絡するって行ったらこっちくるって言うの!面白いでしょ」

「じゃあ……」

「今は姉貴と二人暮らし」

ーーーーー……。

「うわ、シスコンだみたいな顔すんなよ」

「あ、ごめん。つい」

帰れ帰れと凛月さんを追い出してバタンッとドアを閉める。

息を切らして顔を真っ赤にする八城と涼しげで一歩引いた顔をする俺には対照的という言葉がとても似合っていた。

目の前にある生チョコケーキを口へと運ぶ。
頭を使ったあとは甘いもの、特にチョコに限る。

因みに、生チョコケーキは1つしかなく俺が75取れていなかったら八城が食べる予定だった。

八城は食べたそうな顔で俺をみる。

こういうとき別に悪いことしてないのに悪いことしてるような気持ちになるの本当にやめてほしい。

「はい」

「え?」

ケーキの乗ったフォークを八城の前に差し出す。

「食えよ。食べたいんだろ」

「……」

瞬間、八城は俯いた。

そして、

「ズルい!それ、俺の!」

強く叩かれた机。上に置かれた水が大きく波を打つ。
机に手を付き、身体を前のめりに行く手を阻むように立ちはだかった

気付けば俺の手にあったフォークは八城の手に渡っていて目の前に差し出されていた。

「ん!」

「やだよ、赤ちゃんじゃあるまいし」

「そうじゃない」

「カップルじゃあるまいし」

これも作戦なのか?だとしたら今、俺の心臓は驚くほど静かだ。

それにこういうときというのはやる側の方にくるんじゃないのか。

「そう、だね」

瞬間、力なく立ち上がるとゆっくりと足を進めて目の前に来る。

ーーーーーダンッ

ケーキの欠片をフォークで突き刺す。

「じゃあ、さ。これならどう」

一瞬のことでなにが起こったのかわからなかった。
ただ目の前にいるやつに圧倒され、そして目を離すことができなかった。

「……食え」

くそっ、もう俺の性格理解しやがって。
俺だって八城を振り回してやりたい。

「……」

「これで満足か」

「どうも」


帰り道、歯には甘く溶けたチョコレートが残っていた。