逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ……。
気が付けば俺は森の中を走っていた。
さわさわと剥き出しの足に触れるのは草。
整備されてない、踏み固められただけの細いけもの道を走る。
真っ暗な夜。
儚い月明かりだけを道しるべに、僅かに傾斜のある道を走る。
早く早く早く。
また……。
まただ……。
これは俺であって俺じゃない。
だけど……いつも見る夢……とも展開が違う。
チラリと視線を落とした先にあったのは、細い腕と女性物の着物。
何も履いていない華奢な素足は、山道に転がる小石によって傷つけられていた。
痛みを堪えながら誰かは走る。
そして気づく。
後ろから追いかけてくる気配があることを。
自分より大きい相手なのか、ざわざわと草木を掻き分ける音がやたらと耳についた。
はぁはぁと荒れた息が遠く、近く聞こえる。
その声に心底怯えを見せている、俺ではない誰か。
チラリと後ろを振り返って……小さな悲鳴をあげる。
逃げなきゃ。逃げなきゃ。
だってあたしは……っ!
今回の夢も、恐らく女性……なのだろう。
だけど以前の夢の誰もと違う。
「待て! 氷雨! お前はオレの嫁になるんだよ……っ!」
怒号のような男の声に、周囲で寝ていたらしい小動物の騒めく気配がした。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
気が付けば視界が開けていた。
夜の闇を写し取る静かな湖面。二つの満月に見えたのは、空に浮かぶ満月と、その輝きを写し取った姿が湖面に浮かび上がっていたから。
強く、風が吹いた。
さわさわと騒めく木々と、風に吹かれさざ波を立てる湖面。
ここは……阿女と八尋が契約を結んだあの場所だった。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を吐いた彼女が、人の気配に反応して後ろを振り返る。
その勢いに押され、一つに括られた長い髪が背中を叩いた。
目の粗い粗末な着物の襟元を、恐怖ゆえかぎゅっと握り締める。
俺はそれを……他人事のように感じてることしかできない。
「待てよ! 次の村長である俺の嫁になれって言ってんだぞ! どうしてそんなに嫌がるんだっ!」
森から姿を現した男が、大声で怒鳴る。
大柄な体を昔の農民みたいな着物で包んでいる。
丸太みたいな太い腕と、さらに太い太もも。
髭に覆われた剣呑な顔は、どう見ても今の俺より年上に見える。
今俺の意識があるこの身体の持ち主はいくつくらいだろうか?
肌の感じからして今の俺の年と、そして湖に落とされていった生贄の女性たちと同じくらいに思えた。
「ですから! あたしは十八を過ぎてもオヤシロ様のお側にいたいのです!」
「オヤシロサマなんているわけないだろうがっ! そんなくだらない言い訳で俺に逆らうってのかっ! それとも何か?! オヤシロサマに力を捧げるとか言って他の村の男と逢引でもしてんだろうっ!」
「なんてことを! この村が水に困らないのはオヤシロ様の加護のおかげではないですか! 次の村長であるあなたがそんなことを……」
男の言葉にぶるりと身を震わせる彼女。
そんな彼女の言葉に、男はせせら笑いを返した。
「オヤシロサマなんて! 龍神なんて……そんなもんはいねぇっていってんだろ。この湖は代々ウチの村が使ってやってんだよ」
「そんな……っ! オヤシロ様は確かにいらっしゃいます! オヤシロ様が湖にいらして加護を授けてくださるからこそ! 村は水で困ったことがないんです! 山向こうの村が水でもめて滅びた話は聞いてますよね?!」
「へへっ! 龍神がいようがいまいが、湖はそこにあんだよ! お前をそんないるかいないかわかんねぇヤツにくれてやるいわれはねぇっ! さぁこっちにこい! 村に帰ったらブチ犯してやるっ!」
「そんっ!」
「いいからこっちこい!」
「いやぁ!!」
男の丸太のような腕が自分へと伸ばされる。
それから逃れるようにして、身を捩る彼女。
男から距離を取るようにして逃げた先に道は……なかった。
あとはもう、ぽっかりと口を開けている湖へと落ちるしかない。
「ははっ! ほらもう逃げ場なんてねぇぞ! それともなんだ? オヤシロサマが助けてくれるってか!」
山賊のような下品な嗤いが、夜の静寂を切り裂く。
本当に不愉快な男だ。
「ひっ……!」
男が一歩近づく。
女が一歩下がる。
男がもう一歩近づく。
女がもう一歩下がった瞬間。
かかとに触れた小石がからりと落ちていく音がした。
「おら、もう後がねぇ。大人しくこっちへ来い」
自分の勝利を確信したのか、男がニヤニヤと嫌な笑いを浮かべる。
「い、いやぁ……!」
「っ!? しまっ!」
男の手から逃れようと、少女が後ろに踏み出した一歩は……虚しく空を切る。
カクンとバランスを崩した女の身体は……そのまま中空に放り出され、そして……落ちていく。
「いやぁぁぁぁぁ————!!」
「っ! くそがっ!」
男が慌てて崖へと駆け寄っても手遅れなのは明らかだった。
女は絶望に彩られながら、空を見上げる。
最期に見た月は……輝いていた。
◆ ◆ ◆
「うっ、わぁぁぁ————!!」
謎の浮遊感から解放されて、カクンと足が揺れる。
自分の悲鳴で起きるとか、寝起きの部類としては最悪じゃないか?
「ど、どうしたの慈雨くん!? 何かあった!?」
俺の悲鳴が聞こえたのか、部屋に飛び込んできた人影。
一瞬夢の中で追いかけられたことを思い出して、びくりと身体が跳ねた。
だけど、心配そうに俺の顔を覗き込む男の姿に、ほっと息を吐いた。
「……やひ……ろ」
「そうだよ? どうしたの? 何かあった?」
「……いや、ちょっと怖い夢見て……」
高校生にもなって怖い夢を見て飛び起きるとか、結構恥ずかしいな?
「夢見て飛び起きるとかダセェよな……」
悪夢の残滓を吹き飛ばせるように、夢は夢だと笑い飛ばして欲しかったのに……。
何故か八尋は真剣な表情を浮かべている。
「驚かせてごめんて。夢で叫ぶとかクッソ恥ずい……」
照れ隠しを込めてそう伝えてみても、八尋の表情はすぐれないままだ。
「……八尋?」
「……夢の内容……教えてくれる?」
いつになく真剣な表情に押されて、俺はさっき見た夢についての一部始終どころか、八尋と阿女の夢や、生贄にされた彼女たちの夢も洗いざらい吐くことになっていた。
「……ってわけなんだけど……」
途中、喉の渇きを覚えてベッドから離れ、八尋と並んでソファに座っている。
八尋が冷蔵庫から出してきた冷たい麦茶を飲みながら夢について話した結果、八尋は真剣な表情で思慮に耽っていた。
その沈黙がなんとなく気まずくて、手元に引き寄せたスマホをイジる。
何件か来ていた友人たちからのメッセージに返事をし、なんとなく立ち上げたSNSを眺めていると、八尋がおもむろに口を開いた。
「あの……ね? 実は阿女には夢見の才もあったんだよ」
「……ユメミ?」
やっと口を開いたかと、スマホをローテーブルに置いて、八尋を見上げる。
まだ何事か考えてるのか、俺に話しながら自分の考えをまとめているようだ。
「そう……。要は夢で未来や過去のことを知ったり、他の人の人生を垣間見たりすることができたんだ……」
「……俺の夢も……それだって言うのか?」
俺の疑問に曖昧に頷く八尋。
「うん……。ずいぶんと離れてるけど、慈雨くんが阿女の血を継いでるのは確かだし……。
それにそうじゃないと、説明がつかない。それに……」
「……それに?」
「氷雨と呼ばれる女の子に……心当たりがあるんだ」
八尋の言葉にはどこか戸惑いがあった。
「阿女の血を引く彼女たちが生贄として湖に投げ込まれるようになった話はしたし、慈雨くんも夢で見てると思う。
確か……、その最初の一人が……」
「……氷雨か……」
俺の言葉に八尋はこくりと頷いた。
「……じゃあ、氷雨が村長の息子に湖へ落とされてから、阿女との契約が歪まされたってこと……か?」
ふむ、と独りごちる。
正確に言えば、氷雨は突き落とされたわけではないが、あの夢が事実なら結果的に氷雨が湖へ落ちたのは、村長の息子だと言っていたあの男が追い詰めたからだろう。
「……氷雨の転落を誤魔化すために……、契約を歪めたのか?」
「……どうかな?」
正確なことはもう誰にもわからない。
それに……。
「まぁ、いまさら真実を知ってもな……」
そう。全てはいまさらなのだ。
そもそも、氷雨の悲しい出来事がなければ、曾祖父母は駆け落ちしなかったし、俺という存在も産まれなかった。
俺が産まれなければ、そもそも八尋とこんな関係にはならなかっただろう。
そうなれば、八尋は……。
そっと八尋の肩に頭を預ける。
俺の気持ちに気付いたのか、八尋が俺の肩を抱いて引き寄せてくれた。
夢で落ちていった彼女には申し訳ないが……。
「……そうだね」
八尋の静かな同意に、俺は八尋にぎゅっと抱きついた。
そう、全ては過去の出来事……。
そのはず……だった……。
気が付けば俺は森の中を走っていた。
さわさわと剥き出しの足に触れるのは草。
整備されてない、踏み固められただけの細いけもの道を走る。
真っ暗な夜。
儚い月明かりだけを道しるべに、僅かに傾斜のある道を走る。
早く早く早く。
また……。
まただ……。
これは俺であって俺じゃない。
だけど……いつも見る夢……とも展開が違う。
チラリと視線を落とした先にあったのは、細い腕と女性物の着物。
何も履いていない華奢な素足は、山道に転がる小石によって傷つけられていた。
痛みを堪えながら誰かは走る。
そして気づく。
後ろから追いかけてくる気配があることを。
自分より大きい相手なのか、ざわざわと草木を掻き分ける音がやたらと耳についた。
はぁはぁと荒れた息が遠く、近く聞こえる。
その声に心底怯えを見せている、俺ではない誰か。
チラリと後ろを振り返って……小さな悲鳴をあげる。
逃げなきゃ。逃げなきゃ。
だってあたしは……っ!
今回の夢も、恐らく女性……なのだろう。
だけど以前の夢の誰もと違う。
「待て! 氷雨! お前はオレの嫁になるんだよ……っ!」
怒号のような男の声に、周囲で寝ていたらしい小動物の騒めく気配がした。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
気が付けば視界が開けていた。
夜の闇を写し取る静かな湖面。二つの満月に見えたのは、空に浮かぶ満月と、その輝きを写し取った姿が湖面に浮かび上がっていたから。
強く、風が吹いた。
さわさわと騒めく木々と、風に吹かれさざ波を立てる湖面。
ここは……阿女と八尋が契約を結んだあの場所だった。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を吐いた彼女が、人の気配に反応して後ろを振り返る。
その勢いに押され、一つに括られた長い髪が背中を叩いた。
目の粗い粗末な着物の襟元を、恐怖ゆえかぎゅっと握り締める。
俺はそれを……他人事のように感じてることしかできない。
「待てよ! 次の村長である俺の嫁になれって言ってんだぞ! どうしてそんなに嫌がるんだっ!」
森から姿を現した男が、大声で怒鳴る。
大柄な体を昔の農民みたいな着物で包んでいる。
丸太みたいな太い腕と、さらに太い太もも。
髭に覆われた剣呑な顔は、どう見ても今の俺より年上に見える。
今俺の意識があるこの身体の持ち主はいくつくらいだろうか?
肌の感じからして今の俺の年と、そして湖に落とされていった生贄の女性たちと同じくらいに思えた。
「ですから! あたしは十八を過ぎてもオヤシロ様のお側にいたいのです!」
「オヤシロサマなんているわけないだろうがっ! そんなくだらない言い訳で俺に逆らうってのかっ! それとも何か?! オヤシロサマに力を捧げるとか言って他の村の男と逢引でもしてんだろうっ!」
「なんてことを! この村が水に困らないのはオヤシロ様の加護のおかげではないですか! 次の村長であるあなたがそんなことを……」
男の言葉にぶるりと身を震わせる彼女。
そんな彼女の言葉に、男はせせら笑いを返した。
「オヤシロサマなんて! 龍神なんて……そんなもんはいねぇっていってんだろ。この湖は代々ウチの村が使ってやってんだよ」
「そんな……っ! オヤシロ様は確かにいらっしゃいます! オヤシロ様が湖にいらして加護を授けてくださるからこそ! 村は水で困ったことがないんです! 山向こうの村が水でもめて滅びた話は聞いてますよね?!」
「へへっ! 龍神がいようがいまいが、湖はそこにあんだよ! お前をそんないるかいないかわかんねぇヤツにくれてやるいわれはねぇっ! さぁこっちにこい! 村に帰ったらブチ犯してやるっ!」
「そんっ!」
「いいからこっちこい!」
「いやぁ!!」
男の丸太のような腕が自分へと伸ばされる。
それから逃れるようにして、身を捩る彼女。
男から距離を取るようにして逃げた先に道は……なかった。
あとはもう、ぽっかりと口を開けている湖へと落ちるしかない。
「ははっ! ほらもう逃げ場なんてねぇぞ! それともなんだ? オヤシロサマが助けてくれるってか!」
山賊のような下品な嗤いが、夜の静寂を切り裂く。
本当に不愉快な男だ。
「ひっ……!」
男が一歩近づく。
女が一歩下がる。
男がもう一歩近づく。
女がもう一歩下がった瞬間。
かかとに触れた小石がからりと落ちていく音がした。
「おら、もう後がねぇ。大人しくこっちへ来い」
自分の勝利を確信したのか、男がニヤニヤと嫌な笑いを浮かべる。
「い、いやぁ……!」
「っ!? しまっ!」
男の手から逃れようと、少女が後ろに踏み出した一歩は……虚しく空を切る。
カクンとバランスを崩した女の身体は……そのまま中空に放り出され、そして……落ちていく。
「いやぁぁぁぁぁ————!!」
「っ! くそがっ!」
男が慌てて崖へと駆け寄っても手遅れなのは明らかだった。
女は絶望に彩られながら、空を見上げる。
最期に見た月は……輝いていた。
◆ ◆ ◆
「うっ、わぁぁぁ————!!」
謎の浮遊感から解放されて、カクンと足が揺れる。
自分の悲鳴で起きるとか、寝起きの部類としては最悪じゃないか?
「ど、どうしたの慈雨くん!? 何かあった!?」
俺の悲鳴が聞こえたのか、部屋に飛び込んできた人影。
一瞬夢の中で追いかけられたことを思い出して、びくりと身体が跳ねた。
だけど、心配そうに俺の顔を覗き込む男の姿に、ほっと息を吐いた。
「……やひ……ろ」
「そうだよ? どうしたの? 何かあった?」
「……いや、ちょっと怖い夢見て……」
高校生にもなって怖い夢を見て飛び起きるとか、結構恥ずかしいな?
「夢見て飛び起きるとかダセェよな……」
悪夢の残滓を吹き飛ばせるように、夢は夢だと笑い飛ばして欲しかったのに……。
何故か八尋は真剣な表情を浮かべている。
「驚かせてごめんて。夢で叫ぶとかクッソ恥ずい……」
照れ隠しを込めてそう伝えてみても、八尋の表情はすぐれないままだ。
「……八尋?」
「……夢の内容……教えてくれる?」
いつになく真剣な表情に押されて、俺はさっき見た夢についての一部始終どころか、八尋と阿女の夢や、生贄にされた彼女たちの夢も洗いざらい吐くことになっていた。
「……ってわけなんだけど……」
途中、喉の渇きを覚えてベッドから離れ、八尋と並んでソファに座っている。
八尋が冷蔵庫から出してきた冷たい麦茶を飲みながら夢について話した結果、八尋は真剣な表情で思慮に耽っていた。
その沈黙がなんとなく気まずくて、手元に引き寄せたスマホをイジる。
何件か来ていた友人たちからのメッセージに返事をし、なんとなく立ち上げたSNSを眺めていると、八尋がおもむろに口を開いた。
「あの……ね? 実は阿女には夢見の才もあったんだよ」
「……ユメミ?」
やっと口を開いたかと、スマホをローテーブルに置いて、八尋を見上げる。
まだ何事か考えてるのか、俺に話しながら自分の考えをまとめているようだ。
「そう……。要は夢で未来や過去のことを知ったり、他の人の人生を垣間見たりすることができたんだ……」
「……俺の夢も……それだって言うのか?」
俺の疑問に曖昧に頷く八尋。
「うん……。ずいぶんと離れてるけど、慈雨くんが阿女の血を継いでるのは確かだし……。
それにそうじゃないと、説明がつかない。それに……」
「……それに?」
「氷雨と呼ばれる女の子に……心当たりがあるんだ」
八尋の言葉にはどこか戸惑いがあった。
「阿女の血を引く彼女たちが生贄として湖に投げ込まれるようになった話はしたし、慈雨くんも夢で見てると思う。
確か……、その最初の一人が……」
「……氷雨か……」
俺の言葉に八尋はこくりと頷いた。
「……じゃあ、氷雨が村長の息子に湖へ落とされてから、阿女との契約が歪まされたってこと……か?」
ふむ、と独りごちる。
正確に言えば、氷雨は突き落とされたわけではないが、あの夢が事実なら結果的に氷雨が湖へ落ちたのは、村長の息子だと言っていたあの男が追い詰めたからだろう。
「……氷雨の転落を誤魔化すために……、契約を歪めたのか?」
「……どうかな?」
正確なことはもう誰にもわからない。
それに……。
「まぁ、いまさら真実を知ってもな……」
そう。全てはいまさらなのだ。
そもそも、氷雨の悲しい出来事がなければ、曾祖父母は駆け落ちしなかったし、俺という存在も産まれなかった。
俺が産まれなければ、そもそも八尋とこんな関係にはならなかっただろう。
そうなれば、八尋は……。
そっと八尋の肩に頭を預ける。
俺の気持ちに気付いたのか、八尋が俺の肩を抱いて引き寄せてくれた。
夢で落ちていった彼女には申し訳ないが……。
「……そうだね」
八尋の静かな同意に、俺は八尋にぎゅっと抱きついた。
そう、全ては過去の出来事……。
そのはず……だった……。


