(英雄の日記)
その後、村を捨てた私たちは、夫婦となって各地を転々とすることになる。
戦後の混乱もあり、過去を偽造することは容易かった。
あんな田舎の、閉鎖的な村の出身だったなどと微塵も悟られずに、ただひたすら普通の夫婦として振舞ってきた。
ときおり『オヤシロ様が見てる』と酷く怯える雫さんを慰め、雨が降ればチリチリと痛む火傷の古傷を撫でつけながら。
そして雫さんの妊娠。
村から離れれば、あの因縁から逃げ出せると思っていた私たちをあざ笑うように、第一子は娘だった。
酷く怯える雫さんを宥め、ときおり我が子を手にかけようとする雫さんを説得し、それでも家族三人で過ごした日々は幸せだった。
やがて娘も年頃になり、十八を越えた時、雫さんがほっと安堵の息を吐いたのを今でも覚えている。
だが、それでもまだオヤシロ様の存在は雫さんを縛っていた。
深く、深く。
それがとても腹立たしい。雫さんの心を僅かでも奪っていくオヤシロ様という存在が憎らしい。
私の雫さんなのに。負の感情とはいえ、雫さんの関心を奪う存在が許しがたい。
あぁ憎らしい。憎らしい。
遠く離れたこの地まで、雫さんを縛り付けるオヤシロ様という存在が憎くて憎くて堪らない。
そんなある日、朗報が飛び込んできた。
なんとあのオヤシロ様が奉られている湖が整備され、ダムへと姿を変えるというのだ。
あの村が無くなってからこちら、人の立ち入らない場所となっていたあの辺りは、ダムを整備するのにうってつけだったのだろう。
同時に燃え尽きて廃墟となっている村もダムへと沈むそうだ。
ははっ。ざまあみろ。
全て壊れてなくなってしまえ。
あんな村。あんな湖。雫さんの心を苛む存在など消えてしまえばいい。
ダム建設計画のニュースを見ながらそんなことを考えていると、嫁いだ娘から連絡が入った。
娘も……娘を生んだらしい。
雫さんが執拗に娘へと語り掛けている。
『オヤシロ様に見つかってはいけないよ。見つかったら食べられてしまうからね』
あぁ、忌々しい。
未だに雫さんを縛るオヤシロ様という存在が……。
そしてダムは建設され、湖も村もダムの底へ沈んだ。
孫娘も十八を超え、雫さんがほっと安堵の息を吐いていた。
このまま……このまま逃げ切れれば……。
そして孫娘の妊娠。
私と雫さんは表面上ひ孫の誕生を喜ぶ祖父母の仮面をかぶり、内心では願っていた。
男児でありますようにと。
信心なんて微塵も持っていないにも関わらず、神に、ナニカに願っていた。
そして生まれたのは……。
男の子だった。
その連絡を聞いた雫さんが頽れる。
床に伏せたまま泣き続ける雫さんの小さくなった身体をひたすらに抱きしめることしかできないこの身が歯痒い。
だけど泣いて泣いて、目元を真っ赤に腫れさせた雫さんは……まるで憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔をしていた。
今まで長き時を夫婦として過ごしてきたが、初めて見る満面の笑みだった。
だから私は……。つられるように笑っていた……んだと思う。
雫さんの家系で久しぶりに生まれた男児は『慈雨』と名付けられた。
代々、水や雨にちなんだ名前を付けるのが雫さんの家に伝わる約束事だったらしい。
オヤシロ様との契約が破棄された証に、全く違う名前にしてはどうかと孫娘にも伝えたのだが、何故か譲らなかった。
『この子は慈雨だから』と。
オヤシロ様の干渉を警戒するも、雫さん曰くそうではないらしい。
ならば。慈雨を受け入れよう。
私たちの希望の光。過去から、因縁から解き放たれた証。
植物に柔らかく降り注ぐ恵みの雨のように。
大地を潤す命のしずくのように。
そう……生きてくれますようにとの願いを込めて。
その後、雫さんは一気に体調を崩していった。
寝たきりになり、あまり意識もはっきりしないようだ。
『ずいぶんと長生きしました。本来であれば十八で終わる命だったのに……。あなたに救われて幸せでした』
置いていかないでくれと願う私の手を握り、雫さんはそっと……ため息のような最期の息を吐いた。
雫さん亡き後、まるで身体の半分を失ったような喪失感が酷い。
恐らく私も長くはもたないだろう。
それに、死してなお雫さんと同じ場所へは逝けないかもしれない。
視線を……感じる。
そここから私を恨めし気に見る視線。
その持ち主たちは恐らく……。
死が口を開けて手招く前に、私はこの日記を完成させよう。
雫さんが感じていた視線はオヤシロ様だけではなかったと。
むしろオヤシロ様は雫さんを守っていたのかもしれないと。
じとりとした仄暗い視線。沢山の恨みのこもった視線。
その持ち主は……私が殺した……
その後、村を捨てた私たちは、夫婦となって各地を転々とすることになる。
戦後の混乱もあり、過去を偽造することは容易かった。
あんな田舎の、閉鎖的な村の出身だったなどと微塵も悟られずに、ただひたすら普通の夫婦として振舞ってきた。
ときおり『オヤシロ様が見てる』と酷く怯える雫さんを慰め、雨が降ればチリチリと痛む火傷の古傷を撫でつけながら。
そして雫さんの妊娠。
村から離れれば、あの因縁から逃げ出せると思っていた私たちをあざ笑うように、第一子は娘だった。
酷く怯える雫さんを宥め、ときおり我が子を手にかけようとする雫さんを説得し、それでも家族三人で過ごした日々は幸せだった。
やがて娘も年頃になり、十八を越えた時、雫さんがほっと安堵の息を吐いたのを今でも覚えている。
だが、それでもまだオヤシロ様の存在は雫さんを縛っていた。
深く、深く。
それがとても腹立たしい。雫さんの心を僅かでも奪っていくオヤシロ様という存在が憎らしい。
私の雫さんなのに。負の感情とはいえ、雫さんの関心を奪う存在が許しがたい。
あぁ憎らしい。憎らしい。
遠く離れたこの地まで、雫さんを縛り付けるオヤシロ様という存在が憎くて憎くて堪らない。
そんなある日、朗報が飛び込んできた。
なんとあのオヤシロ様が奉られている湖が整備され、ダムへと姿を変えるというのだ。
あの村が無くなってからこちら、人の立ち入らない場所となっていたあの辺りは、ダムを整備するのにうってつけだったのだろう。
同時に燃え尽きて廃墟となっている村もダムへと沈むそうだ。
ははっ。ざまあみろ。
全て壊れてなくなってしまえ。
あんな村。あんな湖。雫さんの心を苛む存在など消えてしまえばいい。
ダム建設計画のニュースを見ながらそんなことを考えていると、嫁いだ娘から連絡が入った。
娘も……娘を生んだらしい。
雫さんが執拗に娘へと語り掛けている。
『オヤシロ様に見つかってはいけないよ。見つかったら食べられてしまうからね』
あぁ、忌々しい。
未だに雫さんを縛るオヤシロ様という存在が……。
そしてダムは建設され、湖も村もダムの底へ沈んだ。
孫娘も十八を超え、雫さんがほっと安堵の息を吐いていた。
このまま……このまま逃げ切れれば……。
そして孫娘の妊娠。
私と雫さんは表面上ひ孫の誕生を喜ぶ祖父母の仮面をかぶり、内心では願っていた。
男児でありますようにと。
信心なんて微塵も持っていないにも関わらず、神に、ナニカに願っていた。
そして生まれたのは……。
男の子だった。
その連絡を聞いた雫さんが頽れる。
床に伏せたまま泣き続ける雫さんの小さくなった身体をひたすらに抱きしめることしかできないこの身が歯痒い。
だけど泣いて泣いて、目元を真っ赤に腫れさせた雫さんは……まるで憑き物が落ちたような晴れやかな笑顔をしていた。
今まで長き時を夫婦として過ごしてきたが、初めて見る満面の笑みだった。
だから私は……。つられるように笑っていた……んだと思う。
雫さんの家系で久しぶりに生まれた男児は『慈雨』と名付けられた。
代々、水や雨にちなんだ名前を付けるのが雫さんの家に伝わる約束事だったらしい。
オヤシロ様との契約が破棄された証に、全く違う名前にしてはどうかと孫娘にも伝えたのだが、何故か譲らなかった。
『この子は慈雨だから』と。
オヤシロ様の干渉を警戒するも、雫さん曰くそうではないらしい。
ならば。慈雨を受け入れよう。
私たちの希望の光。過去から、因縁から解き放たれた証。
植物に柔らかく降り注ぐ恵みの雨のように。
大地を潤す命のしずくのように。
そう……生きてくれますようにとの願いを込めて。
その後、雫さんは一気に体調を崩していった。
寝たきりになり、あまり意識もはっきりしないようだ。
『ずいぶんと長生きしました。本来であれば十八で終わる命だったのに……。あなたに救われて幸せでした』
置いていかないでくれと願う私の手を握り、雫さんはそっと……ため息のような最期の息を吐いた。
雫さん亡き後、まるで身体の半分を失ったような喪失感が酷い。
恐らく私も長くはもたないだろう。
それに、死してなお雫さんと同じ場所へは逝けないかもしれない。
視線を……感じる。
そここから私を恨めし気に見る視線。
その持ち主たちは恐らく……。
死が口を開けて手招く前に、私はこの日記を完成させよう。
雫さんが感じていた視線はオヤシロ様だけではなかったと。
むしろオヤシロ様は雫さんを守っていたのかもしれないと。
じとりとした仄暗い視線。沢山の恨みのこもった視線。
その持ち主は……私が殺した……


