翌年の秋、波照間島は、前年の台風がうそのような快晴に恵まれた。高那崎の岸壁に立つと、心地よい潮風が頬を撫でた。
「足元、気をつけろよ」
「うん」
差し伸べた手を握り、亮太が微笑む。どこにでもいるカップルのように手を繋いで、崖に沿って歩いた。
その場所に立つと、あらゆる記憶が一気に蘇った。去年、亮太とふたりで訪れたとき、さらにその1年前、父親たちが同じ場所に立っていたこと。
隣の亮太を見ると、彼もまた唇を噛みしめて、水平線をじっと見つめていた。石垣島でフェリーに乗る前に購入した花束からフィルムをていねいに剥がし、花を海に投げ入れた。
ここにくる前には、東京でふたりの父の墓参りも済ませてきた。親戚から忌み嫌われ恐れられていた石黒美津夫にも、息子以外に身寄りのない三條隆一にも、ほかに墓を訪れる者はなく、墓前に花を手向けたのはおれたちだけだった。
魂や運命や死後の世界などという非現実的な話は信じない。だが、海面でゆらゆらと揺れる花を見下ろしていると、ごく自然に祈りの言葉が漏れた。亮太がこちらを見て、視線が合った。強い南風が亮太の髪を揺らしている。
三條隆一が安らかでいてくれたらいいと思った。石黒美津夫への怒りやわだかまりも今では消え去っていた。ただ一言、心のなかで唱えた。
馬鹿だな、親父。
繋いだ手に力を込めた。亮太も力強く握りしめてきた。
最後に、この場所で、三條隆一とふたりでいたとき、父は幸福だっただろうか。たとえ一方的な思いであったとしても、人生の最後に、生まれてはじめて心から愛した相手と思いを遂げた。
おれたちはともに死ぬのではなく、ともに生きる。この先もずっとふたりで。
気づくと、亮太がおれのほうに体を寄せ、ぴったりと半身を貼りつけて寄りかかっていた。
おれたちは互いに身を寄せ合い、両親が命を消した紺碧の海を見つめていた。
強風の影響で船に遅れが生じていたが、それでもじゅうぶんに時間の余裕があった。ビーチにでも行こうかと誘ったが、亮太は疲れを理由にコテージに戻りたがった。もちろん、断る理由はなかった。主立った観光地には去年足をはこんでいたし、観光を目的にきたわけでもなかった。
1年前に泊まったときとおなじ部屋を予約した。あのときは凄まじい暴風雨で窓も開けられない状況だったが、この日は空気が澄んで、半袖でも汗が滲むほどだった。
縁側に出て、煙草を吸った。途中に寄った商店でビールを買って冷蔵庫に入れていたが、飲まなかった。まだ夕方で、亮太が外出したがるかもしれない。彼は免許を持っておらず、レンタカーを運転できるのはおれだけだった。
おれのほうも運転は久しぶりだった。去年の暮れに会社を辞め、営業車を運転することもなくなった。後継者として役員の座が約束されていたおれの突然の退職に周囲は驚き、会長職に就く母親は激怒したが、もどる気はなかった。
退職届を提出するのと同時に実家を出て、亮太と住みはじめた。洋菓子店の近所の賃貸マンションを借りて、引っ越した。
亮太の父がつくった借金はおれが立て替えた。洋菓子店も閉店を免れ、再建に向けて歩みを進めている。求職中で暇を持て余しているおれは、宣伝が不得意なオーナーパティシエに代わって、店の広報を務めるようになった。美佳をはじめとした港区の女たちやキャバクラ嬢にも声を掛けた。彼女たちがケーキや焼き菓子の写真をSNSに投稿し、店の評判がくちこみで広がったことによって、経営は上向きはじめていた。
無能な存在と見下し、利用してきた彼女たちによって、傾きかけていた経営が浮上するきっかけとなったのだから、皮肉な話だ。亮太と出会って、付き合うようになって、生き方だけでなく、見えるものも変わった。ようやく嵐がやみ、光が差し込んだ。
汗を吸ったTシャツを脱ぎ、上半身裸になった。秋口とは思えない強い日差しが肌を刺す。大きく体を伸ばし、深呼吸して、澄んだ空気を体内に取り込んだ。都会では味わうことのできない自然を堪能する。
「日光浴してるの?」
背後で声がして、振り返ると、亮太が窓際に立っていた。
「気持ちいい天気ですね。去年はあんなすごい雨だったのに」
シャワーを浴びたあとでまだ髪が濡れていた。素肌にバイル地の濃紺のナイトガウンを着ている。部屋に備えられたものではない。去年の冬、誕生日におれが贈った。パジャマを持っていないというので、プレゼントした。ハイブランドのものではなく、ごく一般的なルームウェアだ。しかし、こんなに高価なものを着ていたら緊張して眠れないと困っていた。とはいえ、慣れると肌触りが気に入ったようで、春も夏もほぼ毎晩使っていた。旅先にも持参するとは、つくづく尽くし甲斐があるというものだ。
煙草を灰皿に圧しつぶし、体の向きを変えた。窓に寄りかかっている恋人を抱き寄せ、唇を合わせた。そのまま後ろ手に窓を閉め、カーテンを引く。
「……夕方なのに、まだ明るい」
「そうだな」
唇を触れさせ、舌を絡ませながら、互いに囁く。縺れ合いながらベッドに倒れ込んだ。
自分が贈ったナイトガウンを脱がせる。カーテンを閉めていても外の光が差し込んできて、亮太の産毛をきらきらと輝かせた。
ガウンの前をはだけて肌を露わにした亮太が顔を背ける。首まで真っ赤に染まって、かえって艶めかしさを増していた。
「恥ずかしい?」
問いかけると、ぎこちなく頷く。ふだんは必ず明かりを消すことを求め、肌を見せることを躊躇った。こんなふうにすべて曝け出すのははじめてだった。
観光もせず、コテージに帰りたがり、汗を流すといってバスルームに入って1時間近く出てこなかった。互いに求めているとわかっていた。にもかかわらず、裸を見られることにたじろぎ、恥じらい、緊張を見せる。その矛盾がいとおしい。
呼吸に合わせて前後する胸を見下ろしながら、おれは1年前の台風の夜を思い出していた。はじめてのときももちろん、じっくり体を見る余裕はなかった。あれこそまるで嵐が吹きすさぶように、思考もなにもかも棄てて行為におぼれていた。
1年たって、おなじ場所でこうして亮太とふたりベッドにいることが信じられなかった。
「倫雄さん……?」
おれが黙って凝視していることで誤解したのか、亮太が不安げに見上げてくる。我に返り、安心させるため、親指の腹で頬に触れた。
「ありがとう」
去年、亮太にいわれた言葉を、今度はおれが口にした。
「そんな……ぼくのほうこそ、旅費も出してもらってるのに」
「そうじゃない」
素肌を合わせ、抱きしめた。亮太の鼓動を直接感じる。生きていると実感する。額を擦らせると、亮太が目を閉じた。
「ありがとう。勇気を出してくれて」」
亮太に会うまで、だれかに心から礼をいったことはなかった。亮太と過ごすようになってからは、日々のひとつひとつが輝いている。オーブンのなかでケーキが焼ける甘い匂い。菓子の箱を抱きしめて飛び跳ねる子どもたち。通り抜ける風。差し込む陽の光。朝、目を覚ますと、隣に亮太がいる。顔に触れると、目を開け、俺を見つめて、「おはよう」と微笑む。
あのとき、亮太がおれと生きる未来を選んでくれなければ、手にすることのなかった人生だ。
亮太は強い人間だ。いっしょに暮らして、そのことがよくわかった。亮太は自分の人生から逃げなかった。おれも、亮太のようにありたい。
きつく抱きしめると、おなじだけの力でしがみついてくる。シーツを捩れさせ、互いの腕や脚を絡ませ、何度も体勢を変えながら、抱きあった。
おれの父、石黒美津夫は成功者だった。健康で、裕福で、ほしいものはすべて手に入れていた。孤独で愛情を知らないことを除けば、なんの問題もない人生だった。三條隆一と会うことがなければ、死ぬことはなかっただろう。三條隆一もまた、石黒の存在がなければ、死を選ぶ理由はなかった。ふたりが出会うことがなければ、おれと亮太の人生が交わることはなかった。
亮太の匂い、体温、触れた感触を全身に感じた。おれたちは生きている。これから先も、ふたりで生き続ける。
「足元、気をつけろよ」
「うん」
差し伸べた手を握り、亮太が微笑む。どこにでもいるカップルのように手を繋いで、崖に沿って歩いた。
その場所に立つと、あらゆる記憶が一気に蘇った。去年、亮太とふたりで訪れたとき、さらにその1年前、父親たちが同じ場所に立っていたこと。
隣の亮太を見ると、彼もまた唇を噛みしめて、水平線をじっと見つめていた。石垣島でフェリーに乗る前に購入した花束からフィルムをていねいに剥がし、花を海に投げ入れた。
ここにくる前には、東京でふたりの父の墓参りも済ませてきた。親戚から忌み嫌われ恐れられていた石黒美津夫にも、息子以外に身寄りのない三條隆一にも、ほかに墓を訪れる者はなく、墓前に花を手向けたのはおれたちだけだった。
魂や運命や死後の世界などという非現実的な話は信じない。だが、海面でゆらゆらと揺れる花を見下ろしていると、ごく自然に祈りの言葉が漏れた。亮太がこちらを見て、視線が合った。強い南風が亮太の髪を揺らしている。
三條隆一が安らかでいてくれたらいいと思った。石黒美津夫への怒りやわだかまりも今では消え去っていた。ただ一言、心のなかで唱えた。
馬鹿だな、親父。
繋いだ手に力を込めた。亮太も力強く握りしめてきた。
最後に、この場所で、三條隆一とふたりでいたとき、父は幸福だっただろうか。たとえ一方的な思いであったとしても、人生の最後に、生まれてはじめて心から愛した相手と思いを遂げた。
おれたちはともに死ぬのではなく、ともに生きる。この先もずっとふたりで。
気づくと、亮太がおれのほうに体を寄せ、ぴったりと半身を貼りつけて寄りかかっていた。
おれたちは互いに身を寄せ合い、両親が命を消した紺碧の海を見つめていた。
強風の影響で船に遅れが生じていたが、それでもじゅうぶんに時間の余裕があった。ビーチにでも行こうかと誘ったが、亮太は疲れを理由にコテージに戻りたがった。もちろん、断る理由はなかった。主立った観光地には去年足をはこんでいたし、観光を目的にきたわけでもなかった。
1年前に泊まったときとおなじ部屋を予約した。あのときは凄まじい暴風雨で窓も開けられない状況だったが、この日は空気が澄んで、半袖でも汗が滲むほどだった。
縁側に出て、煙草を吸った。途中に寄った商店でビールを買って冷蔵庫に入れていたが、飲まなかった。まだ夕方で、亮太が外出したがるかもしれない。彼は免許を持っておらず、レンタカーを運転できるのはおれだけだった。
おれのほうも運転は久しぶりだった。去年の暮れに会社を辞め、営業車を運転することもなくなった。後継者として役員の座が約束されていたおれの突然の退職に周囲は驚き、会長職に就く母親は激怒したが、もどる気はなかった。
退職届を提出するのと同時に実家を出て、亮太と住みはじめた。洋菓子店の近所の賃貸マンションを借りて、引っ越した。
亮太の父がつくった借金はおれが立て替えた。洋菓子店も閉店を免れ、再建に向けて歩みを進めている。求職中で暇を持て余しているおれは、宣伝が不得意なオーナーパティシエに代わって、店の広報を務めるようになった。美佳をはじめとした港区の女たちやキャバクラ嬢にも声を掛けた。彼女たちがケーキや焼き菓子の写真をSNSに投稿し、店の評判がくちこみで広がったことによって、経営は上向きはじめていた。
無能な存在と見下し、利用してきた彼女たちによって、傾きかけていた経営が浮上するきっかけとなったのだから、皮肉な話だ。亮太と出会って、付き合うようになって、生き方だけでなく、見えるものも変わった。ようやく嵐がやみ、光が差し込んだ。
汗を吸ったTシャツを脱ぎ、上半身裸になった。秋口とは思えない強い日差しが肌を刺す。大きく体を伸ばし、深呼吸して、澄んだ空気を体内に取り込んだ。都会では味わうことのできない自然を堪能する。
「日光浴してるの?」
背後で声がして、振り返ると、亮太が窓際に立っていた。
「気持ちいい天気ですね。去年はあんなすごい雨だったのに」
シャワーを浴びたあとでまだ髪が濡れていた。素肌にバイル地の濃紺のナイトガウンを着ている。部屋に備えられたものではない。去年の冬、誕生日におれが贈った。パジャマを持っていないというので、プレゼントした。ハイブランドのものではなく、ごく一般的なルームウェアだ。しかし、こんなに高価なものを着ていたら緊張して眠れないと困っていた。とはいえ、慣れると肌触りが気に入ったようで、春も夏もほぼ毎晩使っていた。旅先にも持参するとは、つくづく尽くし甲斐があるというものだ。
煙草を灰皿に圧しつぶし、体の向きを変えた。窓に寄りかかっている恋人を抱き寄せ、唇を合わせた。そのまま後ろ手に窓を閉め、カーテンを引く。
「……夕方なのに、まだ明るい」
「そうだな」
唇を触れさせ、舌を絡ませながら、互いに囁く。縺れ合いながらベッドに倒れ込んだ。
自分が贈ったナイトガウンを脱がせる。カーテンを閉めていても外の光が差し込んできて、亮太の産毛をきらきらと輝かせた。
ガウンの前をはだけて肌を露わにした亮太が顔を背ける。首まで真っ赤に染まって、かえって艶めかしさを増していた。
「恥ずかしい?」
問いかけると、ぎこちなく頷く。ふだんは必ず明かりを消すことを求め、肌を見せることを躊躇った。こんなふうにすべて曝け出すのははじめてだった。
観光もせず、コテージに帰りたがり、汗を流すといってバスルームに入って1時間近く出てこなかった。互いに求めているとわかっていた。にもかかわらず、裸を見られることにたじろぎ、恥じらい、緊張を見せる。その矛盾がいとおしい。
呼吸に合わせて前後する胸を見下ろしながら、おれは1年前の台風の夜を思い出していた。はじめてのときももちろん、じっくり体を見る余裕はなかった。あれこそまるで嵐が吹きすさぶように、思考もなにもかも棄てて行為におぼれていた。
1年たって、おなじ場所でこうして亮太とふたりベッドにいることが信じられなかった。
「倫雄さん……?」
おれが黙って凝視していることで誤解したのか、亮太が不安げに見上げてくる。我に返り、安心させるため、親指の腹で頬に触れた。
「ありがとう」
去年、亮太にいわれた言葉を、今度はおれが口にした。
「そんな……ぼくのほうこそ、旅費も出してもらってるのに」
「そうじゃない」
素肌を合わせ、抱きしめた。亮太の鼓動を直接感じる。生きていると実感する。額を擦らせると、亮太が目を閉じた。
「ありがとう。勇気を出してくれて」」
亮太に会うまで、だれかに心から礼をいったことはなかった。亮太と過ごすようになってからは、日々のひとつひとつが輝いている。オーブンのなかでケーキが焼ける甘い匂い。菓子の箱を抱きしめて飛び跳ねる子どもたち。通り抜ける風。差し込む陽の光。朝、目を覚ますと、隣に亮太がいる。顔に触れると、目を開け、俺を見つめて、「おはよう」と微笑む。
あのとき、亮太がおれと生きる未来を選んでくれなければ、手にすることのなかった人生だ。
亮太は強い人間だ。いっしょに暮らして、そのことがよくわかった。亮太は自分の人生から逃げなかった。おれも、亮太のようにありたい。
きつく抱きしめると、おなじだけの力でしがみついてくる。シーツを捩れさせ、互いの腕や脚を絡ませ、何度も体勢を変えながら、抱きあった。
おれの父、石黒美津夫は成功者だった。健康で、裕福で、ほしいものはすべて手に入れていた。孤独で愛情を知らないことを除けば、なんの問題もない人生だった。三條隆一と会うことがなければ、死ぬことはなかっただろう。三條隆一もまた、石黒の存在がなければ、死を選ぶ理由はなかった。ふたりが出会うことがなければ、おれと亮太の人生が交わることはなかった。
亮太の匂い、体温、触れた感触を全身に感じた。おれたちは生きている。これから先も、ふたりで生き続ける。



