「もう泣くな」
頭を撫でると、亮太が顔を上げた。涙で乱れた顔を、心の奥底から、いとおしいと感じた。
「おれはおまえの笑顔が好きなんだよ」
濡れた頬を指の腹で撫でる。亮太の肌の感触、汗の匂いを、心に刻み込んだ。
「だから、笑っていてほしい」
父の死を知ったとき、怒りをおぼえた。その生き方から、だれかに惜しまれ、悲しみと愛情のなかで死を迎えるとは思っていなかった。病死にしろ、他人に刺されるか呪われるかにしろ、穏やかで幸福な最期はゆるされないはずだった。
妻子にさえ本音を漏らさず、他人を蔑ろにし、敵を蹴落としてきた石黒美津夫が、心から愛する相手と手に手を取って命を絶った。その事実を認めることができなかった。
だが、間違いだった。おれは父とは違う。愛する相手を道連れになどできない。亮太には幸せでいてほしかった。ずっと幸せで、笑顔でいてほしかった。地獄に墜ちるのはおれひとりでいい。
「な、亮太。笑ってくれ」
おれの言葉に、亮太は戸惑ったように瞼を震わせた。笑おうとしたようだったが、ぎこちなく頬の筋肉が捩れただけだった。素直で一生懸命な性格をあらわしているようで、いとおしさがこみ上げた。
「好きだな、やっぱり……」
亮太の顔を両手で包み、呟いた。
「本当に好きだった」
ようやく見つけた本当の心。でもこれで終わる。残りの人生で、これほどまでに大事にしたい相手と出会うことはないだろう。だが、もう会えない。
顔を近づけると、亮太は目を閉じた。唇が触れあうほどの距離に近づいたが、それ以上は動けなかった。
「ごめん……」
顔を伏せ、呟いた。耐えられそうになかった。
「倫雄さん……」
亮太の視線を感じた。驚いているような声が聞こえた。おれが泣いていることに、亮太も気づいただろう。
「ごめんな。ごめん、亮太……」
なにに対して謝っているのか、自分でも判然としない。堪えきれずに涙を見せてしまったことか、それとも好きになってしまったことか。はじめから会わなければよかったのかもしれない。亮太のいうように、互いにあの台風の夜の記憶を封じ込め、なにもかも忘れて、それぞれの新たな人生を進むべきなのだろう。だが、おれにはできそうにない。絶対に無理だった。だから、最後のキスさえできなかった。
亮太の前髪を掌で圧し上げ、額に軽く唇を触れさせた。それが精一杯だった。
「じゃあな」
名残惜しさを感じさせないように、さらりと頭を撫でた。
「元気でな」
短くそれだけいって、立ち上がった。亮太はなにもいわなかった。
ドアを開け、がらんどうの部屋を出て、古びた階段を下る。足元がおぼつかず、あやうく転倒しかけた。
あえて俯かず、まっすぐ前を見て歩いた。振り向けば、未練に縛られる。振り向いてはいけない。これが亮太の選択で、おれもまた自らの意思で選んだ道だ。愛しているから離れる。だれより大切だから身を引く。それがおれの愛だった。後悔はない。そのはずだった。
唐突に、足が止まった。見えない鎖に縛られたかのように、それ以上一歩も進めなくなった。商店街に抜ける舗道のど真ん中で、おれはひとり立ち尽くした。
平日の午後で、人通りはすくなかったが、軽トラックが一台、背後から近づいてきて、道を占領しているおれにクラクションを鳴らした。よろけながら道の端に体を寄せ、そのまま電柱につかまってしゃがみこんだ。トラックの排気ガスが立ちこめ、カラスの鳴く声が遠くに聞こえる。
あまりに情けない姿だ。美佳が見れば笑うだろう。母親はあからさまに顔をしかめるはずだ。だが、取り繕う余裕はなかった。アスファルトに膝をつき、おれは掌で顔を覆って泣いた。まるで体の一部、いや、ほとんどすべてを削り取られたようだ。いつの間にか、これほどまでに亮太の存在が大きくなっていたことに、今さら気づいた。亮太はおれのすべてだった。なのに、失ってしまった。二度ともどらない。
「倫雄さん!」
そのとき、亮太の声が聞こえた。幻聴かと思ったが、違った。振り向くと、亮太がこちらに向かって駆けてくるのが見えた。さっき別れたままのシャツにハーフパンツといった服で、サンダルを履いている。息を弾ませ、必死に走っている。
「亮太?」
咄嗟に立ち上がった。醜態を見られた羞恥を感じるよりも、戸惑いのほうが大きかった。
唖然としているおれの胸に、亮太が体を飛び込ませた。全体重をかけられ、転ばないように両脚を踏ん張った。
「いやです!」
亮太は取り乱して泣いていた。おれの胸に顔を埋め、引きちぎれるのではないかというほどつよくシャツを握りしめて、叫んだ。
「ごめんなさい。いやです。だめ。だめです」
通行人が好奇心丸出しの視線でこちらを見ていたが、亮太は気づいてもいないようだった。渾身の力でおれにしがみつき、いった。
「倫雄さんといたいです。つらくても苦しくてもいい。倫雄さんといっしょに生きたいです」
「亮太……」
幼い子どものように声を上げて泣く亮太を抱きしめた。亮太が踵を浮かせ、背伸びをして、おれの首に腕を巻きつけた。おれは亮太の肩をつかみ、濡れた唇を塞いだ。かすかに涙の味がした。
頭を撫でると、亮太が顔を上げた。涙で乱れた顔を、心の奥底から、いとおしいと感じた。
「おれはおまえの笑顔が好きなんだよ」
濡れた頬を指の腹で撫でる。亮太の肌の感触、汗の匂いを、心に刻み込んだ。
「だから、笑っていてほしい」
父の死を知ったとき、怒りをおぼえた。その生き方から、だれかに惜しまれ、悲しみと愛情のなかで死を迎えるとは思っていなかった。病死にしろ、他人に刺されるか呪われるかにしろ、穏やかで幸福な最期はゆるされないはずだった。
妻子にさえ本音を漏らさず、他人を蔑ろにし、敵を蹴落としてきた石黒美津夫が、心から愛する相手と手に手を取って命を絶った。その事実を認めることができなかった。
だが、間違いだった。おれは父とは違う。愛する相手を道連れになどできない。亮太には幸せでいてほしかった。ずっと幸せで、笑顔でいてほしかった。地獄に墜ちるのはおれひとりでいい。
「な、亮太。笑ってくれ」
おれの言葉に、亮太は戸惑ったように瞼を震わせた。笑おうとしたようだったが、ぎこちなく頬の筋肉が捩れただけだった。素直で一生懸命な性格をあらわしているようで、いとおしさがこみ上げた。
「好きだな、やっぱり……」
亮太の顔を両手で包み、呟いた。
「本当に好きだった」
ようやく見つけた本当の心。でもこれで終わる。残りの人生で、これほどまでに大事にしたい相手と出会うことはないだろう。だが、もう会えない。
顔を近づけると、亮太は目を閉じた。唇が触れあうほどの距離に近づいたが、それ以上は動けなかった。
「ごめん……」
顔を伏せ、呟いた。耐えられそうになかった。
「倫雄さん……」
亮太の視線を感じた。驚いているような声が聞こえた。おれが泣いていることに、亮太も気づいただろう。
「ごめんな。ごめん、亮太……」
なにに対して謝っているのか、自分でも判然としない。堪えきれずに涙を見せてしまったことか、それとも好きになってしまったことか。はじめから会わなければよかったのかもしれない。亮太のいうように、互いにあの台風の夜の記憶を封じ込め、なにもかも忘れて、それぞれの新たな人生を進むべきなのだろう。だが、おれにはできそうにない。絶対に無理だった。だから、最後のキスさえできなかった。
亮太の前髪を掌で圧し上げ、額に軽く唇を触れさせた。それが精一杯だった。
「じゃあな」
名残惜しさを感じさせないように、さらりと頭を撫でた。
「元気でな」
短くそれだけいって、立ち上がった。亮太はなにもいわなかった。
ドアを開け、がらんどうの部屋を出て、古びた階段を下る。足元がおぼつかず、あやうく転倒しかけた。
あえて俯かず、まっすぐ前を見て歩いた。振り向けば、未練に縛られる。振り向いてはいけない。これが亮太の選択で、おれもまた自らの意思で選んだ道だ。愛しているから離れる。だれより大切だから身を引く。それがおれの愛だった。後悔はない。そのはずだった。
唐突に、足が止まった。見えない鎖に縛られたかのように、それ以上一歩も進めなくなった。商店街に抜ける舗道のど真ん中で、おれはひとり立ち尽くした。
平日の午後で、人通りはすくなかったが、軽トラックが一台、背後から近づいてきて、道を占領しているおれにクラクションを鳴らした。よろけながら道の端に体を寄せ、そのまま電柱につかまってしゃがみこんだ。トラックの排気ガスが立ちこめ、カラスの鳴く声が遠くに聞こえる。
あまりに情けない姿だ。美佳が見れば笑うだろう。母親はあからさまに顔をしかめるはずだ。だが、取り繕う余裕はなかった。アスファルトに膝をつき、おれは掌で顔を覆って泣いた。まるで体の一部、いや、ほとんどすべてを削り取られたようだ。いつの間にか、これほどまでに亮太の存在が大きくなっていたことに、今さら気づいた。亮太はおれのすべてだった。なのに、失ってしまった。二度ともどらない。
「倫雄さん!」
そのとき、亮太の声が聞こえた。幻聴かと思ったが、違った。振り向くと、亮太がこちらに向かって駆けてくるのが見えた。さっき別れたままのシャツにハーフパンツといった服で、サンダルを履いている。息を弾ませ、必死に走っている。
「亮太?」
咄嗟に立ち上がった。醜態を見られた羞恥を感じるよりも、戸惑いのほうが大きかった。
唖然としているおれの胸に、亮太が体を飛び込ませた。全体重をかけられ、転ばないように両脚を踏ん張った。
「いやです!」
亮太は取り乱して泣いていた。おれの胸に顔を埋め、引きちぎれるのではないかというほどつよくシャツを握りしめて、叫んだ。
「ごめんなさい。いやです。だめ。だめです」
通行人が好奇心丸出しの視線でこちらを見ていたが、亮太は気づいてもいないようだった。渾身の力でおれにしがみつき、いった。
「倫雄さんといたいです。つらくても苦しくてもいい。倫雄さんといっしょに生きたいです」
「亮太……」
幼い子どものように声を上げて泣く亮太を抱きしめた。亮太が踵を浮かせ、背伸びをして、おれの首に腕を巻きつけた。おれは亮太の肩をつかみ、濡れた唇を塞いだ。かすかに涙の味がした。



