HAIMURUBUSHI

 そのとき、スマホが鳴りはじめた。おれのものではない。亮太だった。間の抜けた長閑な着信音がキッチンのほうから聞こえてくる。
「弁護士の先生だと思います。出ないと……」
「出るな」
 腰を浮かせかける亮太の体を強く抱き込み、制した。
「でも、あの……相続放棄の手続きをしないと……」
「そんなものする必要ない」
 亮太を抱きしめたまま、おれはいった。
「おれの父親は、傲慢で身勝手で、いい人間とはいえなかったけど、馬鹿ではなかった。愛されてないことくらいわかってたよ。わかってて、あえて共犯になったんだ。おまえの親父を永久に自分のものにできるからな」
 石黒美津夫はほしいと思ったものは必ず手に入れてきた。どんな手をつかっても。
「どっちがいい出したことにせよ、親父には止められた。説得して、やめさせることだってできた。親父が乗らなきゃ成り立たない話だからな。おまえの父親だって、借金や病気から逃げずに、現実と向き合う道も残ってたはずだ。そうすれば、あと何か月か、最後の時間を息子と過ごせた」
 ふたりの選択を美談と讃えることはできない。三條隆一を愚かな詐欺師だとも、石黒美津夫を哀れな被害者だとも、おれには思えなかった、どうしても。
 自然と亮太の腕をつかむ手に力が入っていた。亮太は瞬きもせずにおれを見つめていた。
「おまえには遺産を受け取る権利がある。おふくろのことは気にするな。うちのことはおれに任せておけばいい。おまえは金を受け取って、借金返して、店を再建しろ」
「できません……」
 おれの腕のなかで、亮太は顔を伏せた。睫毛が涙に濡れて光っている。
「受け取ったら、父の行動を肯定したことになる。そんなことできません」
「ならおれの遺産をおまえに譲る」
 再び、亮太が視線を上げる。かすかだった戸惑いの色は濃くなり、完全に困惑として瞳を塗りつぶしていた。
「遺産として受け取るのが嫌なら、ただ金を振り込んでもいい。すこしくらいなら蓄えもある」
「……なにいってるんですか?」
 亮太が呟く。いつの間にか着信音はやみ、静けさが室内を支配していた。
「どうして倫雄さんがそんな……」
「好きなんだよ」
 言葉が溢れ、感情が溢れた。止めようがなかった。
「おまえが好きだ。勢いでも同情でもない。本気で愛してるんだよ」
「……うそです」
 亮太の体がわずかに震えた。眼球が揺れ、視線が逸らされる。
「うそです。そんな……ありえません」
「どうして」
「どうしてって……だって、倫雄さんはゲイじゃないのに……」
「ちがうってなんでわかる? 親父のことは信じたのに、おれは信じないのか?」
 黙り込む亮太の頬に指先を食い込ませ、自分のほうを向かせた。
「どうすれば信じる? おまえといっしょに死ねば信じるか? そうなのか?」
 感情が昂ぶり、つい手に力が入った。亮太が苦痛に表情を歪めるのを見て、我に返った。慌てて手を離す。
「悪い。つい……」
「いえ……」
「痛くなかったか?」
 亮太は静かに首を振った。おれの前で座りなおし、乱れた衣服を整えた。
「信じます」
 ぽつりといった言葉に、おれは心底安堵した。
「でもだめです」
 息をつくおれに、亮太はもう一度、いった。
「もう決めたことなんです。どうか理解してください」
 畳の上に正座し、深々と頭を下げる。華奢な体に強烈な意思を感じた。
「……この先どうする」
 かろうじて、それだけを聞いた。
「おれの前から消えるのか?」
「……ごめんなさい」
 頭を上げないまま、か細い声でいった。染料の入っていない細い黒髪を、おれはじっと見下ろしていた。
「おまえはどうなんだ、亮太」
 おれの問いに、亮太がおずおずと顔を上げる。縋るような眼差しがおれを見つめていた。
「さっき聞けなかった。波照間で、あのとき、おまえ、なんでおれに抱かれる気になった?」
「それは……」
「成り行きまかせでもないんだろう。翌日も、1日じゅう、離さなかった。次の日ももし船が出なかったから、同じようにずっといっしょだった。だよな?」
 あのとき、嵐がやまなければいいと心底願った。悪意と策略に塗れた都会とどこまでも追いかけてくる現実から逃げ、亮太とふたり、永遠に島に閉じ込められていたいと思った。亮太の肌に触れ、体温や体臭を感じて、このうえなく心が安らいだ。亮太はどうだったのか。どうしても知りたかった。
「……ぼくも好きです」
 畳に視線を落とし、亮太は呟いた。再び涙が零れ、重力に負けて畳の上に落ちる。
「……ほんとか?」
 思いがけない答えに、胸が沸き立ち、声が震えた。亮太が小さく頷く。
「だったら……」
「でもだめなんです」
 もう一度、今度はさっきよりも強い口調で繰り返した。涙が畳を濡らし、汗で湿った髪がうなじに貼りついている。
「倫雄さんといるとつらいんです。好きだけど苦しい。きっと好きだから苦しいんです」
 切実な言葉だった。乱暴に目尻を拭ったが、涙はとめどなく溢れて、亮太の頬をぐしゃぐしゃにしていた。
「倫雄さんといると、思い出したくないことも思い出してしまう。これ以上耐えられないんです。もう忘れたい。もう逃げたいんです」
 最後のほうは叫び出すような声になっていた。小柄な体を丸めて、畳に突っ伏して泣きじゃくる亮太を、おれはただじっと見つめることしかできなかった。
「そうか……」
 膝の上で拳を固め、必死で言葉を紡ぎ出した。
「おれがいないほうが、おまえは幸せなんだな」
 自ら口にした言葉に、烈しく心を傷つけられた。目の奥が熱い。こんな気持ちになるのは生まれてはじめてだった。
「ごめんなさい……」
「謝るなよ。おまえは悪くないんだ」
 きつく唇を噛みしめた。亮太の前で涙を見せたくなかった。ただ、全身がばらばらに砕け散ってしまいそうで、声を抑えるのが精一杯だった。
 おれは親父そっくりだとだれもが形容した。自覚もあった。父親に対して、劣等感を抱いていた。だからこそ、父のように冷酷に、手段を選ばず、弱者を食い物にして信頼を金に換え、のし上がった。罪悪感や倫理観からは目を逸らし、徹底的に悪に徹した。今感じる痛みは、自分がしてきたことに対する罰だと感じた。だれのせいでも、まして亮太の責任であるはずがなかった。つけが回ってきたに過ぎない。それだけだ。