HAIMURUBUSHI

 亮太が住むアパートは洋菓子店から車で10分ほどの場所にあった。タクシーを降りて、3階まで階段を上がる。古い建物で、エレベータは設置されていなかった。
 インタホンを押したが、壊れているようで、音が聞こえない。ノックすると、すこし間があって、ドアが開いた。
 亮太は白いコットンシャツにハーフパンツで裸足だった。おれの顔を見ると、咄嗟にドアを閉めようとした。閉まる直前に革靴の爪先をドアに挟み、体を捩じ込んだ。
「話したいだけだから」
 無意識に息を弾ませていた。それほど急いだつもりではなかったが、焦りもあって、心臓の音が烈しくなっていた。
 亮太は俯いたが、拒めないと思ったのか、無理に追い出すことはせず、踵を返した。
「なんでだ」
 小柄な背中に向かって尋ねた。なぜ電話に出ないのか、なぜ連絡をしなかったのか、なぜ店を閉めることを決めたのか、なぜ遺産相続の権利を放棄したのか。あらゆる疑問が渦巻いていた。
「入ってください」
 静かにいって、亮太はおれの先に立って室内に進んだ。促されるままに靴を脱ぎ、部屋に入る。すぐに違和感をおぼえた。狭い室内に家具はほとんどなく、大きな段ボールがいくつも重ねられている。
「散らかっててすみません」
「いや……」
 きれいに磨かれた床を見下ろし、いった。
「……引っ越すのか?」
「ひとりで暮らすにはすこし広すぎるので」
 なにもない部屋の中央に座布団を置く。両親が生きているときには家族3人で住んでいたのだろう。居間は狭かったが、部屋の奥にはスライドドアで仕切られた個室と小さな和室があった。
「今お茶を……」
「いいから」
 キッチンに向かおうとする手をつかんだ。触れた瞬間、亮太の体がかすかに震えた。部屋にエアコンはなく、空気が籠もっていた。汗ばんだ肌の感触が、いやおうなく、あの波照間島での台風の夜の記憶を呼び起こした。亮太も思い出したのかもしれないと考えると、全身の血が沸き立つようだった。
「座って話そう」
 下心を感じさせないよう、穏やかな声をつくって、手を離す。
 和室の畳の上、おれたちは向き合って座った。亮太は無言で段ボールのひとつを開け、細長い封筒を取り出した。なにもいわず、おれを正面から見ることもないまま、畳の上を滑らせるように、両手の指先を揃えて突き出す。
 封筒のなかには無地の便箋が1枚入っていた。丸みを帯びた特徴のある文字が並んでいるのを見て、愕然とした。息子にあてた三條隆一の手紙だった。
「遺書はないといってなかったか?」
「正式な遺書ではないので……」
 亮太は膝を揃えて正座し、両手の指を重ねて下を向いている。まだ一度も視線が合うことはなかった。
 動揺を抑え、便箋に目を戻した。死の直前に書かれたと見られる手紙には、息子への謝罪が繰り返されていた。このような選択を理解してほしいということ、家族を心から愛しているということ。自身の頼りなさ、父親としての不甲斐なさを悔い、赦しを求めていた。
「父は……」
 掠れた声で、呟くように亮太はいった。
「父はやさしいひとでしたけど、不器用で、要領がよくなくて、店のことも家のことも、母に頼りきりでした。母が病気で亡くなってからは、本当にすごく落ち込んで、仕事も手につかなくなっていました」
 部屋の隅に父親の遺影がさしかけられていることに気づいた。最後に片付けるつもりだったのかもしれない。いかにも頼りなげな、儚い印象の痩せた男が、窪んだ目で昏い眼差しをこちらに向けている。重ねられたもうひとつの遺影は母親のものだろうが、顔は見えなかった。
「父は、母のことをとても愛していました」
 俯いたまま、亮太は話し続けた。
「通夜では母のそばを離れなくて、母に縋りついて、子どもみたいに泣いてました。いっしょに死にたいと何度もいって……」
 伏せられた睫毛が濡れていることに気づいた。涙が溢れ、疲労のためかすこし荒れた頬を滑り落ちる。
 おれはもう一度手紙に目を通した。三條隆一の亡き妻への愛情と伴侶を失った悲しみは、文面から痛いほど伝わってきた。石黒美津夫の名は、一度も出てこなかった。
「石黒さんが店に通うようになって、父は、正直なところ、困っていました。石黒さんの好意を喜ぶというよりは、怖がっていたと思います」
 男に迫られれば、怯えるのは当然だろう。とくに、石黒美津夫は金持ちの権力者で大男だ。無下に扱えば、報復を受ける可能性もある。持て余し、迷惑がる気持ちは理解できた。
「父はゲイというわけでもなかったので、最初のうちは断っていたと思います。でも、父の性格上、強く拒めなくて……」
 自分の父親のことはわかる。石黒美津夫は独占欲が強く、傲慢な男だ。自分の思い通りにならないことには我慢できないだろう。相手にその気がなかったとしても、簡単に引き下がるはずがなかった。
 畳を見つめる亮太の瞳がかすかに揺れる。唇を噛み、絞り出すようにいった。
「店の資金繰りがうまくいかなくなって、父は保険を解約していました。そのあとで腫瘍が見つかって……本当に、途轍もなく高額な治療費の請求があって、費用を支払うために借金を重ねて、もうどうしようもなくなっていました」
 亮太の目から次々と涙が零れ、頬を濡らしていた。右の拳を膝に圧しつけ、左の掌で涙を拭おうとするが、あとからあとから溢れて、止めようがなかった。