「啼き声さえ歌のように」と君が笑うから


 強烈な白色の光が、視界のすべてを暴力的に奪い去っていく。

 網膜を焼き切らんばかりの無数のスポットライト。その光の束は、まるでステージ上の彼を射抜く無数の槍のようだった。
 スタジアム状の会場全体から耳をつんざくような大歓声がうねりとなって押し寄せてくる。
 床板を震わせ、足の裏から内臓へ直接響いてくるベースとドラムの重低音。熱気と興奮が入り混じった、むせ返るような大勢の人間のにおい。

 ここは、彼らが夢にまで見た大型オーディションフェスの決勝ステージだった。ここを勝ち抜き優勝すれば、メジャーデビューが約束されている。

 一瀬歌弥(いちせかや)は、銀色のマイクスタンドを両手で強く握りしめながら、浅く荒い息を繰り返していた。
 酸素が足りない。どれだけ口を開き大量の息を吸い込んでも、極端に気道が狭まっていて肺の奥まで空気が届いていないような錯覚に陥っている。

 喉が、焼け付くように痛かった。

 ただの痛みではない。紙やすりで喉の粘膜を直接削られているかのような、鋭く、暴力的な痛みだ。唾液を飲み込むという簡単なことにすら激痛を伴い、口の中にはすでに薄く血の味が広がっている。
 それでも、歌わなければならない。ここで自分が声を響かせなければ、すべてが水の泡になってしまう。
 その強迫観念だけが、極限状態の歌弥をかろうじてステージに立たせていた。

 伴奏が盛り上がり、曲が一番の見せ場へ差し掛かる。
 歌弥は全身の力を振り絞り、限界を迎えている喉から音を引きずり出そうとした。

 息を深く吸い込む。熱を持った空気が、ひどく痛む声帯を通り抜ける。
 苦痛に顔を歪ませながら声を放とうとした、その瞬間だった。

 プツリ、と。
 歌弥の中で、何かが決定的に切断される音がした。

 それは物理的な断裂音なのか、それとも精神の糸が切れた音だったのかは分からない。
 ただ、マイクを通して会場全体に響き渡るはずだった彼の声は、どこにも届かなかった。

 ひゅっ、という空気が漏れるような情けない音がマイクに乗っただけだった。

 伴奏だけが容赦なく進行していく中、歌弥は必死に音を絞り出そうと口を開閉させた。しかし、どれほど腹に力を入れても、どれほど喉を震わせようとしても、実際に出てくるのは掠れた異音とヒューヒューという、切羽詰まった呼吸音のみ。

 会場を包んでいた熱狂が、みるみるうちに戸惑いへと変化していく。

 ステージ最前で見ている何人かの審査員が、そのうしろで見ている何百もの観客のざわめきが、黒い濁流のようにステージへと押し寄せてくる。嘲笑、落胆。そして、冷ややかな好奇の視線。それらすべてが、縫い付けられたようにその場から動けなくなった歌弥の全身に突き刺さる。視界がぐにゃりと歪む。
 極度のパニックに陥り、過呼吸を引き起こした歌弥は、膝から崩れ落ちそうになった。

 その時、背後から突き刺さった「誰か」の視線。
 氷のように冷酷で、底知れぬ憎悪と失望に満ちたその眼差し。
 誰だったのか、何を言われたのか、記憶は分厚い靄に覆われていてはっきりとは思い出せない。ただ、その視線を受け止めた瞬間、自分の存在価値が粉々に砕け散り、真っ暗な奈落へと落ちていく決定的な絶望感だけが、生々しく魂に刻み込まれている。
 白く飛んだ視界の中で、渦巻く嘲笑と、底冷えのするような冷たい視線だけが、永遠のように歌弥を縛り付け——。

 「はっ……! あ、はあ、はぁ……っ!」

 バクンッ、バクンッと心臓が大きく跳ねる感覚とともに、歌弥はベッドの上で跳ね起きた。
 乱れた呼吸を落ち着かせようとするが、夢に見た過呼吸の余韻が残っており、ヒューヒューと喉が鳴る。全身はひどい寝汗でびっしょりと濡れていて、安物のTシャツが肌にべったりと張り付いていた。

 「……っ、う……、あ……」

 無意識のうちに、両手が自分の首を強く掻き毟っていた。あの日の、喉が焼け焦げるような痛みの幻覚が、今もまだそこに残っているかのようだった。
 震える手で首元をさすりながら、歌弥は暗闇の中で周囲を見回す。

 眩しいスポットライトはない。値踏みするような目をした審査員も、何百という観客もいない。背後から突き刺さる冷酷な視線もない。
 目の前にあるのは、六畳一間の狭くて薄暗いワンルームだけだ。締め切ったカーテンの隙間からは、深夜の静まり返った住宅街にある街灯のオレンジ色の光が、頼りなく差し込んでいる。

 「……また、あのときの夢を……」

 ひどくかすれた頼りない声が、静寂が支配している部屋にポツリと落ちた。

 ベッドからゆっくりと這いだし、小さな冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。キャップを開ける手が微かに震えていた。冷たい水を喉に流し込むと、ようやく「現在」の自分を取り戻したような気がした。

 あの決定的な崩壊の日を境に、歌弥はマイクの前に立つと喉が完全に閉ざされ、過呼吸を引き起こす「心因性失声症」を発症した。
 人前で歌うどころか、大きな声を出すことすら困難になった歌弥は、当然のように音楽の表舞台から姿を消した。
 かつては「奇跡のボーカル」と持て囃されたこともあったが、そんな肩書きは今となってはただの呪いだ。「声」を失った彼に用がある人間など、この世界には誰一人として存在しない。

 歌弥は洗面所の鏡の前に立った。
 そこには、青白くひどく痩せこけた、自分であって自分ではない、見知らぬ青年が立っていた。かつてステージの上で光を浴び、希望に満ち溢れていた少年の面影はどこにもない。前髪は目元を隠すほどに伸びきり、その奥にある瞳には、生きる活力を完全に失った泥のような諦念が沈んでいる。

 今の自分は、何者でもない。ただ息をして、無為に時間を浪費しているだけの、空っぽの抜け殻だ。
 誰の期待にも応えられない。誰の人生も背負えない。もう、背負いたいとも思わない。

 それが、現在の一瀬歌弥という人間のすべてだった。

 ◇

 翌日、歌弥は重い足取りで大学のキャンパスを歩いていた。
 彼が現在通っているのは、首都からそれほど遠くはない場所にある音楽系の大学だ。表舞台から逃げ出したにもかかわらず、完全に音楽を捨てることだけはどうしてもできなかった。未練がましく音楽にしがみついた彼は、裏方である音響・録音科という、最も目立たないポジションを選んで進学したのだった。

 キャンパス内には、絶えず様々な音が溢れている。
 窓を開け放った練習室から聴こえてくる、華やかなソプラノの歌声。中庭のベンチでアコースティックギターをかき鳴らす学生たちの笑い声。最新の機材が揃ったスタジオから漏れ出す、重厚な電子音。

 ここは才能と希望に満ち溢れた若者たちの揺り籠だ。誰もが自分の未来を信じ、自分の「音」を世界に響かせようと躍起になっている。
 その眩しさが、今の歌弥にはただただ痛かった。

 「ねえ、今のテイクどうだった?もうちょっとサビで感情入れたほうがいいかな」
 「うん、悪くないけど、もう少しピッチ安定させたいよね」

 すれ違う学生たちの他愛のない会話すらも、歌弥の胸を鋭くえぐる。

 ——おれはもう、あそこには戻れない。

 下を向き、できるだけ足音を殺して、誰の視界にも入らないようにキャンパスの端を歩く。人と目を合わせるのが怖い。声を掛けられてしまうのではないかという、その1%の可能性すら恐ろしい。
 もし「君はどんな音楽をやっているの?」と聞かれたら、どう答えればいいのだろう。自分にはもう、誰かに聴かせるための音など一つも持っていないのに。

 講義中も、歌弥は常に一番後ろの席の隅に座り、ただノートの端に意味のない幾何学模様を描き続けていた。教授が黒板に書く音響機材の仕組みやマイキングの理論。それを学んだところで、自分の歌声を録音するために使われることは二度とない。

 彼はただ、音楽という巨大なシステムの一部になりすますことで、「自分はまだ音楽の世界に接続されているのだ」という微かな安堵感を得ているだけだった。 まるで、幽霊のようだ。 生きているのに、誰の目にも見えない。声を発しても、誰の耳にも届かない。透明な存在として、ただ時間が過ぎ去っていくのを待っている。

 ◇

 夕暮れ時。
 講義がすべて終わり、キャンパスから見える空は次第に茜色に染まり始めていた。多くの学生たちが、サークル活動や夜のスタジオ練習へと向かう活気に満ちた時間帯だ。
 歌弥は、その流れに逆らうようにして、大学の敷地の最も奥にある、古びたサークル棟へと向かった。

 その建物は大学創立初期に建てられた旧校舎の生き残りで、現在は機材置き場や一部のマイナーなサークルの部室としてしか使われていない場所だった。
 コンクリートの壁はところどころ塗装が剥がれ落ち、廊下の蛍光灯は寿命が近いのか、ジリジリと耳障りな音を立てながら明滅している。カビと埃の匂い、それに長年染み付いたタバコのヤニの匂いが混ざり合った、特有の饐えた空気が漂っていた。 最新の設備が整った新棟とは対照的に、ここにはほとんど人が寄り付かない。それが、歌弥にとってはこの上なく居心地が良かった。

 階段を上がり、三階の最も奥にある部屋の前に立つ。
 『第三防音室』と色褪せたプレートが掲げられたその部屋は、建て付けが悪く、普段は誰も使っていない。
 周囲に人の気配がないことを慎重に確認してから、歌弥は重い鉄製の防音扉の取っ手に手をかけた。ガチャン、と鈍い金属音を立ててラッチが外れる。全体重をかけて分厚い扉を押し開けると、中は四畳半ほどの狭い空間だった。
 窓は厚い防音材で完全に塞がれており、自然光は一切入ってこない。壁には全面に吸音スポンジが貼られていて、部屋に入った瞬間に、耳鳴りがするほどの「無音」が鼓膜を圧迫した。

 バタンと後ろ手で扉を閉める。
 外の雑音が完全に遮断され、絶対的な静寂が歌弥を包み込んだ。

 「……はあ」

 深く、安堵の溜息を吐く。
 誰の目も届かない、誰の耳にも届かない、完全なる密室。
 ここだけが、今の歌弥にとって唯一、呼吸ができる場所だった。他者の期待も、失望の視線も、冷酷な評価も、ここには入ってこない。自分がどれほど無価値な存在であろうと、この密室の暗闇だけは、ただ静かに歌弥のことを匿ってくれる。

 歌弥は防音室の片隅、埃っぽい床の上にぺたりと座り込んだ。
 両膝を抱え、その上に深く顔を沈める。目を閉じると、外の世界の光も音も完全に遮断され、自分自身の心臓の音と、規則的な呼吸音だけが微かに聴こえてきた。

 ——ああ、歌いたい

 誰にも言えない、そして自分自身にさえ認めたくない本音が、心の奥底から泥の泡のようにゆっくりと浮かび上がってくる。
 あれほどの絶望を味わい、歌うことで心も体も壊れてしまったというのに。それでも、「一瀬歌弥」という人間の細胞の隅々には、音楽の記憶がこびりついて離れなかった。

 誰かのために歌うのは、もう絶対に嫌だ。
 誰の期待も背負いたくない。誰の評価も受けたくない。
 でもただ純粋に、音を紡ぎたい。自分の中にある名状しがたいこの悲しみと喪失感を、旋律に乗せて外に吐き出してしまいたい。
 その矛盾した切実な願いが、毎日この夕暮れ時に、彼をこの密室へと駆り立てるのだ。

 歌弥はゆっくりと顔を上げた。
 薄暗い密室の中で、誰の姿もない虚空を見つめる。
 喉の奥が、恐怖で微かに痙攣した。また声が出なかったらどうしよう。あの日のように、ひゅっという情けない音しか出ず、自分の喉が完全に壊れていることを再び思い知らされたら。
 恐怖と葛藤が入り混じる中、歌弥はそっと目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。

 「っ……」

 最初は、音にはならなかった。
 ただの空気の塊が、震える唇の隙間から漏れ出ただけだった。

 「……すぅ、……ふぅ……ぁあ……」

 それでも彼は、諦めずに、何度も何度も息の束を紡ぎ出す。
 かつて自分が一番好きだった曲。誰かに評価されるためではなく、純粋に音楽が楽しくて仕方がなかった頃によく口ずさんでいた、海外の古いインディーズバンドのバラード曲。
 頭の中で完璧なメロディを思い描きながら、歌弥は声帯を微かに震わせた。

 「……ぁ、……んん……」

 それは、掠れた、ひどく弱々しいハミングだった。
 かつて「奇跡」と称された、ガラスのように透明で、どこまでも伸びていく圧倒的なまでの美しさはない。今の歌弥の声帯から発せられるのは、傷だらけで、所々でピッチが揺れる、不完全極まりない音の欠片だ。
 しかし、その震えるハミングには、言葉では表現しきれないほどの深い悲哀と、それゆえの切実な美しさが宿っていた。

 「……んん、……ぁ、……あぁー……」

 少しずつ、ほんの少しずつ、音の輪郭がはっきりとしてくる。
 歌弥のハミングは、まるで凍りついた小川の底を流れる水のように、静かに、しかし確かな熱を帯びて防音室の冷たい空気を震わせていく。

 目を閉じた歌弥の脳裏に、かつての記憶が蘇る。
 初めてマイクを握った日の震えるような感動。バンドメンバーと朝まで音楽について語り明かしたあの眩しかった日々。自分の歌声に涙を流してくれた観客の顔。
 そして、それらが一瞬にして失われた、光の中の暗闇。

 あの日に失ってしまったもののあまりの大きさに、歌弥の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
 ツーッ、と頬を伝う温かい雫を感じながら、それでも彼は音を紡ぐことを止めなかった。止められなかった。
 今は、この音だけが自分を自分たらしめている唯一の証明だったからだ。

 「……あー、……んん、……ぁあ……」

 誰もいない密室。吸音材に囲まれた、音が反響することすらない死んだ空間。
 そこで奏でられる歌弥のハミングは、誰かに届くことのない、自分自身のためだけの密やかなレクイエムだった。
 自分の才能の死を悼み、かつての栄光を葬り去るための、痛ましくも美しい葬送曲。

 歌弥は祈るように両手を胸の前で固く組み、全身を微かに揺らしながらハミングを続けた。
 声帯の奥にある古傷が疼くたびに、音が掠れ、切なげな吐息が混ざる。その不完全なノイズすらもが、今の彼のむき出しの感情そのものだった。

 ——これでいい。おれはもう、ここでこうして独りで音を鳴らしていければ、それだけで……

 自分はノイズの中に埋もれたまま、誰にも見つかることなく消えていくのだ。という、その絶望的な安堵感に浸りながら、歌弥はさらに深く、自分の内面世界へと沈んでいった。
 外界との繋がりを完全に断ち切り、ただひたすらに、己の孤独と向き合うための旋律。

 歌弥が口ずさんでいる曲は、コード進行が非常にシンプルでありながらも、メロディラインの起伏が激しいものだった。かつて彼がこの曲を歌ったときは、その圧倒的な声量と突き抜けるようなハイトーンで空間を支配したものだ。だが今の彼は、その高音域を出すことができない。喉が恐怖を記憶しており、一定以上の音程に差し掛かろうとすると、無意識のうちに喉仏周辺の筋肉が硬直し、声帯が閉じてしまうのだ。

 だから彼は、メロディを自分の中で再構築し、本来のキーよりもずっと低い、くぐもった音域でハミングを続けていた。

 それはまるで、鳥籠の中で羽をもがれた小鳥が、かつて飛んでいた大空を思い出しながら、地を這うように鳴いている姿に似ていた。

 「……ん、ぁ……」

 ふいに、ピッチが大きく外れた。
 喉の奥にチクリとした痛みが走り、空気が不自然に漏れる。
 歌弥はハミングをピタリと止め、肩で大きく息をした。

 「……っ、はっ、ぁあ……」

 暗闇の中で、自分の不甲斐なさにギリッと唇を噛む。
 たかがハミングでさえ、最後まで完璧に歌いきることができない。自分の体は、本当に「楽器」としては完全に壊れてしまったのだと、冷酷な現実が容赦なく突きつけられる。
 それでも。
 それでも、音を紡ぎたいという魂の飢餓感は、消えることがない。

 歌弥は震える手で目元を乱暴に拭い、再び息を吸い込んだ。
 今度は別の曲だ。自分が初めて作詞を手がけた、名前もない短いフレーズ。
 言葉に出すことはできない。歌詞を音に乗せようとすると、途端にあの過去の記憶がフラッシュバックして、呼吸ができなくなるからだ。

 だから、母音だけで。

 「あー……、……ぉお……」

 祈るように。許しを乞うように。
 防音室の澱んだ空気の中に、再び彼の弱々しい音が溶け込んでいく。
 その音は、完璧に計算された商業的な音楽とは対極にあるものだった。ピッチ補正も、リバーブも、イコライジングもされていない。ただ一人の人間が、極限の孤独と悲しみの中で、自分自身の存在を確かめるためだけに絞り出している、生身の感情の塊だった。

 もし、今のこの掠れた音を、かつてのファンや関係者が聴いたとしたら、彼らは間違いなく落胆の声を上げるだろう。「あの才能に溢れていたボーカルが、こんな無惨な姿になってしまったのか」と。

 だが、その「無惨さ」の中にこそ、剥き出しの命の美しさがあることに、歌弥自身は気づいていない。

 傷つき壊れ、それでもなお音楽を求めて泥を這いずり回る人間の、血の通った音。
 それは、完璧な音楽だけを追求し続け、すべてにおいて計算し尽くされた「美しいだけの虚構」に退屈しきっていた、ある一人の天才トラックメイカーにとって、まさに喉から手が出るほど欲しかった「至高のノイズ」だった。

 歌弥は両手で顔を覆いながら、さらに深くハミングの世界へと没入していく。

 自分の世界へ完全に入り込んでいた歌弥は気付いていなかった。
 この絶対の密室であるはずの防音室の扉の向こう側に、一人の男が立っていることに。
 古びた扉のわずかな隙間から漏れ出したその傷だらけのハミングが、狂気的な執着を抱えた「天才」の耳に、すでに届いてしまっていることに。

 夕闇は深さを増し、大学のキャンパスは完全に夜の静寂へと沈んでいく。
 防音室の中では、ただ独り、声をなくした鳥が、血を吐くような美しい啼き声を上げ続けていた。
 それが、これから始まる逃れられない愛と執着の呪縛のすべての始まりの合図だとは知る由もなく。

 歌弥が紡ぐ悲哀のメロディは、冷たいコンクリートの壁を抜けて運命の歯車を静かに、しかし確実に回し始めていた。終わらない悪夢から逃れるために、現実という名の密室で息を潜める声なき歌い手は、今日も孤独なハミングを紡ぎ続ける。

 その音のすべてを貪り喰らおうとする、漆黒の獣の足音がすぐそこまで迫っているとも知らずに。