「何を言っておるのだ、フロリアン。リュミエールがそなたの婚約者なのは、すでに決まっていたことではないか」
兄上が突如としてリュミエールとの婚約破棄を口にしたのを受け、父上は呆れたように言い放った。
その声音に込められていたのは、叱責というよりも、「何を馬鹿なことを」と言いたげな困惑だった。
だが、その態度を意に介することもなく、兄上は胸を張り、堂々と話を続けた。
「俺が真実の愛に目覚めたからです。さあ、アデリーヌ。俺の新しい婚約者として挨拶しろ」
兄上の背後でおどおどと身を縮めていたアデリーヌ嬢が、名を呼ばれた瞬間、びくりと肩を揺らす。
そして慌てて、押し出されるように前へ出た。
本来ならばまず淑女の礼を取るべき場面だ。
しかし彼女はカーテシーもせず、頭を高く上げた状態で、勢いのまま声を張り上げる。
「あ、わ、わたし、アデリーヌと申します! いまはフロリアン殿下のご寵愛をいただき、と、とても幸せです!」
礼儀も整っていない自己紹介に、父上と母上の表情はみるみる険しさを増していった。
場の空気が、一段と重く沈む。
そして二人は、兄上たちが何を言い出しているのか理解できないというように、私へと視線を向けた。
それは助けを求めるような目だった。
「……フェリオン。最初から説明してくれんか」
私は内心で小さく息を吐いた。
仕方なく、兄上が婚約破棄を宣言したこと。
リュミエールを罪人として追放したこと。
そして彼女がこの場へ戻ってきた経緯を、順を追って説明した。
自信満々に腕を組む兄上。
状況を理解できていないまま、場違いなほどにこにこと笑っているアデリーヌ嬢。
それを、信じがたいものを見るような眼差しで見つめる父上と母上。
――分かりますよ。
私も前の人生で、まったく同じ顔をしていましたから。
「馬鹿な……! 婚約を勝手に破棄など、できるわけがないだろう! ――リュミエール、追放などと、すまないことをした」
一連の事情を察した父上が、思わず声を荒らげる。
普段は冷静なその人が、ここまで感情を露わにするのは珍しい。
それだけ、この事態の深刻さを嫌でも思い知らされる。
父上に謝罪されたリュミエールは、表情こそ変えないまま、それでもどこか微笑むような空気をまとい、深く頷いた。
父上の胸中には、まだ言葉にならない怒りや叱責が渦巻いているのが見て取れた。
それでも、それらを外へ吐き出すことなく、ぐっと内側へ押しとどめているようだった。
そのせいか、握りしめた拳がわずかに震えている。
抑え込まれた感情が、行き場を失って滲み出ているかのようだった。
その様子に気づくこともなく、兄上は自慢げに語る。
「父上、謝る必要などありません。リュミエールには罪があるのです。フェリオン、お前からも言ってやれ」
「ありませんよ」
「ははは、聞いたか、リュミエールよ。だからお前は追放され――――なんと言った?」
「リュミエール嬢に、罪など一つもありません」
私があくまで変わらぬ調子で淡々と告げると、兄上の顔色がみるみるうちに変わっていった。
思い通りの返答が得られず、よほど癪に障ったのだろう。
苛立ちを隠そうともせず、ついにはそれを露骨に滲ませ始める。
やがて兄上は、感情のやり場を失ったかのように床へ何度も足を叩きつけ、堪えきれずに私へと怒鳴りつけた。
「何を言い出す! あれほどの罪があっただろう! ほら、書類を見せろ!」
「どうぞ」
リュミエールを王城へ連れてきた時点で、兄上が何か言い出すことは予想していた。
だからこそ、こんな事態もあろうかと、ここへ来る前に自室へ立ち寄り、関連書類をすべて持ち出してきている。
私はそれを静かに父上と母上へ差し出した。
二人が書類に目を通すあいだ、リュミエールは無表情のまま静かに立っている。対照的に、兄上は勝利を確信しているかのように腕を組み、顎を上げた。
リュミエールはいつもと変わらぬ無表情に見える。
だが、私には分かる。
あの顔は、兄上に呆れている顔だ。
彼女は決して無表情なのではない。
ただ、分かりにくいだけで、実は表情豊かなのだ。
その機微が、最近になってようやく分かるようになってきた。
たぶん、分かるのは私だけだ。
それが、なんだか嬉しい。
気づけば、口元にわずかな笑みが浮かんでいた。
そんなふうに私が彼女ばかりを見ているうちに、書類を読み終えた父上たちが、揃って呆気にとられた表情を浮かべる。
「これは……すべて無効の書類ではないか」
「……は?」
兄上が、間の抜けた声を漏らし、私を見る。
私はその視線を正面から受け止め、抑揚のない声で説明する。
「なぜか、すべての書類に致命的な不備がありまして。この内容では、いかなる刑も執行できません」
その言葉を聞いた瞬間、兄上の身体が小刻みに震え出す。
怒りが一気に噴き上がったのだろう。
目は吊り上がり、握りしめた拳は今にも私へ殴りかかってきそうなほど力がこもっている。
だが今は父上の目の前だ。
兄上にもなけなしの理性が働いたらしい。
荒い息を吐きながら、かろうじて自制している。
その一方で、書類の無効を聞いたリュミエールが、ほんのわずかに空気を緩め、私に向かって語りかける。
「では……わたくしは無罪、ということですのね」
「ええ。婚約も、今のところ正式には破棄されていません。あなたはまだ兄上の婚約者です。兄上と離されることはありませんのでご安心ください」
あくまで穏やかに返した私の言葉。
だがその瞬間、彼女の纏う空気が、先ほどまでの柔らかさから、どこか棘を帯びたものへと変わった気がした。
背筋に、ひやりとした冷たいものが走る。
……私は、何か間違えただろうか。
「ちょっと! どういうことよ!」
それまでか弱く震えていたアデリーヌ嬢が、突然、別人のように表情を歪めた。
そして小柄な身体とは思えない力強さで兄上へ掴みかかる。
「アデリーヌが婚約者になって、次のお妃様になるんじゃなかったの!? あんたと結ばれれば贅沢三昧だって言うから、我慢して尽くしたのに!」
それを聞いた兄上の怒りの矛先が、私からアデリーヌへと移る。
「なっ……! お前、そんなつもりだったのか!」
「当たり前じゃない! でなきゃ、あんたみたいな傲慢で馬鹿で偉そうな奴に媚びないわよ!」
あまりにも醜悪な光景だった。
アデリーヌ嬢の豹変ぶりに、リュミエールを除く全員が言葉を失う。
いかに兄上が目を覆いたくなる有様でも、この国の第一王子だ。
伯爵令嬢が口にしてよい言葉では、到底ない。
そういえば、偽の書類を作成する際にアデリーヌ嬢の素性も確認していた。
元は下町出身の町娘。最近になって伯爵家の血筋だと判明し、迎え入れられたと。
なるほど。
下町育ちの彼女に、兄上は見事なまでに転がされていたわけだ。
「父上! 俺は騙された! クソが! 全員、俺の財産目当てだ!」
兄上はアデリーヌ嬢を乱暴に突き飛ばし、苛立ちに任せて髪を掻きむしった。
自分こそが被害者であると、子どものように喚き散らす。
だが父上も無能ではない。
兄上の言動の端々に滲む不自然さに、すでに気づいていたのだろう。
そしてついに、静かに、しかし逃げ道を塞ぐ問いを口にした。
「財産といえば……足元にある、その鞄に詰まっているものは、何だ?」
憤慨していた兄上が、目に見えるほどにビクリと体を震わす。
そして、兄上の顔から、見る間に血の気が引いていく。
赤みが消え、青ざめ、やがて土気色へと変わる。
視線は泳ぎ、口は意味のない言葉を探すように動くだけだ。
そこへ父上が、さらに追い打ちをかける。
「アデリーヌという娘の足元にも、同じような袋が見えるが……」
今度はアデリーヌ嬢の顔色が変わった。
青を通り越し、白く塗り潰されたような顔になる。
そして兄上よりも先に言い訳をした者勝ちと言わんばかりに、早口でまくし立てた。
「こ、これは……アデリーヌはダメって言ったんですよ? なのにフロリアン殿下が、魔物に襲われた王城に価値はないから宝を持って逃げようと――。アデリーヌは逆らえず、仕方なく袋に詰めただけなんです!」
「はあ!? 最初にお前が、今のうちに宝物庫の宝を持って逃げたほうがいいって言ったんじゃないか!」
互いに責任を押し付け合い、醜く罵り合う二人の様子に、父上の肩が怒りを抑えきれずに、震え始めた。
怒鳴るのではなく、あえて押し殺した声で兄上へ語りかける。
「以前から、お前が問題を起こしているのを見過ごしてきた。だがそのうち、王太子としての自覚も芽生えるだろうと期待していた」
その言葉を聞いた兄上は、ぱっと顔を明るくする。
自分に都合の良い部分だけを拾い上げ、誤った解釈をするのは昔からだ。
「話がわかっているではないか、父上! そうだ、私は王太子! いずれあなたの後を継ぐ偉大な王子!」
母上が沈痛な面持ちでまぶたを閉じる。
これまで幾度となく、さりげなく庇ってきたのだろう。
だが、もはや限界だと悟ったに違いない。
やがて父上が、腹の底から絞り出すような低い声で告げた。
「……第一王子フロリアン。本日をもって、王位継承権を剥奪する」
兄上の時間が止まった。
耳に届いた言葉を理解できず、魂が抜け落ちたように立ち尽くす。
自分が断罪される側になるなど、想像すらしていなかったのだろう。
堪忍袋の緒が完全に切れた父上は、さらに続ける。
「リュミエールとの婚約破棄を正式に受理する。そのうえで、ロウヒル領の統治を命ずる」
ロウヒル領。
あの魔物たちとの緩衝地帯に近い土地だ。
我々息子に極めて甘い父上にしては、厳しい決断である。
それほどまでに、今回の件が看過できぬものだったということだ。
――いや、おそらく今回だけではない。
積み重ねた愚行の果てに、ついに裁きが下ったのだ。
「アデリーヌは国宝強奪未遂の罪により追放とする。教育を怠った伯爵家は爵位剥奪、財産没収だ」
断罪する側だと思っていた二人が、断罪を叩きつけられる。
その瞬間、部屋を切り裂くような甲高い悲鳴が、長く響き渡った。
宝物庫の中身を持ち出そうとしたことは、さすがの父上でも庇いきれないのだろう。
それでも兄上は気づいていない。
ロウヒル領を統治せよという命は、追放ではない。
功績を挙げれば、再び中央へ戻る道が残されている。
――甘い、とも言える。
だがそれが、情に厚く、息子たちに甘く、しかし非情にはなれない父上という人だ。
けれど、やるときはやる。
決断に迷いはない。
国を運営する手腕は確かなのだ。
私は、そんな強くて優しい父上を心から尊敬している。
私たち家族の問題が一段落したのを見届けたあと、リュミエールが私へ歩み寄る。
「わたくし、正式に婚約破棄されましたのね」
「ええ……結果としては」
彼女の口元が、ほんのわずかに緩む。
他の者には分からなくとも、私には分かる。
それは確かに、微笑みだった。
心から安堵している微笑み。
「でしたら、安心ですわね」
彼女は小さく息を吐いた。
そうだ。もう彼女に冤罪を着せる者はいない。
これでようやく、穏やかな日々が訪れる。
そう思うと、私の胸にも温かい感情が満ちていく。
「そうですね。もう、誰もあなたを追放することは――」
「でしたら、フェリオン殿下。父に会ってくださいませ」
彼女が、珍しく切実な色を帯びた目で、私を見つめる。
無表情のままだが、私には分かる。必死なのだ。
――侯爵、か。
彼女と侯爵との間に、まだ解けていない問題が残っていたことを思い出す。
それが解決しなければ、彼女に本当の意味での安泰は訪れない。
「分かりました。お受けいたします。では、日を改めて――」
そう告げた瞬間。
彼女は――私にしか分からないと思うが――これまでとは比べものにならないほどの微笑みを浮かべていた。
「受けてくださって、嬉しいですわ。今すぐ参りましょう」
急な提案に、私はわずかに目を瞬く。
だがそれほどまでに、侯爵との和解が彼女にとって重要なのだろう。
そして、二人の事情を知る私以外に、この問題を解ける者はいない。
「そんなに急がなくとも。私が必ず、侯爵にあなたのことを――」
「嬉しいですわ。わたくし、あなたと婚約できるのね」
私の時間が、止まった。
――――なんだって?
無表情のまま、しかし心から嬉しそうに紡がれたその言葉に、
私と、父上と母上の思考は、完全に停止した。



