滅びを知る王子は、追放された令嬢を救うため二度目の人生をやり直す


「フェリオン! 今までどこで油を売っていた!」

 城へ向かう途中でも、「聖女様」という声が、残響のように何度も耳に届いていた。
 そのざわめきを背に受けながら、私たちは足早に王城へと向かった。

 崩れた壁、砕けた石畳。
 かつて威厳を誇った王城は、無残な傷跡をその身に刻まれており、破壊の痕は生々しく、白い砂塵がなお風に舞っている。

 その城内へ足を踏み入れ、最奥――ひときわ堅牢な中央の部屋に入ったその瞬間、兄上の怒声が真正面から叩きつけられた。

 腕を組み、苛立ちを隠そうともせずに足を鳴らしながら、兄上は私を睨みつけていた。
 その視線は怒りというより、思い通りにならぬ玩具へ向けるような、不機嫌さに近い。

 その兄上の態度に、つい先ほどまでリュミエールのことを思い返していた気持ちが、一瞬で台無しになる。
 あの冷えた瞳。感情を見せない無表情。
 ――それでも、わずかに恥じらいを滲ませながら、やわらかく微笑んだあの一瞬。

 胸の奥に残っていた温もりが、兄上のその態度ひとつで、容赦なくかき消される。
 満ちていたはずの心は、一瞬で砂漠のように乾き、荒れていく。

 ふと、足元に置かれた宝物を詰め込んだままの袋が視界に入る。

 ――やはり、か。

 前の人生で覚えた、あの底の見えない不気味さが、胃の奥からじわりと込み上げてくる。

 あのときと、何一つ変わっていない。

 だが私は、意識的に視線を逸らした。

 何も見ていないという素振りを装う。
 胸の奥に渦巻く嫌悪を押し殺し、感情を凍らせるように封じ込める。

 そして、無表情のまま兄上へと向き直った。

「街で、魔物の討伐にあたっておりました」

「愚か者め。優先順位も分からんのか。お前の役目は、俺を守ることだろう」

「そうですわ! フロリアン殿下と、わたくしアデリーヌに危険が及ばぬよう、あなたがいるのではなくて?」

 兄上の隣で、同じように宝物袋を足元に置いたアデリーヌ令嬢が、甲高い声を張り上げる。
 その様子は、まるで気性の荒い子犬が威嚇しているかのようだ。

 二人を見た瞬間、胸の奥に黒いものが広がる。

 民の命など眼中にない。
 その態度は、吐き気を催すほど不快だった。

 なぜ父上は、この兄を王太子に据えたのだろう。

 我々息子に甘い父上のことだ。
 王太子という立場に就けば、責任感が芽生えると期待したのかもしれない。
 だが、その期待は空回りしている。

「フロリアン殿下はともかく、フェリオン殿下があなたまで守る義理はありませんわよ。アデリーヌ様」

 静かに、しかしはっきりとした声が背後から響く。

 リュミエールだ。

 つい先ほどの光景が脳裏をよぎる。
 王城に足を踏み入れたとき、彼女はふと足を止め、周囲の魔物の気配を探るように視線を巡らせてから言った。

「まだ何体か、人を食らおうと意地汚く残っていますわね。これでは王様やお妃様が戻られたときに危険ですわ」
 
 そう言い残すと、彼女はすぐに城内へと消えていったのだ。

 戻ってきたということは、王城の魔物はすべていなくなったのだろう。
 
 背後へと意識を向け、思わず口元が緩む。
 やはり彼女は、すごい。

 その彼女の姿を認めた兄上が、目を見開き、震える指先を突きつける。
 アデリーヌもそれに続いた。

「なっ……! リュミエール! お前は追放したはずだぞ!」

「そ、そうですわ! どうして王城にいるの!? それに、アデリーヌはフロリアン殿下の婚約者よ! 婚約破棄されたあなたとは違って、いずれ妃となるわたくしを守るのは当然でしょう!」

 アデリーヌは彼女に向かって吠えたが、リュミエールに一瞥された途端、「ひっ」と小さく声を漏らし、兄上の背後へ隠れる。

 無表情だが、見下ろすような静かな圧が周りに落ちる。

「確かに、わたくしはフロリアン殿下より婚約破棄を宣言されましたわ。ですが、まだ正式な手続きを経ておりません。現時点では、わたくしが正規の婚約者であり、あなたは単なる伯爵令嬢ですわ」

 その言葉を聞き、兄上が鼻を鳴らして勝ち誇ったように噛みつく。

「笑わせるな。お前はすでに正式に婚約破棄されている。フェリオンが、きちんと手続きを済ませたからな」

 相手が言い返せないと確信しているのか、下卑た笑みを浮かべながら言い放つ。

 あまりにも自信のある兄上の様子に、リュミエールは私に尋ねた。

「あら……フェリオン殿下。それは、本当ですの?」

「あー、それは……」

 私が答えようとした瞬間、自分を無視して彼女に話を振られたことが、気に入らない兄上が怒鳴った。

「お前はロウヒル領へ追放したはずだ! 勝手に王都へ戻るとは何事だ! 衛兵! この女を連れ出せ! ロウヒル領まで護送しろ!」

「待て、お前たち。今私が説明する。あー、……その、兄上。その件ですが……ええとですね……」

 彼女を王都へ連れ戻し、魔物を退けることに成功した。
 だが、その後のことまでは考えが及んでいなかった。

 すべては、彼女のおかげだ。
 前の人生を知る私には、それが痛いほど分かっている。

 だが兄上たちにとっては違う。
 王都はまた“奇跡”によって救われた――そう思っているだろう。
 奇跡など、存在しないというのに。

 何より、彼女が魔物であるという事実は、決して知られてはならない。
 ひとたび露見すれば、兄上をはじめ人々は、それを口実に彼女を糾弾し、容赦なく迫害するだろう。
 それどころか――今度こそ、彼女の命が守られる保証はどこにもない。

 たとえこれまでの功績を伝えたところで、兄上が理解することはない。

 ――つまり私は今、かなりの窮地に立たされている。

 彼女の正体を伏せたまま、皆を納得させる説明を用意しなければならないのだから。

 背中に冷たい汗が流れる。
 だが同時に、思考は猛烈な勢いで回転していた。

 そんな考え込む私の態度が気に入らなかったのだろう。
 兄上は眉間に深く皺を刻み、抑えきれぬ不機嫌をそのままぶつけるように、声を荒げた。

「まったく、お前は使えんな、フェリオン! もういい。侯爵を呼んでこい。すぐ来なければ、息子に爵位を与えんと言え――」

 そのとき、隣のリュミエールが、ほんのわずかに苛立ちを滲ませたことに、私は気づいた。

 これはまずい。
 せっかく王都周辺の魔物は数を減らしたというのに、この場には、それよりよほど厄介な問題が発生しかけている。

 個人的には、兄上がその最初の犠牲者になるのも因果応報だと思わなくもない。むしろ少し見てみたい気すらする。
 だが、この場には私以外の目がある。彼女が本気を出すような惨事が起きれば誤魔化せるはずもない。

 早急に対処しなければならない。
 兄上が納得するような、もっともらしい偽の情報をでっち上げて、この場を収めなければ。

 そんなことを逡巡していると、突然、後ろの王の間の扉が勢いよく開いた。

 ひげを蓄えた恰幅のいい初老の男性――父上と、優しげな母上が勢いよく入ってくる。
 その後ろから、王と王妃を守る近衛兵たちも、魔物の襲撃に備え、臨戦態勢を取りながら後に続いてきた。
 
「お前たち、無事だったのか」
「あなたたち、怪我はないのね」

 二人は室内を見回し、王子たちの姿を見つけると、目に見えて肩の力を抜いた。
 安堵の息を漏らしながら、母上は私たちのもとへと駆け寄り、迷いなく腕を伸ばして強く抱きしめる。

 胸元に押し当てられた温もりが、張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。
 そのぬくもりに触れ、私もようやく、心の底から安堵の息を吐いた。

「父上、母上。お二人こそ、ご無事でしたか」

 焦燥で固くなっていた胸の奥が、ようやくほどけ、詰めていた息が静かに外へと流れ出た。

「魔物が王城に入ってきたとき、中庭を散歩していてね。そのまま侍女たちと温室に隠れていたのよ」

 母上は抱きしめていた私たちを解放しながら、涙を滲ませながら告げる。
 
 中庭の温室は、王城から少し離れた場所にある。
 だから前の人生でも、母上の姿を見なかったのか。

 ――もしかすると、あのときも母上は生きていたのかもしれない。

 前の人生のことを思い返し、ほんのわずかな救いが、胸に灯った。

 だが、その安堵の余韻に浸る間もなく、父上は周囲の惨状へと視線を巡らせる。
 荒れ果てた室内を一通り見渡したあと、何か腑に落ちない様子で眉をひそめ、私たちの近くへと歩み寄ってきた。

「私は外交に出ていた隣国で、緊急の報せを受け、急ぎ戻ったが……王城も王都も、かなり破壊されているな。だが、魔物の死体はあれど、生き残りが見当たらん。魔物たちはどうした?」

 その父上の問いに、兄上は床を踏み鳴らして人の視線を集めると、さも当然のように親指を自分へ向けた。
 その表情には、根拠のない自信だけが、ありありと浮かんでいる。

「父上、やつらは高貴な俺を見て逃げ出したのですよ! 俺には神の加護がありますから!」

 そんな話は、初耳だ。
 
「……そうなのか、フェリオン」

 そんなこと、聞かれても困る。

「魔物が逃げていくのは、わたくしも見ましたわ。王都はひとまず安泰です」

「おお、リュミエール、そなたも無事だったか。怪我がなくて何よりだ」

 私の表情を察したのか、リュミエールが淡々と補足する。

 なんと気の回る人なのだろう。
 思わず感心が込み上げる。
 
 これまで私の周囲に、ここまで有能な人物がいただろうか。
 兄上の婚約者でなければ、いっそ自分の側に引き抜きたいとさえ思ってしまう。

 ――兄上の、婚約者。

 その言葉が胸の内で静かに反響した瞬間、わずかな違和感が広がる。
 これまで何の感情も抱かなかったはずの言葉なのに、なぜか胸の奥が、わずかにざわついた。

 だが、今はそれどころではない。

 父上が帰還したのだ。魔物がいなくなった現状について、納得のいく説明をしなければならない。
 果たして、ここにいるすべての者を納得させられる説明など、本当に用意できるのだろうか――。

「にしても、なぜ魔物は撤退したのだ? 街ではなにやら国民が騒いでいたが、何か関係があるのか――」

 父上のその言葉を聞いた瞬間、つい先ほど目にした光景が、脳裏に鮮やかによみがえった。
 
 混乱の中で耳にした声、群衆のざわめき、そして天から舞い降りたかのような彼女の姿が、次々と脳裏を駆け巡った。

 どう答えるべきか、思考が息つく暇もなく回転していた私の口から、自然と言葉が出てきた。

「……街では、聖女が現れ、魔物を外へ追いやったと噂されています」

 その言葉に父上が目を丸くする。
 
「聖女だと? あのおとぎ話に出てくる聖女伝説の聖女か? そんな話は聞いたことないが……それはまことなのか? ならば、これまでも我が国は聖女に守られていたということか」

 ――そういうことにするしかない。

 なぜなら、彼女の正体を明かせない以上、すべては“聖女”の力によるものにするしかない。
 幸い、彼女が空から降り立つ姿を民が見ており、勝手に聖女と勘違いしてくれた。
 これを使わない手はない。
 
「その聖女はいまどこに――」

 父上は周囲の状況を一瞬で見渡し、即座に行動を決めたかのように、聖女を探すべく来た道へと歩みを向けた。

 その背中に向かって、兄上が声を張り上げて呼び止める。
 
「それより父上! 聞いてください! この女、リュミエールが侵した大罪を!」

 先ほど、父上と自分の会話に彼女が割って入ったことがよほど気に入らなかったのだろう。
 彼女に恥をかかせるため、わざと人目を集めるように声を張り上げて父上に訴えた。

「この女は、すでに私の婚約者ではないというのに、堂々と王城に出入りしているのです! 父上からも追放を言い渡してください!」

 兄上の言葉に、父上と母上は揃って目を瞬かせた。

「リュミエールが婚約者ではない――?」