放課後、チューニング不安定な俺たち

 季節はじめじめとした六月に入った。梅雨の始まりを告げる湿った空気が、校舎全体を重く包み込んでいる。俺たち軽音部は一番大きなイベントを終えて、次の目標である夏のライブに向けた、少し気の抜けた空白期間に入っていた。三年生の先輩たちはここで引退。ちょっと寂しいけれど、これからは俺たち二年が中心になって部活動を回していかなきゃいけない。佐野は、まあ誰が見ても納得の圧倒的カリスマ感で、すんなりと新部長に就任した。で、問題は俺だ。

(なんで俺が『副部長』になってんの!?)

 ただの記録係マスコット的立ち位置だったはずなのに、なんと新部長様のご指名により、俺は副部長という大役に引っ張り上げられてしまったのだ。ポンコツ副部長爆誕の危機である。兼部している写真部の方は秋に開催される某フィルム写真コンテストの学生部門に、各自が新たな題材を捜しに入るところだった。

 俺は……コンテスト用にも、出来れば佐野を撮りたい。一番撮りたいと思っているのは誰にも見せない表情なんだけれど、今考えているのはステージ上から佐野がギターを鳴らしている背中を撮ってみたい。彼が見ている世界っていうの?ライトを浴びてたぶん逆光で客席は見えないと思う。光の中に浮かぶ輪郭を撮ってみたいんだよね。

「瀬戸、ちょっといい?」

 放課後、帰る準備をしていた俺を、佐野が呼び止めた。

「旧体育館の裏にある備品倉庫、次のライブに向けて機材の確認をしておきたいんだけど。一緒に来てくれるか。リスト作りながら記録してほしい」

「今日?」

「今日。他のやつらは委員会の集まりとかで残ってないから」

(なるほど、これが副部長の初仕事……!)

 外はすでに、シトシトと雨が降り始めていた。俺たちはそれぞれ傘を差し、校舎の一番端にある旧体育館へと向かう。旧体育館は現在ほとんど使われておらず、軽音部や演劇部が備品を置くための倉庫として一部が使われているだけだ。建物自体が古く、雨の日はトタン屋根がパラパラと雨音を大きく増幅させる。

「機材のリスト、俺が言うから書き留めてくれ」

「分かった」

 俺は鞄から、あの『黒いノート』を開いた。先日紛失して寿命が縮んだアレだ。中身は見られていないと信じたいが、開くたびに少し胃が痛い。観察日記ではあるものの、手のひらサイズのノートは、一応手帳的な役割も果たしている。

 佐野が薄暗い倉庫の棚を確認しながら、マイクスタンドの数、シールドケーブルの種類、予備のアンプの型番を読み上げる。俺はそれをメモしながら、同時に周囲をぐるりと観察していた。薄暗い倉庫の中。高い位置にある泥汚れのついた窓から、雨の日のぼんやりとした青白い光が差し込み、棚の楽器ケースを静かに照らしている。古い埃の匂い。アンプのゴムと、錆びかけた金属の匂い。

(……きれいな場所じゃないけど、なんか好きだな)

 密室に響く雨音と、佐野の低い声。その空間の心地よさに、俺は思わず首から下げていたコンパクトカメラの電源を入れた。

「撮ってもいい? コンテストに向けて考えている光のイメージに、ちょっと似てて……あ、ただの記録だから!」

「……勝手にしろ」

 佐野が棚を確認しながら、背を向けたまま答える。俺は静かにシャッターを切った。棚に無造作に積まれたケーブルの束。古いスピーカーの錆びた金具。そして――棚を確認しながら、真剣な横顔で何かをメモしている佐野の後ろ姿。

「こんなに薄暗くても、撮れんの?」

 背後で鳴ったシャッター音に気づき、佐野が言った。

「うん、シャッタースピード遅くしたり、露光気を付けたり。でも、あえて光と影のコントラスト狙うのもいいかな」

「良くわかんねえけど、ちゃんと写真部もやってんのな」

「それって、褒めてる?」

「……どうだろ」

 佐野がゆっくりと振り返り、俺を見た。仄暗さの中で視線が静かに絡み合った。

(うわ、ヤバい。見つめられると心拍数跳ね上がるからやめて……っ)

 機材の確認を終えかけた頃、外の雨足が急に強くなった。トタン屋根に叩きつける激しい雨音が倉庫内に響き渡り、遠くで低い雷鳴が轟いた。

「あー、帰るの大変そうだな」

 佐野が天井を見上げながら呟いた。その瞬間、背後で「ガタンッ!」と重鈍な音がした。振り返ると、換気のために開けっ放しにしていた分厚い鉄の扉が、突風に煽られて完全に閉まっていた。俺は慌てて扉へ向かい、錆びたドアノブを回した。ガシャガシャと音は鳴るが、びくともしない。

「開かない……嘘だろ」

「……立て付けが悪いんだよ。老朽化してるから、内側から勢いよく閉まるとストッパーが引っかかることがある」

「外からしか開かないの!?」

「奥に非常口があったはずだけど」

 佐野がスマートフォンのライトをつけて倉庫の奥を確認する。確かに非常口のドアはあったが、その前には使われなくなった跳び箱や大量のパイプ椅子、重いアンプのケースが山のように積まれており、すぐには開けられない状態だった。

「部活のグループLINEに助け呼ぶか」

「げ……電波、入らない。圏外だ」

「こっちも弱すぎる。鉄筋の隅だからか?」

 二人でしばらく、暗い画面を見つめ合った。

(ちょ、待って!? 密室!? 雨の日の倉庫で二人きりで密室!? シチュエーションが神がかりすぎてて、俺の情緒が保たない!)

 外の雨はさらに勢いを増しており、仮に今ここを出られたとしても、傘がどこまで役に立つか分からないような土砂降りだ。佐野が、ふぅと短くため息をついた。

「雨が弱まれば見回りの先生か用務員が通るかもしれないし、最悪、気合で非常口の荷物をどかせば出られる」

「……ごめん、俺がちゃんと扉にストッパー噛ませておけばよかった」

「俺が気づくべきだった。気にするな」

 俺たちは、少し広めの機材用ハードケースの上に並んで腰を下ろした。外の激しい雨音だけが、密室に響き渡る。薄暗い倉庫の中を照らすのは、二人のスマートフォンの頼りない明かりだけだ。

「……佐野くん、寒くない?」

 梅雨冷えというやつだろうか。雨に濡れたわけでもないのに、コンクリートの床から倉庫の中はじんわりと底冷えしていた。

「そんなに。お前は?」

「少し……」

「……お前、シャツ一枚だからだろ」

 佐野が、寒さに少し肩をすくめた俺の腕を見て静かに言った。そして、自分が制服のシャツの上から羽織っていた指定のカーディガンを無造作に脱ぐと、俺の頭からバサッと被せた。

(ひゃあっ!? 急に視界が暗転した!?)

「着とけ。お前に風邪引かれると、雑用が進まなくて困る」

 相変わらずぶっきらぼうな言い訳だったが、俺は反論せずに、すっぽりと被せられたカーディガンの袖に腕を通した。頭一つ分、背が高い佐野。当然、肩幅も胸の厚みも、小柄な俺とは全く違う。佐野のカーディガンは俺にとっては明らかに大きく、肩のラインはずり落ち、袖口は手の甲を完全に覆い隠して指先がわずかに覗く程度だ。

(……でかい)

 カーディガンに包まれた瞬間、微かに残る佐野の体温と、いつも彼の近くで香るシトラス系の制汗剤の匂いが、俺の全身をふわりと包み込んだ。まるで、彼自身に抱きしめられているような錯覚に陥り、顔が一気に熱くなる。

「いいの?」

「俺は平気。お前よりは体温高いし」

 そう言って、佐野は再び機材ケースの上に浅く腰掛けた。
 スマートフォンのわずかな明かりの中、隣に座る彼の横顔を見上げる。頭一つ分違うせいで、座っていても佐野の視線はずっと上にある。薄暗がりの中で浮かび上がるその喉仏や、シャツの下の骨ばった肩のラインが、彼が自分とは違う『男の体格』をしていることを残酷なほどはっきりと意識させた。

(ヤバい……かっこよすぎて泣きそう)

「……ありがと。あったかい」

 俺が大きすぎる袖口をぎゅっと握りしめて小さく呟くと、佐野は一瞬だけ視線を落とした。

「……袖、余りすぎだろ」

「しょうがないじゃん。佐野くんがでかくて、俺が小さいんだから」
 
「まあ、そうだな」

 佐野が、ふっと短く笑う気配がした。激しい雨音だけが響く密室。少し冷たいコンクリートの匂いと、俺を包み込む大きすぎるカーディガンから香る、佐野の匂い。真っ暗な倉庫の中で、俺の心臓の音だけが、雨音をかき消すほどの大きさで鳴り続けていた。自分のこの激しい鼓動が、すぐ隣に座る彼に伝わってしまわないかと思うほどに。

「……そういえばさ」

 不意に、佐野の低い声が雨音を縫って届いた。

「な、なに?」

「お前、エアドロの件から……結局今の今までなんでずっと、俺のこと避けてんの」

「え……っ」

 予想もしていなかった核心を突くような質問に、俺は息を呑んだ。

「俺が怒ってると思ったから、気まずかったのは分かる。……でも、定食屋で『怒ってない』って言った後も、お前、部活中もずっと俺と目、合わせないようにしてただろ」

(そ、それは……目が合ったら俺の顔が真っ赤になるのがバレるからで……!)

 不意にスマートフォンの明かりが消え、倉庫の中が完全な暗闇に包まれた。視界が奪われたことで、すぐ隣にいる佐野の気配と、伝わってくる体温だけが、異常なほどの密度を持って俺に迫ってくる。

「俺の写真ばっかり撮ってるくせに、俺のこと見ないのは、なんで?」

 暗闇の中、佐野の顔がすっと少しだけ近づいたのが分かった。

(距離! 距離が近い! 心臓が口から出そう!)

 俺はカーディガンの袖をぎゅっと握りしめ、膝の上に置いた黒いノートを盾にするように見つめていた。佐野はスマートフォンを手にしたまま、時々圏外の画面を確認している。

「……駄菓子屋の写真も」

 不意に、佐野の低い声が暗闇に響いた。

「うん……」

「まだ、この中に保存したまんま」

「消してもいいよ、容量食うし」

「特に、消す理由がない」

 俺は返事に困った。

「なんで……」

 佐野がスマートフォンを下ろして、俺を見た。薄暗い倉庫の中でも、その真っ直ぐな目の色ははっきりと分かる。

「……なんでだと思う?」

「分かんない」

「本当に?」

 分からない、は正確じゃないかもしれない。でも、自分の都合のいい解釈が正しいとは思えなくて、どうしても言い出せなかった。佐野が、さらに少しだけ身を乗り出すようにして続けた。

「エアドロで飛ばしてきた最初の写真。あれ、本当は俺じゃない誰かに送るつもりで撮ってたのか?」

「……違うよ。本当にただの送信ミスだったんだ。萌生……友達に送ろうとして」

「学祭の時にお前とイチャついてた、同中のか」

 佐野の声のトーンが、一段低くなった。

「ち、違う! イチャついてないし、あいつはただの腐れ縁の女子で! あいつもカメラやってるからさ。佐野の写真をあいつに見せると、『構図が最高にいい』って褒めてくれるから、つい送ろうとして……」

「それだけ?」

「……佐野が、すごくかっこよく撮れてるから、自慢したいっていうのも、少しだけあった」

 俺が消え入りそうな声で白状すると、暗闇の中で、佐野が小さく息を呑む気配がした。雨はまだ強い。トタン屋根を叩く激しい音が、会話の代わりに倉庫を満たしている。

「……お前って、俺のこと、どう思ってんの」

 俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねて、ガチで息が止まりそうになった。

(えっ、どう思ってるって……それ、どういう意味で!?)

「被写体として、じゃなくて」

「……」

「ま、言いたくないなら言わなくていい」

「言いたくないわけじゃ……っ」

 俺は膝の上のノートを見た。黒くて何の変哲もない表紙。そこに書き連ねた、俺だけの秘密の感情。

(言うのか、俺。ここで。この神シチュエーションで!?)

「好き、です」

 促されるように顎をしゃくられて、言ってしまった。緊張のあまり、不意に口調が敬語に戻ってしまう。自分でも引くくらい、声が情けないほど震えていた。

「軽音部の仲間として、とかじゃなくて。……そういう意味じゃない、好き……みたいです……」

 俺は視線を膝のノートに落としたまま、ギュッと目を閉じ、次の言葉を、あるいは「きっしょ」という拒絶を震えながら待っていた。

「……ノート、お前に返した時」
 佐野が静かに口を開いた。
「見てない、って言っただろ」

「……うん」

「……ごめん。一ページだけ見た」

 俺の顔が、弾かれたように上がった。

(見たの!? 見てないって言ったのに!!)

 佐野は視線を逸らすことなく、暗闇の中でまっすぐに俺を見つめ返していた。

「最初のページに、軽音部に入ったきっかけが書いてあった」

「……あ」

「春の新入生歓迎ライブで、飛び入り参加した俺のギターを見て入ったって。きれいな音だったから、写真を撮りたくなった、って」

 俺は一気に耳の先、いや全身から火が出るほど熱くなるのを感じた。

(うわあああ! 一番恥ずかしいポエムのページ!!)

「一ページだけだから」

「うん、信じる……よ」

 佐野が、一つ息を吐いてから言った。

「俺もお前のことを、ずっと気にしてた。春に入部してきた時から」

 俺は勢いよく顔を上げた。

(……はい?)

「やたら仕事が丁寧だと思って。写真もすごくちゃんとしてて。もっと話しかけたかったけど、なんか」

「なんか?」

「……お前、あんまり俺のこと見ないじゃん。普段」

「見てるよ! むしろファインダー越しに見まくってるよ!」

「目が合ったら、すぐに逸らすじゃないか」

「それは……緊張するんであって……っ」

「緊張」

 佐野が俺の言葉を繰り返し、小さく笑う。

(ズルい。その笑い方ズルい)

「だから、俺に遠慮してるのか、嫌いなのか、どっちか分からなかった」

「嫌いなわけないじゃん」

「音楽室で謝ってきただろ。あれ」

「うん」

「謝りに来た時のお前の顔が、あんまり怖がってたから」

「怖がってた……俺が?」

「泣きそうだった。俺が怒ってると思って、怯えてたんだろ」

「……思ってたよ。めっちゃ怖かった」

「怒ってなかった」

 気づけば、トタン屋根を叩く雨音が、少しずつ弱まってきている。

「……そろそろ、出られそうになってきたな」

 佐野が立ち上がり、非常口の前に積まれた跳び箱やパイプ椅子を動かし始めた。俺も慌てて立ち上がり、大きすぎるカーディガンの袖をまくって手伝う。二人で重い機材をずらし、非常口のドアノブを押すと、今度はすんなりと外の世界へと開いた。夕方の冷たい空気が流れ込んでくる。外は雨でひどく濡れていたが、もう傘がなくても走れる程度の小雨になっていた。

「……返事、まだ聞いてない」

 外との境界線上で、俺はなけなしの勇気を奮う。ここまできたらどうにでもなれ。佐野が振り返る。

「俺が好きって言ったのに」

「……聞こえてたよ」

「聞こえてたなら、ちゃんと何か言ってよ。俺ばっかり恥ずかしいじゃん」

 佐野がしばらく、俺の顔をじっと見た。

「……俺もそういう意味で気にしてる」

「そういう意味で、というのは」

「好きだという意味で」

 視線と言葉のダブルパンチを受けた俺はしばらく、何も言えなかった。

(ド直球!!!)

 小雨が静かに、二人の間に降り注いでいた。

「えええっと……いつから?」

 少しの沈黙のあと、俺は小さく尋ねた。

「ちゃんと自覚したのは、エアドロで送りつけられた写真を見た後」

「エアドロの、後……?」

「ああ。送られてきたあの写真を見た時。自分があんな無防備な顔してるとは思わなかったから、純粋に驚いた。それで……お前が俺のことを、どんな風に、どういう視点から見てるのかが気になって仕方なくなった。てか、ごめんな。あれ嘘だわ」

「え?」

「本当は、全部のページ読んだ」

「は……っ!?」

 俺は、完全にフリーズした。

「い、一ページだけって言ったじゃん!!」

「お前が俺のこと、どんな風に見てるのか気になって……途中で止められなくなった。わかるだろ?」

 佐野が、暗闇の中で意地悪く、でもどこか熱を帯びた声で囁く。

「『ギターを弾く時の唇の癖』とか、『一番綺麗に見える夕陽の角度』とか……最後の方の、『たぶん、好きだと思う』とか」

「うわあああああっ!! 待って、ストップ!! お願いだから言わないで!!」

 俺は真っ赤になった顔を両手で覆って、その場にしゃがみ込みそうになった。全身から火が出そうだ。社会的死を通り越して、もう細胞レベルで消滅したい。

「……あれ読んで、俺がどれだけ狂いそうになったか、お前分かってないだろ」

「ひっ……」

 佐野が、顔を覆う俺の手首を掴んで、ぐっと自分の方へ引き寄せた。彼が俺を逃がさないように見据えているのがはっきりと分かる。

「でも、その後もずっと俺のこと無視してたじゃん……っ」

 俺が涙目で抗議すると、佐野は手首を掴んだまま、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。

「だから、無視してたつもりはない。……ただ、あのノートの中のお前からの感情がまっすぐすぎて、どう自分の気持ちを処理していいか分からなくなったんだよ」

「……俺も、同じ」

「……そうか」

「お互い様ってこと?」

 佐野が、ふっと肩の力を抜いて短く笑った。今日で三回目の、俺にだけ見せる、ひどく優しくて甘い笑顔だった。

(もう、この笑顔反則すぎ……)

 完全に外に出ると、雨は細かい霧雨に変わっていた。雨に濡れた中庭のレンガ、古い校舎の外壁、遠くに見える部室棟の屋根。佐野が持っていた大きめのビニール傘をバサッと広げ、俺の肩を抱き寄せるようにして、その下へと引き入れた。触れるほどの距離で一つの傘に入る。

(相合い傘! しかも距離近い! さっきまでと密着度が違う!)

 雨に濡れたアスファルトの匂いと、隣を歩く佐野の体温。俺の心臓は、たぶん今日一日で一生分くらい跳ね回っている気がした。