待ちに待った学園祭、当日。
校内は朝からお祭り騒ぎで、あちこちから模擬店の呼び込みや、体育館ステージのリハーサルの音が響いていた。
「瀬戸ー! こっちのチュロス屋の看板娘たちも撮ってー!」
「はいはーい、今行く!」
俺は軽音部の記録係としての仕事を一旦忘れ、クラスの出し物の撮影係としてカメラを片手に駆け回っていた。ファインダー越しに楽しそうなクラスメイトたちを収めていると、不意に背中をツンツンと小突かれた。
「ハル。真面目にカメラマンやってんじゃん」
振り返ると、県内で一番可愛いと評判のブレザーを着た佐久間萌生が、りんご飴を片手に立っていた。
「本当に来たんだ」
「当たり前でしょ。ハルが撮った軽音部のパンフ、貰いに来てやったのよ。あとあんたの展示見て来たわよ」
ふふん、と得意げに笑う萌生。ゆるふわボブにパッチリした目の彼女は、すれ違う男子たちが二度見するくらいには可愛い。中身はオッサン寄りのイケメンだけど。
「え、ちょっ……瀬戸!? お前、その超絶可愛い子、誰!?」
大きな声を出したのは、クラスメイトの村田だった。チュロスを両手に持ったまま、目を丸くして俺と萌生を交互に見ている。
「あ、いや、こいつは中学からの幼馴染で――」
「えーーっ!? ハルくんの彼女さん!?」
「うそ、めっちゃ可愛い! 他校の子じゃん!」
「しかもなんか二人、小動物系で雰囲気似てない!? お似合いー!」
村田の声を皮切りに、クラスの女子たちまでワラワラと集まってきてしまった。
「ち、ちがっ! ただの腐れ縁だってば! お前もなんか言って!」
「えー? どっちかって言うと、私の方が彼氏でしょ」
萌生がわざとらしく俺の肩に腕を回し、イケメンすぎるウインクを飛ばす。そのせいで女子たちが「キャー! なにそれ尊い!」とさらにヒートアップしてしまった。
(こいつ、絶対面白がってるだろ……!)
「もう、からかわないでよ……っ」
俺が抗議しながら萌生の腕を引き剥がそうとした、その時だった。
「……へえ」
背後から、ひどく低くて、温度のない声が降ってきた。ビクッとして振り返る。ステージ衣装として制作したオリジナルロゴ入りTシャツを着た、佐野が立っていた。手にはパンフレットの束を持っている。
(さ、佐野くん……!?)
俺の心臓が、恐怖と焦りでギュンッと縮み上がった。佐野の目は、全く笑っていなかった。エアドロ事故の時と同じ……いや、それ以上に、シベリアの永久凍土みたいに冷え切った瞳で、俺の肩に腕を回している萌生をじっと見下ろしている。
「あ、さ、佐野くん! これ、違うんだ! 彼女じゃなくて……!」
「記録係、サボってんのかと思えば……随分楽しそうだな」
俺の弁解を遮るように、佐野くんが低く吐き捨てた。
「違っ、こいつはただの――」
「邪魔して悪かったな」
それだけ言うと、佐野は俺たちからスッと視線を外し、一度も振り返ることなく人混みの中へと消えていった。その背中から立ち上る絶対零度のオーラに、騒いでいたクラスメイトたちも「うわ、佐野こっわ……」とドン引きして静まり返っている。
(完全に誤解された! サボって彼女とイチャついてるチャラ男って思われたぁぁぁ!)
俺は膝から崩れ落ちそうになりながら、カメラを両手で抱え込んだ。
「……ねえ、ハル」
「なに……もう俺のライフはゼロだよ……」
「もしかして今のが、例の『AirDrop誤爆事件』の被害者、ナマ佐野くん?」
萌生が、りんご飴を齧りながら面白そうに目を細めていた。
「そうだよ! もう最悪! せっかくちょっと仲直りできたと思ったのに……っ」
「ふーん……なるほどね」
萌生は何かを確信したように、ニヤリと――完全に『狩り』を楽しむハンターの顔で笑った。
「あんた本当に鈍感」
「えっ?」
「完全に『嫉妬』してる顔だったわよ。私に向けられた殺気、マジで凄かったんだから」
「しっ、嫉妬ぉ!? 誰が!? 佐野くんが!? 佐久間に!? 俺に!?」
声がひっくり返る俺の背中を、萌生がバンッ!と力強く叩いた。
「ほら、さっさと追いかけなさいよ! こういう誤解は、秒で解かないと後悔するわよ!」
「ええっ!? で、でも、今話しかけたら絶対殺される……っ」
「行・け! カメラ小僧!」
萌生に背中を蹴り出されるようにして、俺は人混みの中へと走り出した。
(嫉妬? あの佐野くんが? そんなわけない……そんなわけないけど!)
カメラを首から提げたまま、俺は息を切らして黒いTシャツの背中を探した。文化祭の喧騒の中で、俺の心臓の音だけが、やけに大きく鳴り響いていた。
(佐野くん、佐野くん、佐野くん……っ! いた!)
渡り廊下を抜け、普段はあまり人が来ない旧校舎側の非常階段。その踊り場で、窓の外を気怠げに見下ろしている佐野の姿を見つけた。
「さ、佐野くん! 待って!」
息を切らして声をかけると、佐野はゆっくりとこちらを振り返った。……怖い。マジで顔が怖い。普段の不良っぽい無愛想さとは違う、静かな怒りを孕んだような瞳が俺を射抜く。
「……何。彼女ほったらかして来ていいの」
「ち、ちがう! だから、彼女じゃないってば!」
「あんなに腕回してイチャついてたのにか」
「アイツがからかってきただけで……っ! 俺たち、同中で、中身はほとんどオッサンっていうか、俺にとってはアニキみたいなもんで……!」
必死に早口で弁解する俺の言葉を聞いて、佐野はピタリと動きを止めた。
「……同中」
「そ、そう! 他校だし、恋愛感情とかマジで一ミリもないから!」
頼む、信じてくれ。祈るような気持ちで佐野の顔を窺うと、シベリアの永久凍土みたいに冷え切っていた彼の瞳から、スッと険しい光が消えた。その代わり――。
「……へえ」
佐野が、ゆっくりと俺に向かって歩み寄って来る。一歩、また一歩。ただならぬ気配に、俺は思わず後ずさる。視線で殺されそう。
「え、あ、ちょ、佐野くん……?」
後ずさった背中が、非常階段の冷たいコンクリートの壁に当たった。逃げ場がなくなった瞬間。
ダンッ、と。
俺の顔のすぐ横、耳のすぐ近くの壁に、大きな手が叩きつけられた。
(ヒィィィッ!? か、壁ドン!? いやいや少女漫画かよ!?)
俺の心臓が、今日一番の爆音を鳴らす。頭一つ分背が高い佐野に見下ろされる形になり、俺は完全に彼の腕の中に閉じ込められてしまった。すぐ目の前に、整った顔がある。文化祭の準備で少し汗ばんだのか、いつものシトラスの香りが熱を帯びて俺の鼻先を掠めた。
「さ、佐野……っ」
「あんなに嬉しそうな顔してて?」
「う、嬉しそうになんて……」
「してた。隙だらけの顔」
低くて、甘くて、どこか拗ねたような声。耳元で囁かれるたびに、背筋がゾクゾクと震える。
(ヤバい、ヤバいヤバい。顔がいい。近すぎる。息止まりそう……!)
「アニキ代わりでも何でもいいけどさ」
声をぽつりと落としながら、さらに一歩距離を詰めてくる。触れてはいない。服の布地すら重なっていないのに、彼の体温が痛いほど伝わってくる。
「……他の奴に……」
俺の目を見据えたまま、佐野が低く呟く。言葉に乗せられているのは、ただの純粋な、剥き出しの独占欲だった。
(え、え、え!? マジで萌生の言う通りだ。この人、嫉妬してる!?)
その事実に気づいた瞬間、俺の顔が一気にカッと熱くなった。おそらく今、俺はゆでダコみたいに真っ赤になっているはずだ。
「……俺は、お前の被写体だよな?」
「っ、うん」
「だったら、今日は俺のことだけ見てればいいじゃん」
ドサクサに紛れて、とんでもないことを言われた気がする。俺は声も出せず、ただコクコクと首を縦に振ることしかできなかった。俺の返事に、佐野はふっと満足そうに口の端を持ち上げた。壁についていた手を離し、俺から少しだけ体を離す。
「……戻るぞ。あと一時間で、軽音部のステージ始まるからな」
「あ、うん……っ」
「一番前で撮れよ。特等席、空けとくから」
佐野は俺の頭をポンッと一度だけ乱暴に撫でると、あっさりと背中を見せて階段を降りていった。俺は一人、非常階段の壁に背中を預けたまま、ズルズルとその場にしゃがみ込む。
「……無理。心臓、もたない……今のはどういう事……」
両手で真っ赤になった顔を覆う。首から下げたカメラが、カチャリと音を立てた。俺が一方的に始めていた恋は、間違いなく今日、とんでもない速度でギアを上げたらしい。
◇
体育館の扉を開けると、すでにものすごい熱気と歓声が渦巻いていた。軽音部のステージが始まる直前。薄暗い館内には、生徒たちの期待に満ちたざわめきが響いている。俺は首からカメラを下げ、汗だくになりながら人混みを掻き分けて、ステージ中央の最前列――佐野が言っていた「特等席」へと潜り込んだ。
「あー、やっと来た。遅いわよ、ハル」
「うわっ!? お前、なんで最前列のど真ん中にいんの!?」
萌生が、ちゃっかりと特等席を陣取っていた。
「そりゃ、ハルの特等席のおこぼれにあずかろうと思って。で? どうだった? 誤解は解けたわけ?」
「と、解けたっていうか、その……」
数十分前の非常階段での一連の出来事を思い出し、俺の顔が一瞬で沸騰する。
「顔、真っ赤。はいはい、ご馳走様。……おっ、始まるわよ」
萌生がニヤリと笑ってステージを指差した瞬間、体育館の照明がフッと落ちた。割れるような歓声。青と赤のスポットライトが交差する中、ステージの袖からメンバーたちが次々と現れる。そして、最後に黒いバンドTシャツ姿の佐野がセンターのマイクスタンドの前に立つと、女子たちの悲鳴に近い歓声が一斉に上がった。
(うわ……っ、やっぱり、めちゃくちゃかっこいい)
普段の気怠げな姿からは想像もつかないような、圧倒的なオーラ。佐野が肩から下げたギターのコードをアンプに繋ぎ、ジャーンッと一度だけ軽く弦を弾く。その音だけで、体育館の空気がピンと張り詰めた。俺は慌ててカメラの電源を入れ、ファインダーを覗き込んだ。レンズ越しに見る彼は、光を浴びてさらに神々しく見える。マイクの高さを調整していた佐野が、ふと視線を落とした。最前列のど真ん中。カメラを構える俺の方を、真っ直ぐに見下ろす。レンズ越しに、完全に目が合った。佐野は、ほんの一瞬だけ――俺にしか分からないくらい微かに、口角を上げて笑った。
『俺のことだけ見てればいいじゃん』
非常階段での言葉が脳内に蘇り、シャッターを切る俺の指先がブルッと震える。
(ヤバい、無理、心臓爆発する……っ!)
「ワン、ツー、スリー!」
ドラムのカウントとともに、激しいバンドの音が体育館を揺らした。佐野の少し低くてかすれた、でも通る歌声がマイクに乗って響き渡る。俺は夢中でシャッターを切り続けた。ギターのネックを滑る長い指。汗に濡れて額に張り付いた前髪。伏せられた長い睫毛が落とす、綺麗な陰影。ファインダー越しの彼は、間違いなく今、この空間で一番輝いている。なのに。
(……気のせい、じゃないよね)
Aメロ、Bメロ、そしてサビ。佐野が観客席を見渡すたび、ギターソロでステージの前に進み出てくるたび。彼の視線は、磁石に引き寄せられるように、何度も何度も俺のレンズへと戻ってくるのだ。その熱を帯びた瞳と目が合うたびに、俺は火傷しそうなほど顔を熱くしながら、必死にシャッターを切り返した。逃げ出したいのに、目を逸らすことなんてできなかった。
「……ちょっと、ハル」
「な、なに!?」
爆音の中で、隣の萌生が俺の耳元に口を寄せてきた。
「あんたの彼氏、いくらなんでも分かりやすすぎ。こっちばっかり見て歌うじゃん」
「か、彼氏じゃないってば!」
「嘘おっしゃい。あんなの、何百人もいる観客なんか見ちゃいないわよ。世界でたった一人、あんたに向けて歌ってんのよ」
萌生のからかうような言葉に、俺は反論できなかった。だって、レンズ越しに絡みつく彼の視線があまりにも真っ直ぐで、重くて、甘かったから。
最後の曲の、ラストのサビ。佐野がマイクスタンドからギターを外し、ステージのギリギリ、俺の目の前まで歩み出てきた。見上げるような至近距離。佐野が俺のカメラのレンズを、いや、その奥にいる俺の目を、射抜くように見つめる。スポットライトの強い光の中、汗を拭いながらギターを掻き鳴らす彼の姿は、言葉にならないほど美しかった。
(……俺は、この人を)
好きだ。
本当に、どうしようもなく好きだ。
カシャリ。
あの日、送りつけてしまった写真なんかよりも、ずっとずっと鮮明で熱を帯びた彼の姿を、俺はファインダーの中に永遠に閉じ込めた。
校内は朝からお祭り騒ぎで、あちこちから模擬店の呼び込みや、体育館ステージのリハーサルの音が響いていた。
「瀬戸ー! こっちのチュロス屋の看板娘たちも撮ってー!」
「はいはーい、今行く!」
俺は軽音部の記録係としての仕事を一旦忘れ、クラスの出し物の撮影係としてカメラを片手に駆け回っていた。ファインダー越しに楽しそうなクラスメイトたちを収めていると、不意に背中をツンツンと小突かれた。
「ハル。真面目にカメラマンやってんじゃん」
振り返ると、県内で一番可愛いと評判のブレザーを着た佐久間萌生が、りんご飴を片手に立っていた。
「本当に来たんだ」
「当たり前でしょ。ハルが撮った軽音部のパンフ、貰いに来てやったのよ。あとあんたの展示見て来たわよ」
ふふん、と得意げに笑う萌生。ゆるふわボブにパッチリした目の彼女は、すれ違う男子たちが二度見するくらいには可愛い。中身はオッサン寄りのイケメンだけど。
「え、ちょっ……瀬戸!? お前、その超絶可愛い子、誰!?」
大きな声を出したのは、クラスメイトの村田だった。チュロスを両手に持ったまま、目を丸くして俺と萌生を交互に見ている。
「あ、いや、こいつは中学からの幼馴染で――」
「えーーっ!? ハルくんの彼女さん!?」
「うそ、めっちゃ可愛い! 他校の子じゃん!」
「しかもなんか二人、小動物系で雰囲気似てない!? お似合いー!」
村田の声を皮切りに、クラスの女子たちまでワラワラと集まってきてしまった。
「ち、ちがっ! ただの腐れ縁だってば! お前もなんか言って!」
「えー? どっちかって言うと、私の方が彼氏でしょ」
萌生がわざとらしく俺の肩に腕を回し、イケメンすぎるウインクを飛ばす。そのせいで女子たちが「キャー! なにそれ尊い!」とさらにヒートアップしてしまった。
(こいつ、絶対面白がってるだろ……!)
「もう、からかわないでよ……っ」
俺が抗議しながら萌生の腕を引き剥がそうとした、その時だった。
「……へえ」
背後から、ひどく低くて、温度のない声が降ってきた。ビクッとして振り返る。ステージ衣装として制作したオリジナルロゴ入りTシャツを着た、佐野が立っていた。手にはパンフレットの束を持っている。
(さ、佐野くん……!?)
俺の心臓が、恐怖と焦りでギュンッと縮み上がった。佐野の目は、全く笑っていなかった。エアドロ事故の時と同じ……いや、それ以上に、シベリアの永久凍土みたいに冷え切った瞳で、俺の肩に腕を回している萌生をじっと見下ろしている。
「あ、さ、佐野くん! これ、違うんだ! 彼女じゃなくて……!」
「記録係、サボってんのかと思えば……随分楽しそうだな」
俺の弁解を遮るように、佐野くんが低く吐き捨てた。
「違っ、こいつはただの――」
「邪魔して悪かったな」
それだけ言うと、佐野は俺たちからスッと視線を外し、一度も振り返ることなく人混みの中へと消えていった。その背中から立ち上る絶対零度のオーラに、騒いでいたクラスメイトたちも「うわ、佐野こっわ……」とドン引きして静まり返っている。
(完全に誤解された! サボって彼女とイチャついてるチャラ男って思われたぁぁぁ!)
俺は膝から崩れ落ちそうになりながら、カメラを両手で抱え込んだ。
「……ねえ、ハル」
「なに……もう俺のライフはゼロだよ……」
「もしかして今のが、例の『AirDrop誤爆事件』の被害者、ナマ佐野くん?」
萌生が、りんご飴を齧りながら面白そうに目を細めていた。
「そうだよ! もう最悪! せっかくちょっと仲直りできたと思ったのに……っ」
「ふーん……なるほどね」
萌生は何かを確信したように、ニヤリと――完全に『狩り』を楽しむハンターの顔で笑った。
「あんた本当に鈍感」
「えっ?」
「完全に『嫉妬』してる顔だったわよ。私に向けられた殺気、マジで凄かったんだから」
「しっ、嫉妬ぉ!? 誰が!? 佐野くんが!? 佐久間に!? 俺に!?」
声がひっくり返る俺の背中を、萌生がバンッ!と力強く叩いた。
「ほら、さっさと追いかけなさいよ! こういう誤解は、秒で解かないと後悔するわよ!」
「ええっ!? で、でも、今話しかけたら絶対殺される……っ」
「行・け! カメラ小僧!」
萌生に背中を蹴り出されるようにして、俺は人混みの中へと走り出した。
(嫉妬? あの佐野くんが? そんなわけない……そんなわけないけど!)
カメラを首から提げたまま、俺は息を切らして黒いTシャツの背中を探した。文化祭の喧騒の中で、俺の心臓の音だけが、やけに大きく鳴り響いていた。
(佐野くん、佐野くん、佐野くん……っ! いた!)
渡り廊下を抜け、普段はあまり人が来ない旧校舎側の非常階段。その踊り場で、窓の外を気怠げに見下ろしている佐野の姿を見つけた。
「さ、佐野くん! 待って!」
息を切らして声をかけると、佐野はゆっくりとこちらを振り返った。……怖い。マジで顔が怖い。普段の不良っぽい無愛想さとは違う、静かな怒りを孕んだような瞳が俺を射抜く。
「……何。彼女ほったらかして来ていいの」
「ち、ちがう! だから、彼女じゃないってば!」
「あんなに腕回してイチャついてたのにか」
「アイツがからかってきただけで……っ! 俺たち、同中で、中身はほとんどオッサンっていうか、俺にとってはアニキみたいなもんで……!」
必死に早口で弁解する俺の言葉を聞いて、佐野はピタリと動きを止めた。
「……同中」
「そ、そう! 他校だし、恋愛感情とかマジで一ミリもないから!」
頼む、信じてくれ。祈るような気持ちで佐野の顔を窺うと、シベリアの永久凍土みたいに冷え切っていた彼の瞳から、スッと険しい光が消えた。その代わり――。
「……へえ」
佐野が、ゆっくりと俺に向かって歩み寄って来る。一歩、また一歩。ただならぬ気配に、俺は思わず後ずさる。視線で殺されそう。
「え、あ、ちょ、佐野くん……?」
後ずさった背中が、非常階段の冷たいコンクリートの壁に当たった。逃げ場がなくなった瞬間。
ダンッ、と。
俺の顔のすぐ横、耳のすぐ近くの壁に、大きな手が叩きつけられた。
(ヒィィィッ!? か、壁ドン!? いやいや少女漫画かよ!?)
俺の心臓が、今日一番の爆音を鳴らす。頭一つ分背が高い佐野に見下ろされる形になり、俺は完全に彼の腕の中に閉じ込められてしまった。すぐ目の前に、整った顔がある。文化祭の準備で少し汗ばんだのか、いつものシトラスの香りが熱を帯びて俺の鼻先を掠めた。
「さ、佐野……っ」
「あんなに嬉しそうな顔してて?」
「う、嬉しそうになんて……」
「してた。隙だらけの顔」
低くて、甘くて、どこか拗ねたような声。耳元で囁かれるたびに、背筋がゾクゾクと震える。
(ヤバい、ヤバいヤバい。顔がいい。近すぎる。息止まりそう……!)
「アニキ代わりでも何でもいいけどさ」
声をぽつりと落としながら、さらに一歩距離を詰めてくる。触れてはいない。服の布地すら重なっていないのに、彼の体温が痛いほど伝わってくる。
「……他の奴に……」
俺の目を見据えたまま、佐野が低く呟く。言葉に乗せられているのは、ただの純粋な、剥き出しの独占欲だった。
(え、え、え!? マジで萌生の言う通りだ。この人、嫉妬してる!?)
その事実に気づいた瞬間、俺の顔が一気にカッと熱くなった。おそらく今、俺はゆでダコみたいに真っ赤になっているはずだ。
「……俺は、お前の被写体だよな?」
「っ、うん」
「だったら、今日は俺のことだけ見てればいいじゃん」
ドサクサに紛れて、とんでもないことを言われた気がする。俺は声も出せず、ただコクコクと首を縦に振ることしかできなかった。俺の返事に、佐野はふっと満足そうに口の端を持ち上げた。壁についていた手を離し、俺から少しだけ体を離す。
「……戻るぞ。あと一時間で、軽音部のステージ始まるからな」
「あ、うん……っ」
「一番前で撮れよ。特等席、空けとくから」
佐野は俺の頭をポンッと一度だけ乱暴に撫でると、あっさりと背中を見せて階段を降りていった。俺は一人、非常階段の壁に背中を預けたまま、ズルズルとその場にしゃがみ込む。
「……無理。心臓、もたない……今のはどういう事……」
両手で真っ赤になった顔を覆う。首から下げたカメラが、カチャリと音を立てた。俺が一方的に始めていた恋は、間違いなく今日、とんでもない速度でギアを上げたらしい。
◇
体育館の扉を開けると、すでにものすごい熱気と歓声が渦巻いていた。軽音部のステージが始まる直前。薄暗い館内には、生徒たちの期待に満ちたざわめきが響いている。俺は首からカメラを下げ、汗だくになりながら人混みを掻き分けて、ステージ中央の最前列――佐野が言っていた「特等席」へと潜り込んだ。
「あー、やっと来た。遅いわよ、ハル」
「うわっ!? お前、なんで最前列のど真ん中にいんの!?」
萌生が、ちゃっかりと特等席を陣取っていた。
「そりゃ、ハルの特等席のおこぼれにあずかろうと思って。で? どうだった? 誤解は解けたわけ?」
「と、解けたっていうか、その……」
数十分前の非常階段での一連の出来事を思い出し、俺の顔が一瞬で沸騰する。
「顔、真っ赤。はいはい、ご馳走様。……おっ、始まるわよ」
萌生がニヤリと笑ってステージを指差した瞬間、体育館の照明がフッと落ちた。割れるような歓声。青と赤のスポットライトが交差する中、ステージの袖からメンバーたちが次々と現れる。そして、最後に黒いバンドTシャツ姿の佐野がセンターのマイクスタンドの前に立つと、女子たちの悲鳴に近い歓声が一斉に上がった。
(うわ……っ、やっぱり、めちゃくちゃかっこいい)
普段の気怠げな姿からは想像もつかないような、圧倒的なオーラ。佐野が肩から下げたギターのコードをアンプに繋ぎ、ジャーンッと一度だけ軽く弦を弾く。その音だけで、体育館の空気がピンと張り詰めた。俺は慌ててカメラの電源を入れ、ファインダーを覗き込んだ。レンズ越しに見る彼は、光を浴びてさらに神々しく見える。マイクの高さを調整していた佐野が、ふと視線を落とした。最前列のど真ん中。カメラを構える俺の方を、真っ直ぐに見下ろす。レンズ越しに、完全に目が合った。佐野は、ほんの一瞬だけ――俺にしか分からないくらい微かに、口角を上げて笑った。
『俺のことだけ見てればいいじゃん』
非常階段での言葉が脳内に蘇り、シャッターを切る俺の指先がブルッと震える。
(ヤバい、無理、心臓爆発する……っ!)
「ワン、ツー、スリー!」
ドラムのカウントとともに、激しいバンドの音が体育館を揺らした。佐野の少し低くてかすれた、でも通る歌声がマイクに乗って響き渡る。俺は夢中でシャッターを切り続けた。ギターのネックを滑る長い指。汗に濡れて額に張り付いた前髪。伏せられた長い睫毛が落とす、綺麗な陰影。ファインダー越しの彼は、間違いなく今、この空間で一番輝いている。なのに。
(……気のせい、じゃないよね)
Aメロ、Bメロ、そしてサビ。佐野が観客席を見渡すたび、ギターソロでステージの前に進み出てくるたび。彼の視線は、磁石に引き寄せられるように、何度も何度も俺のレンズへと戻ってくるのだ。その熱を帯びた瞳と目が合うたびに、俺は火傷しそうなほど顔を熱くしながら、必死にシャッターを切り返した。逃げ出したいのに、目を逸らすことなんてできなかった。
「……ちょっと、ハル」
「な、なに!?」
爆音の中で、隣の萌生が俺の耳元に口を寄せてきた。
「あんたの彼氏、いくらなんでも分かりやすすぎ。こっちばっかり見て歌うじゃん」
「か、彼氏じゃないってば!」
「嘘おっしゃい。あんなの、何百人もいる観客なんか見ちゃいないわよ。世界でたった一人、あんたに向けて歌ってんのよ」
萌生のからかうような言葉に、俺は反論できなかった。だって、レンズ越しに絡みつく彼の視線があまりにも真っ直ぐで、重くて、甘かったから。
最後の曲の、ラストのサビ。佐野がマイクスタンドからギターを外し、ステージのギリギリ、俺の目の前まで歩み出てきた。見上げるような至近距離。佐野が俺のカメラのレンズを、いや、その奥にいる俺の目を、射抜くように見つめる。スポットライトの強い光の中、汗を拭いながらギターを掻き鳴らす彼の姿は、言葉にならないほど美しかった。
(……俺は、この人を)
好きだ。
本当に、どうしようもなく好きだ。
カシャリ。
あの日、送りつけてしまった写真なんかよりも、ずっとずっと鮮明で熱を帯びた彼の姿を、俺はファインダーの中に永遠に閉じ込めた。



