少し埃っぽい木の床のワックスと、ギターオイル。
そして、誰かが窓際でこっそり飲んでいる炭酸飲料の甘い香り。
窓の外からは、グラウンドで部活に励む運動部員たちの掛け声と、吹奏楽部が奏でる不揃いなスケール練習が遠く聞こえてくる。
空は、夕焼けの一歩手前、切ないほどに明るい。
俺、瀬戸ハルは、部屋の隅のパイプ椅子に腰かけ、一眼レフカメラの液晶画面を指でスクロールしていた。
今日の軽音部の練習で撮った写真たち。
ドラムを叩く部長の躍動感。
ベースの弦を弾く友人の指先。そして——。
(うわ、やっば……また佐野くんの顔面ドアップばっかり撮ってるし。俺の指、どうなってんの? 無意識こえー)
画面の中の佐野由良は、ギターのネックを握ったまま少しだけ眉を寄せ、譜面を確認するように口の中でリズムを刻んでいる。
その横顔は、俺が入学式で……綺麗だ。と思った、あの日から変わらないものだ。
俺の趣味は写真を撮ることだ。
被写体は風景でも人でも、綺麗なものならなんでもいい。
けれど、気づけばカメラのロールの三割——いや、半分近くを佐野の写真が占めている。
(……いやいやいや、冷静に考えてヤバいだろ、これ)
自覚は、まあ、そこそこある。
いや――めちゃくちゃある。
これは「部活の記録係としての純粋な興味」という言い訳が、高校二年生のこの時期、もう完全に限界を迎えつつある領域だ。
週二回活動の写真部と兼部で、週三回活動をしている軽音部に入ったのは、入学して少し経ってからだった。
楽器ができるわけでも、バンドを組みたいわけでもなかったんだけどね。
新入生歓迎ライブで、なぜか同じ新入生であるにもかかわらず、既にステージの中心にいた佐野を見て「この人を撮りたい」と衝動的に思ったのだ。
だから勢いのまま軽音部に、半ば押し売りのように詰めかけた。
以来、一年と少し。
俺は定期演奏会や合同ライブのたびに、記録係としてシャッターを切り続けている。
一応それは公式な役目であり、同時に佐野をレンズ越しに独占し続けるための、俺自身すら無意識にすがっていた免罪符。
「あー、今日の練習終わり! 学祭まであと三週間、各自しっかり仕上げとけよ」
部長が手を叩いて告げると、室内の張り詰めた空気が一気に弛緩した。
椅子を引く音、シールドを片付ける音、来週からの中間テストを嘆く声。
「つか、その前に定期テストっす」
「うおーお前、思い出させるなよ」
「ついでにテスト期間は、部活動停止だからな。カラオケボックスとかで~各自練習するのはアリ」
「あとは、河原とか?」
俺はカメラを鞄にしまいながら、そっとスマートフォンを取り出した。
今日撮った中から会心の一枚を選び、フォロワーが一人も居ない鍵アカウントにアップしようとする。
ついでに、中学からの腐れ縁で、他校で同じようにカメラをやっている佐久間萌生に、本日の会心の画像をLINEで見せようかと考えたのだ。
本当に、息を吐くくらい軽いノリだった。
俺が写真を見せまくったせいか、気が付いたら佐久間はすっかり「佐野くん推し」になっており、写真を送るたびに「神すぎる」と大騒ぎする。
今日の飛び切りの一枚は、佐野の横顔。
綺麗な顎のライン、長めの睫毛が、頬に陰影を落としている。
転寝しているような、キスをする直前のような。
(まあ、ゴリゴリに狙って息を止めて激写した奇跡の一枚なんだけどさ!)
画面の左下にある、共有ボタンをタップする。
いつものように、よく連絡を取る佐久間のLINEアイコンへ指を伸ばした。
しかし――通信の読み込みラグで、画面のレイアウトが一瞬、ヌルッと下にズレた。
俺の指先は、突如最上段にポップアップしたAirDropの宛先に、吸い寄せられるように触れてしまう。
【佐野のiPhone】
AirDropのリストの、一番上。
(……へ?)
反射的に指を引っ込めようとした。だが、指先はすでに「送信」を確定させていた。
(嘘でしょ、ちょ、待っ、キャンセル! キャンセルボタンどこ!?)
『送信中……』
くるくると回る青い円が、俺の心臓をガリガリと削りながら一周し、無情なチェックマークを灯す。
『送信済み』
……。
俺の頭の中が、一瞬で真っ白になった。
血の気が引き、指先が氷のように冷たくなる。
音楽室の喧騒が、急に遠い世界の出来事のように感じられた。
(学祭の会議で『すべての人』にしたまま忘れてた! 俺のアホォォォ!)
恐る恐る目線を上げると、ギターケースのジッパーを閉めようとしていた佐野の手が、止まっていた。
佐野は、ズボンのポケットで震えたスマートフォンを取り出す。
世界が静止したかのような数秒。
佐野が、通知をタップする。
一秒。
二秒。
三秒。
佐野の視線が、ゆっくりと動いた。
スマートフォンの画面から、俺へと。
「……おい、瀬戸」
低く、温度のない声。
周囲の雑談に紛れながらも、その声は俺の鼓動を直接掴み上げるように響いた。
「これ、何?」
佐野がスマートフォンの画面をこちらへ向けた。
映っていたのは、今日の練習中、佐野自身ですら気づいていないであろう角度から捉えた、彼の超絶美麗なドアップ横顔。
「あ、ひゃ、ひゃい……っ! それは、えっと、記録、用……?」
声が裏返る。
生まれたての小鹿くらいガクガク震えてるのが自分でも分かる。
言い訳を探そうにも、脳が完全なシャットダウンを起こしていた。
佐野の目は、全く笑っていなかった。
感情の読めない、冷徹なほどの静けさ。
不良っぽい彼が真顔になると、マジで怖い。
その瞳に自分がどう映っているのかが分からなくて、俺はただの石像のように固まることしかできなかった。
「……コレってどういう意味あんの」
佐野は短く吐き捨てるように言うと、スマートフォンをポケットにねじ込んだ。
まだ誰も、俺の起こした大事故には気づいていない。
「……お前、今日鍵当番だからな」
佐野はそれだけ告げると、ギターケースを肩に担ぎ、一度も振り返ることなく音楽室を出ていった。
残された俺は、スマートフォンを握りしめたまま、夕闇が忍び寄り始めた教室で立ち尽くしていた。
取り消せない送信データ。
――窮屈で、痛くて、けれど逃げ場のないほど鮮やかな恋の始まりだった。
そして、誰かが窓際でこっそり飲んでいる炭酸飲料の甘い香り。
窓の外からは、グラウンドで部活に励む運動部員たちの掛け声と、吹奏楽部が奏でる不揃いなスケール練習が遠く聞こえてくる。
空は、夕焼けの一歩手前、切ないほどに明るい。
俺、瀬戸ハルは、部屋の隅のパイプ椅子に腰かけ、一眼レフカメラの液晶画面を指でスクロールしていた。
今日の軽音部の練習で撮った写真たち。
ドラムを叩く部長の躍動感。
ベースの弦を弾く友人の指先。そして——。
(うわ、やっば……また佐野くんの顔面ドアップばっかり撮ってるし。俺の指、どうなってんの? 無意識こえー)
画面の中の佐野由良は、ギターのネックを握ったまま少しだけ眉を寄せ、譜面を確認するように口の中でリズムを刻んでいる。
その横顔は、俺が入学式で……綺麗だ。と思った、あの日から変わらないものだ。
俺の趣味は写真を撮ることだ。
被写体は風景でも人でも、綺麗なものならなんでもいい。
けれど、気づけばカメラのロールの三割——いや、半分近くを佐野の写真が占めている。
(……いやいやいや、冷静に考えてヤバいだろ、これ)
自覚は、まあ、そこそこある。
いや――めちゃくちゃある。
これは「部活の記録係としての純粋な興味」という言い訳が、高校二年生のこの時期、もう完全に限界を迎えつつある領域だ。
週二回活動の写真部と兼部で、週三回活動をしている軽音部に入ったのは、入学して少し経ってからだった。
楽器ができるわけでも、バンドを組みたいわけでもなかったんだけどね。
新入生歓迎ライブで、なぜか同じ新入生であるにもかかわらず、既にステージの中心にいた佐野を見て「この人を撮りたい」と衝動的に思ったのだ。
だから勢いのまま軽音部に、半ば押し売りのように詰めかけた。
以来、一年と少し。
俺は定期演奏会や合同ライブのたびに、記録係としてシャッターを切り続けている。
一応それは公式な役目であり、同時に佐野をレンズ越しに独占し続けるための、俺自身すら無意識にすがっていた免罪符。
「あー、今日の練習終わり! 学祭まであと三週間、各自しっかり仕上げとけよ」
部長が手を叩いて告げると、室内の張り詰めた空気が一気に弛緩した。
椅子を引く音、シールドを片付ける音、来週からの中間テストを嘆く声。
「つか、その前に定期テストっす」
「うおーお前、思い出させるなよ」
「ついでにテスト期間は、部活動停止だからな。カラオケボックスとかで~各自練習するのはアリ」
「あとは、河原とか?」
俺はカメラを鞄にしまいながら、そっとスマートフォンを取り出した。
今日撮った中から会心の一枚を選び、フォロワーが一人も居ない鍵アカウントにアップしようとする。
ついでに、中学からの腐れ縁で、他校で同じようにカメラをやっている佐久間萌生に、本日の会心の画像をLINEで見せようかと考えたのだ。
本当に、息を吐くくらい軽いノリだった。
俺が写真を見せまくったせいか、気が付いたら佐久間はすっかり「佐野くん推し」になっており、写真を送るたびに「神すぎる」と大騒ぎする。
今日の飛び切りの一枚は、佐野の横顔。
綺麗な顎のライン、長めの睫毛が、頬に陰影を落としている。
転寝しているような、キスをする直前のような。
(まあ、ゴリゴリに狙って息を止めて激写した奇跡の一枚なんだけどさ!)
画面の左下にある、共有ボタンをタップする。
いつものように、よく連絡を取る佐久間のLINEアイコンへ指を伸ばした。
しかし――通信の読み込みラグで、画面のレイアウトが一瞬、ヌルッと下にズレた。
俺の指先は、突如最上段にポップアップしたAirDropの宛先に、吸い寄せられるように触れてしまう。
【佐野のiPhone】
AirDropのリストの、一番上。
(……へ?)
反射的に指を引っ込めようとした。だが、指先はすでに「送信」を確定させていた。
(嘘でしょ、ちょ、待っ、キャンセル! キャンセルボタンどこ!?)
『送信中……』
くるくると回る青い円が、俺の心臓をガリガリと削りながら一周し、無情なチェックマークを灯す。
『送信済み』
……。
俺の頭の中が、一瞬で真っ白になった。
血の気が引き、指先が氷のように冷たくなる。
音楽室の喧騒が、急に遠い世界の出来事のように感じられた。
(学祭の会議で『すべての人』にしたまま忘れてた! 俺のアホォォォ!)
恐る恐る目線を上げると、ギターケースのジッパーを閉めようとしていた佐野の手が、止まっていた。
佐野は、ズボンのポケットで震えたスマートフォンを取り出す。
世界が静止したかのような数秒。
佐野が、通知をタップする。
一秒。
二秒。
三秒。
佐野の視線が、ゆっくりと動いた。
スマートフォンの画面から、俺へと。
「……おい、瀬戸」
低く、温度のない声。
周囲の雑談に紛れながらも、その声は俺の鼓動を直接掴み上げるように響いた。
「これ、何?」
佐野がスマートフォンの画面をこちらへ向けた。
映っていたのは、今日の練習中、佐野自身ですら気づいていないであろう角度から捉えた、彼の超絶美麗なドアップ横顔。
「あ、ひゃ、ひゃい……っ! それは、えっと、記録、用……?」
声が裏返る。
生まれたての小鹿くらいガクガク震えてるのが自分でも分かる。
言い訳を探そうにも、脳が完全なシャットダウンを起こしていた。
佐野の目は、全く笑っていなかった。
感情の読めない、冷徹なほどの静けさ。
不良っぽい彼が真顔になると、マジで怖い。
その瞳に自分がどう映っているのかが分からなくて、俺はただの石像のように固まることしかできなかった。
「……コレってどういう意味あんの」
佐野は短く吐き捨てるように言うと、スマートフォンをポケットにねじ込んだ。
まだ誰も、俺の起こした大事故には気づいていない。
「……お前、今日鍵当番だからな」
佐野はそれだけ告げると、ギターケースを肩に担ぎ、一度も振り返ることなく音楽室を出ていった。
残された俺は、スマートフォンを握りしめたまま、夕闇が忍び寄り始めた教室で立ち尽くしていた。
取り消せない送信データ。
――窮屈で、痛くて、けれど逃げ場のないほど鮮やかな恋の始まりだった。



