「また、ここに足が向いてしまったか」
放課後、リリアーナが植物の世話をしている温室の前で、私は足を止めていた。
ガラス越しに淡く光る室内を見つめながら、彼女は今も中にいるだろうかと考える。
いなくても構わない、と理屈では思っているはずなのに、もし中にいたらいい――そんな淡い期待が、胸の奥に静かに残っている。
ここで少し待てば、彼女に会えるのではないか。
そんな都合のよい思考が、ごく自然に浮かんでしまう自分に、私は気づいている。
その考えに、ふと既視感を覚える。
「……前にも、こうして立っていた気がする」
それは、つい先日の記憶でも、去年の記憶でもない。
それでもなぜか、私は同じ季節の同じ時間帯に、何度もこの場所へ足を運んでいたような気がしてならなかった。
温室の扉の前まで歩み寄り、そっと中の様子をうかがう。
かすかに人の気配がある。おそらくリリアーナだろう。
確かに私は、ここで何度かリリアーナと顔を合わせたことがある。
だがそれは、あらかじめ約束をして会ったわけでもなければ、時間を決めて待ち合わせていたわけでもない。
ましてや、毎日のように張りついていたはずもない。
それなのに――まるで季節を問わず、私はここで彼女を待ち、そして彼女に会っていたような感覚があるのだ。
その思考を遮るように、脳裏でかすかに時計の音が鳴った。
規則正しく刻まれる音が、意識の奥を小さく打つ。
「きゃ」
突然、温室の扉が内側から開いた。
鉢植えを抱えたままリリアーナが姿を現し、私は思わず身を引く。
互いの距離が一瞬で縮まり、危うくぶつかりそうになった。
「すまない。大丈夫か?」
「アルノ殿下。扉の前にいらっしゃるとは知らず、失礼いたしました」
私の姿を認めたリリアーナは、落としかけた鉢を持ち直し、静かに頭を下げた。
「その鉢は、こちらに置けばいいのか?」
私は彼女の手から鉢を受け取り、ほかの鉢がまとめられている場所へ運んで並べる。
湿った土の匂いが鼻をくすぐり、太陽の暖かな光があたりにやわらかく差し込んでいる。
その場所には大小さまざまな鉢が所狭しと並んでいた。
だが、どの鉢にも葉も芽も見当たらず、黒い土だけが静かに収まっている。
鉢を並べているのは、植物たちを直射日光に当てるためかと思ったが、どうやら違うらしい。
「この鉢には土しかないが、何も植わっていないのか?」
素朴な疑問をそのまま口にする。
「これは使い終わった土なんです。中の根やごみを取り除いて、こうして天日干しをしているんですよ。そうすれば殺菌できますし、肥料と混ぜればまた使えるようになります」
なるほど、と私は内心でうなずく。
自分の知らないところで、彼女はこうして丁寧に土を循環させている。
その几帳面さと誠実さに、私は素直に感心せずにはいられなかった。
その時、春とは思えないほど冷たく強い風が、私たちのあいだを吹き抜けた。
作業を続けようとしていたリリアーナは、風で倒されないよう鉢の位置を手早く直す。そして一通り整えると、こちらを振り向いて声をかけた。
「春先とはいえ、風が強いですね。土についてはひとまずここまでにしますから、アルノ殿下は温室の中へどうぞ」
リリアーナに促され、私は暖かな温室の中へ足を踏み入れる。
外とは打って変わって、空気はやわらかく温かい。
並べられた鉢には、色とりどりの花が咲き誇っていた。
私は、リリアーナの愛情を注がれた花たちをひとつひとつ確かめるように眺めていく。
するとその中に、黄色いバラと書かれたラベルの鉢が目に入った。
「君は本当に植物が好きなのだな。前もここで黄色いバラを育てて、教室に飾って……」
そう口にした瞬間、リリアーナがわずかに戸惑いを見せた。
視線を揺らしながら、言いにくそうに口を開く。
「……黄色いバラは……去年は根腐れを起こしてしまいまして……」
その言葉に、私ははっと記憶をたどる。
「……ああ、そうだったな。去年はピンクのバラだったか」
私の中では、確かに黄色いバラだった気がしていた。
だが思い返せば、蕾のまま花瓶に挿されたピンクのバラの姿が浮かぶ。
黄色だと思い込んでいた自分の記憶が、わずかに軋んだ。
単に私がリリアーナばかりを見ていて、花の色を見誤っただけなのかもしれない。
そう思うと、少し情けなさが込み上げた。
「……でも、アルノ殿下がおっしゃったように、私も黄色いバラを育てて教室に持っていったような気もするんです。……ふふ、不思議ですね」
困ったように、それでいてどこか楽しげに、彼女は小さく笑った。
その笑顔は、初めて見た気がする。
思い返せば、リリアーナはいつも微笑んでいた。
まるで聖女のように、誰に対しても優しく、柔らかな笑みを絶やさない少女。
その万人を包み込むような笑顔に、私は何度も救われ、癒やされてきた。
だが今目の前にある笑みは、それとはどこか違う。
一人の少女が、少し照れくさそうに、戸惑いを滲ませながら浮かべる笑み。
完璧に整えられたそれではなく、揺らぎを含んだ素顔の表情。
同じはずの彼女の笑顔なのに、いつもと違うように感じられるのは、なぜなのか。
「…………」
「…………」
会話が途切れ、長い沈黙が二人の間に落ちる。
気まずさなのか、それとも互いに何かを感じ取っているのか。
判断がつかない。
リリアーナも、何かを感じているのだろうか。
それとも、ただ私との会話に困っているだけなのか。
そう思った瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。
ただでさえ私は一度、彼女に振られている。それでも未練がましく、一挙手一投足を目で追ってしまうほど、彼女を想っている。
『もう一度、告白しても良いのではないか?』
『リリアーナも、まんざらではないのではないか?』
――いや、待て。
まんざらでもないなどと考えるのは、あまりにも自惚れが過ぎる。
それを快く思うか否かは彼女が決めることであり、私が勝手に判断していいものではない。
それなのに、自分に都合よくそうであってほしいと考えてしまう自分がいる。
そもそも私は、こんなに短絡的な人間ではなかったはずだ。
それに、「もう一度告白する」など――それは……。
私は小さく息を整え、湧き上がる迷いを飲み込んだ。
隣で、リリアーナが土だけの鉢にそっと触れている。
その横顔を見ながら、私は再び考える。
許されるなら、もう一度想いを伝えたい。
だが、一度断られている以上、再び告白すれば彼女にとって私は鬱陶しい存在になるかもしれない。
今はこうして、友人として傍にいることを許されている。それだけで十分ではないか――
そう、頭では理解している。
それでも――私は特別でありたいと願ってしまう。
ユリアンやライル、エリオやクレイン先生よりも、もっと私を見てほしい。
あの宝石のような瞳に、私だけを映してほしい――そう思ってしまう。
私は視線を落とし、気づかれないほど小さく息を吐いた。
認めたくはない。
私は皆を出し抜いてでも彼女を手に入れたいと願う、身勝手な人間なのかもしれないということを。
「リリアーナ、鉢は運び終わったのか? 土は言われた所に運んでおいたけど、そろそろ俺、行かなきゃ……」
温室の奥からライルが姿を現した。
「あ、ごめんね。アルノ殿下に会って、ついお喋りしてたの」
「アルノーシュ? 何しに来たんだ?」
悪意のない、ただ率直なライルの言葉。
それなのに、その一言が胸の奥に棘のように刺さる。
(用事がなければ、リリアーナに会ってはいけないのか。……それを言うなら、ライルこそなぜここにいる。私に隠れて会っていたのか?)
自然に言葉を交わす二人の姿に、言いようのない苛立ちが湧く。
そして同時に、そんなことを考えている自分自身に気づき、はっとした。
なんだ、これは。
今までだって、リリアーナとライルが二人きりで一緒にいたことはあったではないか。
そのたびに私は微笑ましく見守っていたはずだ。
リリアーナが幸せなら、それでいいと――そう思っていたはずなのに。
チクリ。
「アルノーシュも花に興味あるのか?」
醜い考えに囚われていた私に、ライルはいつも通りの明るい笑顔で話しかけてくる。
「リリアーナはすごいんだ。俺、花なんて種を植えて日向に置けばいいと思ってたけど、日陰の方がいい花もあるって知らなくてさ。いろいろ教えてくれるんだ。だから俺も土を運んだりして手伝って……」
「あ、ライル! 稽古の時間は大丈夫なの?」
「そうだった! 俺、行かなきゃ! リリアーナ、また明日、花のことを教えてくれよな」
ライルは温室の床に置いてあった鞄を掴み、私にもリリアーナにも大きく手を振ってから、武道場の方へと駆けていった。
私はその背中を複雑な思いで見送る。
ライルには裏表がない。善意で話しかけてくれただけなのだ。
喉の奥がひりつくのを覚え、私は思わず視線を落とした。
思わず喉が鳴りそうになるのを、私は必死で抑えた。
私は彼をどう思った?
――醜く嫉妬し、友を疑ったのか。
その事実に、これまで心の内側を覆っていた薄い幕のようなものが、音もなく弾けた気がした。
私は第一王子だ。
だからこそ、どんな時も紳士でありたいと願ってきた。
公平であろうと努め、そう振る舞うことが自然だと思っていた。
――だが私は気づく。
自分が何を「当然」だと思っていたのかに。
皆が振られるのは、最後に自分が選ばれるからだと、どこかで思っていた。
だが結局、私も皆と同じように振られた。
そのときは、リリアーナが聖女のようにすべてに愛を注ぐ存在だから、皆と同じ扱いでも仕方がないと思った。
王子である私でさえ届かない存在なのだから、受け入れるしかないのだと。
だから私は、皆と一緒にリリアーナの幸せを祈ろうと決めた。
それが王子として、紳士として、公平であろうとする私の在り方だと思っていた。
しかし、最近の私はどうだ。
ユリアンが彼女に執着しなくなったことに、どこかで安堵していた。
ライルが彼女と同じ趣味を持ち、楽しげに話していることに嫉妬した。
エリオが部屋に籠もり、彼女の周囲に現れなくなったことに安心した。
クレイン先生は幼女趣味なのだから近づけるべきではないと、本気で考えていた。
喉の奥がひりつき、目を逸らしたくなる衝動を必死にこらえる。
――本当の私は、こんなにも意地汚く、醜い。
それでも、振られたあの時の私は潔く身を引いた。
告白し、断られた後も感情を表に出さず、その場を穏やかに収めたはずだった。
なのに今になって――なぜ、あのとき引き下がったのかが分からなくなっている。
本当は、私は――。
私は――。
「……アルノ殿下?」
考え込んでいた私を心配して、リリアーナが声をかけてくれた。
けれど、その声は私の耳には入らなかった。
気づけば、私の喉の奥にずっと詰まっていたものが、こぼれ落ちていた。
「――――本当は、私を選んでほしかった」
「……え」
リリアーナの肩がピクリと震える。
私も、口にした瞬間、思わず身体が固まった。
しまった、と思ったが、もう遅かった。
「……何を言ってるんだ、私は。すまない、リリアーナ。最近、私は……いや、その……」
言葉を探そうとするほど、喉が詰まる。
頭の中では形にならない違和感ばかりが渦巻き、何から話せばいいのか分からない。
それでも何か伝えなければならない気がして、無理やり言葉を絞り出した。
「最近、どうにも胸の奥に引っかかるものがあってな……。何が原因なのか、自分でもはっきりしないのだが……そのせいか、考えが妙な方へ転んでしまうようで……」
リリアーナを見ると彼女は顔色を失い、頭を押さえたまま立ち尽くしていた。
その姿を見た瞬間、私の胸の奥がひやりと冷える。
私の曖昧な言葉が、彼女を困らせ、追い詰めてしまったのではないか。
説明もできぬまま、不安だけを投げつけてしまった自分を、強く悔いた。
「すまない、リリアーナ。何か気に障ったか? 頭を押さえて、どうしたんだ。痛むのか?」
リリアーナの視界が、――歪む。
遅れて、耳鳴りのような――いや、巨大な時計が鳴り響くような音が、頭の内側にこだまする。
混乱の隙間に、彼女が知らないはずのアルノーシュの姿が、断片的な記憶のようにフラッシュバックして入り込んでくる。
隣で彼女を案じるアルノーシュの声は、頭の中の時計の音にかき消されて届かない。
その間も、リリアーナの脳裏には
さまざまな、見たことのないアルノーシュの姿が
次々と浮かんでは消えていく。
手は震え、足はもつれ、瞳を閉じることすらできない。
これは、いったい、なに?
私は――彼ではない彼を、知っている……?
放課後、リリアーナが植物の世話をしている温室の前で、私は足を止めていた。
ガラス越しに淡く光る室内を見つめながら、彼女は今も中にいるだろうかと考える。
いなくても構わない、と理屈では思っているはずなのに、もし中にいたらいい――そんな淡い期待が、胸の奥に静かに残っている。
ここで少し待てば、彼女に会えるのではないか。
そんな都合のよい思考が、ごく自然に浮かんでしまう自分に、私は気づいている。
その考えに、ふと既視感を覚える。
「……前にも、こうして立っていた気がする」
それは、つい先日の記憶でも、去年の記憶でもない。
それでもなぜか、私は同じ季節の同じ時間帯に、何度もこの場所へ足を運んでいたような気がしてならなかった。
温室の扉の前まで歩み寄り、そっと中の様子をうかがう。
かすかに人の気配がある。おそらくリリアーナだろう。
確かに私は、ここで何度かリリアーナと顔を合わせたことがある。
だがそれは、あらかじめ約束をして会ったわけでもなければ、時間を決めて待ち合わせていたわけでもない。
ましてや、毎日のように張りついていたはずもない。
それなのに――まるで季節を問わず、私はここで彼女を待ち、そして彼女に会っていたような感覚があるのだ。
その思考を遮るように、脳裏でかすかに時計の音が鳴った。
規則正しく刻まれる音が、意識の奥を小さく打つ。
「きゃ」
突然、温室の扉が内側から開いた。
鉢植えを抱えたままリリアーナが姿を現し、私は思わず身を引く。
互いの距離が一瞬で縮まり、危うくぶつかりそうになった。
「すまない。大丈夫か?」
「アルノ殿下。扉の前にいらっしゃるとは知らず、失礼いたしました」
私の姿を認めたリリアーナは、落としかけた鉢を持ち直し、静かに頭を下げた。
「その鉢は、こちらに置けばいいのか?」
私は彼女の手から鉢を受け取り、ほかの鉢がまとめられている場所へ運んで並べる。
湿った土の匂いが鼻をくすぐり、太陽の暖かな光があたりにやわらかく差し込んでいる。
その場所には大小さまざまな鉢が所狭しと並んでいた。
だが、どの鉢にも葉も芽も見当たらず、黒い土だけが静かに収まっている。
鉢を並べているのは、植物たちを直射日光に当てるためかと思ったが、どうやら違うらしい。
「この鉢には土しかないが、何も植わっていないのか?」
素朴な疑問をそのまま口にする。
「これは使い終わった土なんです。中の根やごみを取り除いて、こうして天日干しをしているんですよ。そうすれば殺菌できますし、肥料と混ぜればまた使えるようになります」
なるほど、と私は内心でうなずく。
自分の知らないところで、彼女はこうして丁寧に土を循環させている。
その几帳面さと誠実さに、私は素直に感心せずにはいられなかった。
その時、春とは思えないほど冷たく強い風が、私たちのあいだを吹き抜けた。
作業を続けようとしていたリリアーナは、風で倒されないよう鉢の位置を手早く直す。そして一通り整えると、こちらを振り向いて声をかけた。
「春先とはいえ、風が強いですね。土についてはひとまずここまでにしますから、アルノ殿下は温室の中へどうぞ」
リリアーナに促され、私は暖かな温室の中へ足を踏み入れる。
外とは打って変わって、空気はやわらかく温かい。
並べられた鉢には、色とりどりの花が咲き誇っていた。
私は、リリアーナの愛情を注がれた花たちをひとつひとつ確かめるように眺めていく。
するとその中に、黄色いバラと書かれたラベルの鉢が目に入った。
「君は本当に植物が好きなのだな。前もここで黄色いバラを育てて、教室に飾って……」
そう口にした瞬間、リリアーナがわずかに戸惑いを見せた。
視線を揺らしながら、言いにくそうに口を開く。
「……黄色いバラは……去年は根腐れを起こしてしまいまして……」
その言葉に、私ははっと記憶をたどる。
「……ああ、そうだったな。去年はピンクのバラだったか」
私の中では、確かに黄色いバラだった気がしていた。
だが思い返せば、蕾のまま花瓶に挿されたピンクのバラの姿が浮かぶ。
黄色だと思い込んでいた自分の記憶が、わずかに軋んだ。
単に私がリリアーナばかりを見ていて、花の色を見誤っただけなのかもしれない。
そう思うと、少し情けなさが込み上げた。
「……でも、アルノ殿下がおっしゃったように、私も黄色いバラを育てて教室に持っていったような気もするんです。……ふふ、不思議ですね」
困ったように、それでいてどこか楽しげに、彼女は小さく笑った。
その笑顔は、初めて見た気がする。
思い返せば、リリアーナはいつも微笑んでいた。
まるで聖女のように、誰に対しても優しく、柔らかな笑みを絶やさない少女。
その万人を包み込むような笑顔に、私は何度も救われ、癒やされてきた。
だが今目の前にある笑みは、それとはどこか違う。
一人の少女が、少し照れくさそうに、戸惑いを滲ませながら浮かべる笑み。
完璧に整えられたそれではなく、揺らぎを含んだ素顔の表情。
同じはずの彼女の笑顔なのに、いつもと違うように感じられるのは、なぜなのか。
「…………」
「…………」
会話が途切れ、長い沈黙が二人の間に落ちる。
気まずさなのか、それとも互いに何かを感じ取っているのか。
判断がつかない。
リリアーナも、何かを感じているのだろうか。
それとも、ただ私との会話に困っているだけなのか。
そう思った瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。
ただでさえ私は一度、彼女に振られている。それでも未練がましく、一挙手一投足を目で追ってしまうほど、彼女を想っている。
『もう一度、告白しても良いのではないか?』
『リリアーナも、まんざらではないのではないか?』
――いや、待て。
まんざらでもないなどと考えるのは、あまりにも自惚れが過ぎる。
それを快く思うか否かは彼女が決めることであり、私が勝手に判断していいものではない。
それなのに、自分に都合よくそうであってほしいと考えてしまう自分がいる。
そもそも私は、こんなに短絡的な人間ではなかったはずだ。
それに、「もう一度告白する」など――それは……。
私は小さく息を整え、湧き上がる迷いを飲み込んだ。
隣で、リリアーナが土だけの鉢にそっと触れている。
その横顔を見ながら、私は再び考える。
許されるなら、もう一度想いを伝えたい。
だが、一度断られている以上、再び告白すれば彼女にとって私は鬱陶しい存在になるかもしれない。
今はこうして、友人として傍にいることを許されている。それだけで十分ではないか――
そう、頭では理解している。
それでも――私は特別でありたいと願ってしまう。
ユリアンやライル、エリオやクレイン先生よりも、もっと私を見てほしい。
あの宝石のような瞳に、私だけを映してほしい――そう思ってしまう。
私は視線を落とし、気づかれないほど小さく息を吐いた。
認めたくはない。
私は皆を出し抜いてでも彼女を手に入れたいと願う、身勝手な人間なのかもしれないということを。
「リリアーナ、鉢は運び終わったのか? 土は言われた所に運んでおいたけど、そろそろ俺、行かなきゃ……」
温室の奥からライルが姿を現した。
「あ、ごめんね。アルノ殿下に会って、ついお喋りしてたの」
「アルノーシュ? 何しに来たんだ?」
悪意のない、ただ率直なライルの言葉。
それなのに、その一言が胸の奥に棘のように刺さる。
(用事がなければ、リリアーナに会ってはいけないのか。……それを言うなら、ライルこそなぜここにいる。私に隠れて会っていたのか?)
自然に言葉を交わす二人の姿に、言いようのない苛立ちが湧く。
そして同時に、そんなことを考えている自分自身に気づき、はっとした。
なんだ、これは。
今までだって、リリアーナとライルが二人きりで一緒にいたことはあったではないか。
そのたびに私は微笑ましく見守っていたはずだ。
リリアーナが幸せなら、それでいいと――そう思っていたはずなのに。
チクリ。
「アルノーシュも花に興味あるのか?」
醜い考えに囚われていた私に、ライルはいつも通りの明るい笑顔で話しかけてくる。
「リリアーナはすごいんだ。俺、花なんて種を植えて日向に置けばいいと思ってたけど、日陰の方がいい花もあるって知らなくてさ。いろいろ教えてくれるんだ。だから俺も土を運んだりして手伝って……」
「あ、ライル! 稽古の時間は大丈夫なの?」
「そうだった! 俺、行かなきゃ! リリアーナ、また明日、花のことを教えてくれよな」
ライルは温室の床に置いてあった鞄を掴み、私にもリリアーナにも大きく手を振ってから、武道場の方へと駆けていった。
私はその背中を複雑な思いで見送る。
ライルには裏表がない。善意で話しかけてくれただけなのだ。
喉の奥がひりつくのを覚え、私は思わず視線を落とした。
思わず喉が鳴りそうになるのを、私は必死で抑えた。
私は彼をどう思った?
――醜く嫉妬し、友を疑ったのか。
その事実に、これまで心の内側を覆っていた薄い幕のようなものが、音もなく弾けた気がした。
私は第一王子だ。
だからこそ、どんな時も紳士でありたいと願ってきた。
公平であろうと努め、そう振る舞うことが自然だと思っていた。
――だが私は気づく。
自分が何を「当然」だと思っていたのかに。
皆が振られるのは、最後に自分が選ばれるからだと、どこかで思っていた。
だが結局、私も皆と同じように振られた。
そのときは、リリアーナが聖女のようにすべてに愛を注ぐ存在だから、皆と同じ扱いでも仕方がないと思った。
王子である私でさえ届かない存在なのだから、受け入れるしかないのだと。
だから私は、皆と一緒にリリアーナの幸せを祈ろうと決めた。
それが王子として、紳士として、公平であろうとする私の在り方だと思っていた。
しかし、最近の私はどうだ。
ユリアンが彼女に執着しなくなったことに、どこかで安堵していた。
ライルが彼女と同じ趣味を持ち、楽しげに話していることに嫉妬した。
エリオが部屋に籠もり、彼女の周囲に現れなくなったことに安心した。
クレイン先生は幼女趣味なのだから近づけるべきではないと、本気で考えていた。
喉の奥がひりつき、目を逸らしたくなる衝動を必死にこらえる。
――本当の私は、こんなにも意地汚く、醜い。
それでも、振られたあの時の私は潔く身を引いた。
告白し、断られた後も感情を表に出さず、その場を穏やかに収めたはずだった。
なのに今になって――なぜ、あのとき引き下がったのかが分からなくなっている。
本当は、私は――。
私は――。
「……アルノ殿下?」
考え込んでいた私を心配して、リリアーナが声をかけてくれた。
けれど、その声は私の耳には入らなかった。
気づけば、私の喉の奥にずっと詰まっていたものが、こぼれ落ちていた。
「――――本当は、私を選んでほしかった」
「……え」
リリアーナの肩がピクリと震える。
私も、口にした瞬間、思わず身体が固まった。
しまった、と思ったが、もう遅かった。
「……何を言ってるんだ、私は。すまない、リリアーナ。最近、私は……いや、その……」
言葉を探そうとするほど、喉が詰まる。
頭の中では形にならない違和感ばかりが渦巻き、何から話せばいいのか分からない。
それでも何か伝えなければならない気がして、無理やり言葉を絞り出した。
「最近、どうにも胸の奥に引っかかるものがあってな……。何が原因なのか、自分でもはっきりしないのだが……そのせいか、考えが妙な方へ転んでしまうようで……」
リリアーナを見ると彼女は顔色を失い、頭を押さえたまま立ち尽くしていた。
その姿を見た瞬間、私の胸の奥がひやりと冷える。
私の曖昧な言葉が、彼女を困らせ、追い詰めてしまったのではないか。
説明もできぬまま、不安だけを投げつけてしまった自分を、強く悔いた。
「すまない、リリアーナ。何か気に障ったか? 頭を押さえて、どうしたんだ。痛むのか?」
リリアーナの視界が、――歪む。
遅れて、耳鳴りのような――いや、巨大な時計が鳴り響くような音が、頭の内側にこだまする。
混乱の隙間に、彼女が知らないはずのアルノーシュの姿が、断片的な記憶のようにフラッシュバックして入り込んでくる。
隣で彼女を案じるアルノーシュの声は、頭の中の時計の音にかき消されて届かない。
その間も、リリアーナの脳裏には
さまざまな、見たことのないアルノーシュの姿が
次々と浮かんでは消えていく。
手は震え、足はもつれ、瞳を閉じることすらできない。
これは、いったい、なに?
私は――彼ではない彼を、知っている……?


