乙女ゲームで選ばれなかった王子の選択――攻略後ルートのはじまり――

 温室を出たあとの、胸の奥に残ったあのざらつきを思い出す。
 言葉にできないまま抱え込んでいた違和感が、今も静かに心の内側を擦り続けている。

 ――それを、ユリアンも感じていた。
 
 その事実を知った瞬間、張りつめていた心が、ほんのわずかに緩む。
 自分だけがおかしくなっているわけではないのだと分かり、胸の奥に小さな仲間意識が芽生えた。

「違和感なぁ……」

 ユリアンの言葉を聞いたライルも、珍しく軽口を挟まない声音でぽつりと呟く。
 
 いつもなら即座に茶化してくるはずの男が、顎に手を当てて視線を落とす。その姿は見慣れているはずなのに、どこか遠く感じられた。

 しばし、言葉を探すような沈黙が落ちる。
 やがてライルは、喉の奥に引っかかったものを押し出すように、重たく口を開いた。

「なあ、俺って花とか似合うか?」

 あまりにも唐突な問いに、私とユリアンは同時に固まる。
 
 戦場の風が似合う男であっても、温室の花とは縁遠い――そんな先入観が瞬時に頭をよぎったからだ。
 実際、無骨な手にいっぱいの花束を抱え喜ぶライルの姿など、一度も想像したことがなかった。

「……ギャグとしては、及第点をやらんでもないが」

 ユリアンは眼鏡のブリッジに指先を添え、いつもの調子で軽く受け流す。
 だがその視線は冗談めかしつつも、どこか測るようにライルを観察していた。

 そのとき、今朝のライルの言動がふと胸に引っかかる。
 
 温室へ向かう足取り。妙に落ち着いた横顔。
 あれは、ただの気まぐれではなかったのかもしれない。

「そういえば、今朝も温室に行ったはずなのに、なぜ午後も温室にいたんだ?」

 問いかけた瞬間、ライルは肩をびくりと震わせ、気まずそうに視線を逸らした。
 
 言葉を選ぶように唇を結び、しばらく床の一点を見つめる。

「それが……花を見ていると心が落ち着くんだ。色も形も匂いも、近くにいるだけで嬉しくなってさ。今まで花なんて興味なかったし、名前も知らなかったのに」

 照れ隠しのように頭を掻きながらも、ライルの声にはどこか切実さが滲んでいる。
 
 彼自身も戸惑っているのだろう。胸の奥に生まれた妙なざわめきが収まらず、無意識のうちに再び温室へ足を向けてしまった――そんな心の揺れが、言葉の端々から伝わってきた。

 ライルも違和感を感じていた。

 その事実を反芻するように、私は小さく息をつく。
 胸のもやもやが晴れたわけではない。ただ、同じ感覚を抱く者がいるという事実が、静かにそこへ置かれただけだ。
 
 それは慰めというより、むしろ新たな疑問の種だった。

 同じ時期に、友人である私たち全員が違和感を抱くなど――そんなことがあり得るのだろうか。

「あと俺は、エリオのことも気になっている。今朝会った後、宣言通りそのまま寮に帰ってしまい、授業もサボって閉じこもっていると聞いた。……今までのエリオを思うと、どうにも違和感が否めなくてな」

 ユリアンの話では、彼のクラスメイトであり、同じ寮の学生が忘れ物を取りに戻った際に目撃したらしい。
 どうやら噂ではなく、確かな目撃談だ。

「いつも天真爛漫なエリオなのにな。具合でも悪いのかな」

 ライルの言葉に、私も思わず心配になる。
 
 今朝のエリオは、いつもの弾けるような明るさが影を潜めていた。
 あの様子を思い出すと、胸の奥に小さな不安が灯る。

「それが、昼食時に食堂でゲームをしながら、大盛りランチを平らげていたとも聞いた。具合が悪いというわけでもなさそうでな」

 ユリアンは訳が分からないとばかりに両手を軽く上げ、肩をすくめてため息をつく。
 彼の整然とした思考でも、さすがに処理しきれないらしい。

「エリオのやつ、あんなに小柄なのに、剣術を習って運動してる俺と同じくらい食べるんだよな」

 ライルは、まるで世界七不思議でも語るかのように目を丸くする。
 確かに私も、あの量がエリオの身体に吸い込まれていく様を常々不思議に思っていた。
 
 もっとも、その食欲は今に始まったことではない。
 だからこそ、そこには違和感はなかった。

「違和感って言えば、クレイン先生も変じゃなかったか? 妹がどうたらとか……」

 ライルが眉間にしわを寄せ、今朝のクレイン先生を思い出す。
 その言葉に、私たちは自然と頷いた。

「先生に妹君がいたなんて、初耳だったよ。先生の年齢から考えたら、すでに成人しているのではないのだろうか?」

 成人している妹君の存在を知らなくても不自然ではない。
 それでも――今朝の先生の声色や視線が、喉の奥に小さな棘のように引っかかって離れなかった。

「あー……実は午前中、今期の指導について聞きたいことがあって職員室へ行ったんだが……その……」

 ユリアンが一呼吸置き、小声で言う。

「先生の机の上が、幼い少女の写真で溢れていてな」

 私とライルは同時に言葉を失った。
 
 脳内で何かが派手な音を立てて崩れ落ちる。
 「理知的で厳格な教師」という像が、写真に埋もれて粉々になった気がした。

 石像のように固まった私たちに、ユリアンがそっと続ける。

「安心しろ。それが噂の、年の離れた妹君らしい。あの幼さでは、猫っ可愛がりも仕方あるまい」

 その言葉に、張り詰めていた肩の力が抜ける。
 思わず大きく息を吐いた。

 妹君が幼女の年齢では、あの態度も仕方あるまい。
 ……仕方ない……のか?

「でも、今までそんな話、聞いたことなかったのに」

 ライルが口をとがらせる。
 先生は、わざわざ言うほどのことでもないと思っていたのかもしれない。

 だが、理屈で納得しかけても、胸の奥のざらつきは消えない。
 なぜ今日になって突然、妹の話を持ち出し、机の上を写真で埋め尽くしたのか。
 その理由が見えないこと自体が、ひそやかに私を落ち着かなくさせた。

 些細な胸騒ぎが、ゆっくりと胸に広がっていく。
 触れれば霧散してしまいそうなほど微細なのに、確かにそこに居座る違和感だった。

 先ほど温室でリリアーナと出会ったときに感じた違和感。
 ユリアンやライルもまた、彼女に対して何かしら引っかかりを覚えているのだろうか。

 そう思った瞬間、気づけば言葉が口をついて出ていた。

「なあ、お前たち。リリアーナのこと、好きか?」

 その一言で、教室に残っていた空気がわずかに張り詰める。
 
 冗談めかした軽さはない。けれど、重すぎもしない。
 それでも、誰もが無視できない問いだった。

「そういうお前はどうなんだ、アルノーシュ」

「……変わらず、好きだ」

「そうか。俺も可憐な彼女のことは未だに胸から離れないな」

「俺だって、まだまだ好きだぜ。すっごくな」

 誰もが彼女を好きになる。
 それは当然のことのはずなのに――胸の奥が、かすかにざわめいた。

 喜びとも焦りともつかない感情が、静かに波紋を広げていく。

 けれど――。

 「俺の方が好きだ」「いいや俺だ」と相変わらず牽制し合いながらも、どこか楽しげに笑う二人を、私はざわつく心で見つめた。

 私は、二人を蹴落としてまで、彼女を望んでいるのだろうか。
 二人は、私を蹴落としたいと、本気で思っているのだろうか。