乙女ゲームで選ばれなかった王子の選択――攻略後ルートのはじまり――

 ガラス越しに降り注ぐ陽光に満たされた温室は、柔らかな熱を帯びている。
 その中で、私はリリアーナの身体を抱き支えていた。
 
 花々の甘い香りが漂う穏やかな空間のはずなのに、頭の奥では正確無比な時計の針が休むことなく刻まれている。
 規則正しいはずのその音だけが、なぜかやけに耳障りに響く。

 無機質な響きに重なるように押し寄せてくる映像の奔流に、思わず顔を歪める。
 流れ込むのは、覚えのない人生の断片。
 だがそれは確かに、私自身の感情を伴った記憶だった。

 私は腕の中のリリアーナを見下ろし、問いを投げかけた。

「リリアーナ……。この記憶はいったい……。こんな私を、私は知らないのだが――」

 拾い上げきれない断片を頭の奥で繋ぎ合わせながら、私は整った顔を歪めたまま彼女を見つめる。
 私の腕の中で力を抜いていたリリアーナが、小さく息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。

「アルノ殿下にも、私が見たのと同じ、覚えのない記憶が流れ込んでいるんですか――?」

 やはり、彼女にも同じものが見えているのか。

「これは……君が見てきた記憶なのか?」

 問いかけると、リリアーナは一度視線を落とし、唇をきゅっと結んだ。
 やがて覚悟を決めたように顔を上げ、困惑を滲ませながらも、はっきりと言葉を紡ぐ。

「そうですね……。でもこれは、私が見た、私とは違う人生なんです」

 苦しげに微笑む彼女の瞳に、胸が締め付けられる。
 
 その奥底には、数えきれない日々の記憶と、味わった痛みや喜びが静かに積み重なっているように見えた。
 胸の奥がぎゅっと軋み、言葉にできない感情が波のように押し寄せる。

 ――今見たあの膨大な人生を、彼女は一人で繰り返してきたのか。

 そう思った瞬間、胸の奥がざわつく。
 私は彼女を支えているつもりでいた。だが、本当に支えになっていたのだろうか。
 彼女の側にずっといたというのに。

 後悔にも似た感情を抱いたまま、私が動かず彼女を見つめすぎていたのだろう。
 リリアーナはそっと視線を外し、深く息を整えてから、再び口を開いた。
 
「私ね、ずっと二学年をループしていたんだと思う」

 その言葉は静かだったが、抱き留めている肩越しに、わずかな震えが伝わってきた。
 彼女がどれほど長い時間、この結論にたどり着くまで耐えてきたのか――その重さが、言葉の隙間から滲み出ている。

 私はずっと側にいた。
 それなのに、何も知らなかった。何ひとつ、気づいていなかった。
 彼女がずっと、たった一人でこの人生を繰り返してきたということに。

 震える唇を引き結び、まるで自分が罪を犯したとでも言うように視線を伏せながら、彼女は続ける。

「なぜだかは分からないけれど、私はずっと、アルノ殿下をはじめ、みんなと関わって、交際しては誰かと結ばれるということを繰り返してきたの」

 そこで一度、彼女は小さく息を整える。
 記憶を掘り起こすたびに、胸の奥が軋むのだろう。
 その苦しみが、表情から痛いほど伝わってくる。

 彼女の語る内容は、常識では到底信じられない。
 今、頭の中に流れ込んできたおぼろげな記憶がなければ、私は笑って聞き流していただろう。

「その間はずっと、頭の中に二つの答えが出るの」

 その一言に、私は微かに肩を震わせる。

「例えば殿下に話しかけられたり、偶然出会ったりするとね……選択肢が出るの」

 ――選択肢。

 その言葉が、鋭く胸を刺した。

「その選択からは逃れられなくて……。どちらを選ばずにいても、ランダムでどちらかを選んだように進んでしまって」
「それ以外の選択肢を考えていても、気づくと二つのうちのひとつに進んでいて……」

 語りながら過去を呼び覚ましているのか、彼女の表情が歪む。
 私もまた、数日前から起きていた「選択肢」という現象を反芻し、同じように顔を歪めた。

「最初は、自分が二つの答えを心の中で想像しているだけだと思ったわ。どっちがいいかなって、少し考えているだけなんだって」

 リリアーナは乾いた笑みを浮かべ、ひとつ小さく息を吐く。
 そして真剣な瞳で、まっすぐに私を見据えた。

「――でも違うの。だって、その選択肢の中には、私が思いもしないような酷いものが混ざっていたんだもの」

 それは、まさしく最近の私に起きていた不思議と同じだった。
 二つの選択から選ばされること。
 自分では考えもしなかった事柄が選択肢として提示されること。
 まったく同じではないか。

「その選択肢も嫌だったし、無意識に繰り返していたたくさんの人生も、心の奥がどろどろに溶けていくようで嫌だった」

 小さく首を振る。
 思い出すことさえ苦しいのだろう。

「だから頑張ったの。この嫌な気持ちにならない選択肢を選んだり、あえて選択肢とは逆の行動をしてみたり。そしたらね――」

 そう語るリリアーナは、先ほどまでの苦痛から解き放たれたように、晴れやかな表情で私を見上げた。
 
 何度ももがき、何度も心を削りながら、それでも諦めずに選び続けた。
 その積み重ねの先に、今の彼女がいる。
 
「今回はとうとう三学年になれたの! ループから出られたんだと思う。だって、選択が出なくなったわ。私、二学年の記憶を持ったまま三学年になれたの」

 その言葉とともに、彼女の瞳がまっすぐに輝く。
 長い暗闇を抜け、初めて太陽の下に出た人のような――そんな、息をすることすら忘れそうなほど澄んだ笑顔だった。

 彼女がどれほどこの瞬間を待ち望んでいたのか、何も言われずとも胸に迫ってくる。

 そんな彼女は――今まで見てきたどのリリアーナよりも、輝いていて美しい。

「もうループすることは、なくなったということかい?」
「そう。私はやっと自由になれたのよ」

 先ほどまで青ざめていた頬が、ほんのり桜色に染まる。
 今まで私が見てきた彼女の笑顔――そして流れ込んできた記憶の中の笑顔――そのすべてと比べても、目の前の彼女の微笑みは間違いなく特別な光を放っていた。

 これが、本当の彼女なのだろう。
 その笑顔に、私はこれまで以上に強く惹かれている自分を自覚する。

「今まで酷い選択肢を選んでごめんなさい。といっても、何を言っているのか分からないと思うけど……。でもこれで私、やっと――」

『よく分からないね。夢でも見たのかな。疲れているんだよ』
『私は君の味方だよ。だから私を信じて、もうそんなことは忘れるんだ』

 瞬間、再び脳裏に選択肢が浮かぶ。
 
 その内容に、私は眉をひそめた。
 どちらも、リリアーナの言葉を否定する内容。
 
 私の意思とは無関係に選択肢が出ること自体は以前からあった。
 だが、今回はそれを差し引いても、どこか感覚が違う。
 まるで――私を物語の中心に据え、方向を決めさせようとしているかのようだ。

 その瞬間、ようやくすべてが腑に落ちた。

 ――そういうことか。

 頭の中で鳴り響く時計の音に顔をしかめながら、私は理解する。

「……ループは終わっていないのか」

 私の呟きに、リリアーナの表情が一瞬で曇る。
 柔らかくほころんでいた顔が、氷のように固まった。
 まるで温室の空気そのものが冷え込んだかのように、私たちを中心にした空間が張り詰める。

「……どういうこと? 私は確かに――」

 絞り出すような声が、静かな温室に響く。
 彼女の声だけが微かに震え、空気を揺らしていた。

「ああ、安心してほしい。君はループから逃れたと思う」
「じゃあ、なぜそんなことを言うの?」

 一呼吸置き、私は静かに告げる。

「同じなんだ」

 その意味が分からず、リリアーナが小さく首を傾げる。

「四月に入ってから、私の頭の中にも選択肢が二つ出るようになった」

 その言葉を口にした瞬間、頭の奥で鳴っていた時計の音が、ひときわ鋭く耳鳴りのように響いた。
 胸の奥がひやりと冷え、まるで見えない手で心臓を掴まれたような感覚が走る。

 私の言葉に、最初は理解できないという顔だった彼女が、やがてその言葉の意味に辿り着き、一気に青ざめる。

「……多分、今度は私が、選択する者になったんだ」

 つまり――これから起こることは、すべて私の選択にかかっている。
 どの道を選んでも、一年後にまた三学年の初めへ戻る可能性があるということ。

 その事実に、リリアーナはただ息を呑むことしかできなかった。