ここに来て


 瑞原が昼休み、音楽室でピアノを弾くというので、着いて行くことにした。

 最近は大体週に二回くらい音楽室へ足を運んでいるが、だいたい鳴海から誘うので今日は珍しかった。

 音楽室によく出入りしている上級生の女子生徒たちも、最初は鳴海たちを遠巻きにしていたが瑞原の演奏のあまりの達者さに我慢できなくなったようで、あるとき話しかけてきた。するとあっという間に彼は昼休みの音楽室の人気者になった。

 そして音楽室に入るやいなや、瑞原はすぐに声をかけられた。

「あ!瑞原くん来た!」
「こんにちは」

 瑞原はピアノのそばに集まっている女子生徒たち数人ににこやかに挨拶をした。

「今週は来ないのかと思ったー」
「ははっ。すみません。いつもお邪魔して」
「えー全然邪魔じゃないよ〜!ていうか毎日来て欲しい!もちろん鳴海くんもね!」

 センター分けで少し吊り上がった猫目が特徴の女子生徒は、そう言って快活そうな笑顔を浮かべる。2年生の先輩で牧田さんというらしい。
 社交的で気さくな性格の持ち主で、鳴海のことも覚えてくれている。

「ありがとうございます」

 勢いに圧倒されながらもおずおずとお礼を言うと、彼女はにんまりと笑みを深くした。
 瑞原はすぐにピアノの方に連行されていって、何か弾いてとせがまれている。
 
 皆はいそいそと蓋の部分を開けて準備をしてから、鍵盤部分を覗き込むようにピアノの周りに立った。鳴海も一番手前の手元が見える位置に立つ。
 
 彼はイスに腰掛けると、座面を持ってちょうど良い位置にずらし静かに足をペダルに伸ばす。息を呑んでその流れるような動作を見守る。
 
 ひとたび音を奏で出すと、一瞬で空気が変わった。たった一音でもその場を圧倒するほどの力強さと静かでおだやかな響きがある。
 音の粒が彼に操られて、肌を撫でてくるようだった。
 演奏が終わると拍手が起きた。
 
「いや〜ほんとに上手だわ〜。こんなのタダで聴かせてもらっていいのかなー!」
 
 牧田さんは目を輝かせながらそう言った。周りも口々に賛同する。

「大袈裟ですよ」

 瑞原は微笑みながらそう返した。
 全く図に乗ってないところがいけすかない。思わずじとりとした目で睨んでしまった。
 そんな鳴海の様子は当然気にも留めず、横の牧田さんの友達は前のめりになりながら尋ねる。

「前より上手くなってない?」
「はははっ」
「ジュニアのコンクールとか出てたでしょ?」
「出てないですよ」
「えーそうなの?絶対賞もらえるのに。お母さんに習ってたんだっけ?」
「はい」
「へーすごいな〜」
 
 彼女は感心した様子で、深いため息を吐いた。他の人も降参といったようにその嘆息に頷く。
 しばらくそんな空気が流れた後に、牧田さんが口を開いた。
 
「ほら……!鳴海くんも弾かない?」
 
 そう言われて、周りを窺うと皆も微笑みを浮かべながらこくこくと頷いていた。
 あの演奏の後に弾くのは、どうやら気がひけるらしい。だから鳴海の演奏で中和させようとしているのだろう。
 
「紘貴も弾こうよ」
 
 瑞原も椅子から退いて鳴海の手を取ってくる。
 
 とはいえ、誘いに乗らないという選択肢はない。ピアノを流暢には弾けないけれど、音を鳴らすのは好きだからだ。
 
 生暖かい目で見守られながら、いつものごとく即興の、曲にもなっていない適当ソングを奏でたりした。
 10分前の予鈴が鳴ると、牧田さんたちは「次体育だから」と言って、慌ただしく音楽室をあとにしてしまった。
 
「俺らもそろそろ帰る?」
 
 そう言って椅子から立ち上がると、瑞原は鳴海の手を取って引き留めた。
 
「もう一曲弾かせて」
「……はははっ。いいよ!」

 おかしくて思わず笑ってしまったら、彼はきょとんとした顔でこちらを見つめた。

「いや、最初あんなに弾くの渋ってたくせに!」

 そう言うと、瑞原は曖昧に笑った。

「誰でも久しぶりに弾くのは怖いものだよ」
「ふうん。そうなんだ」
「うん。だから、鳴海のおかげだよ」

 彼は握った手をぎゅっと握った。
 急にちゃんとしたことを言うものだから、少し照れる。

「いいから、早く弾きなよ!」

 そう促すと、またゆっくりとした動作で椅子に腰をかけた。
 彼が口端に笑みを浮かべたまま何気なく腕まくりをした時、捲ったシャツの下に黒く色素が変わった部分があるのを発見して、思わず口を挟んでしまった。

「それ、あざ?」

 下腕のちょうど付け根あたりで、普段はシャツで隠れて見えないところだ。

「これ?」

  瑞原は、その痣のような部分を撫でながら言った。鳴海はコクリと頷く。

「なんかしこりみたいなのがあってね。気づいたら弄っちゃうんだ」

 瑞原がぐにっとその黒い部分をつまむと、少しゴツゴツしたようなものが隆起した。おもわずギョッとして、顔を上げた。

「触ってみる?」
「……うん」

 瑞原の申し出に首肯して、その黒い部分に触れた。すると、他の部分より皮膚が盛り上がっていることがわかった。それをつまむと、さっきのように患部が隆起した。

「うお」

 鳴海はぐにぐにとそのしこりをつねった。

「いたいいたい」

  瑞原は笑いながら言って、されるがままになっている。

「これって小さい瑞原?」

 ニヤリとした笑みを浮かべながら覗き込む。
 大きい瑞原のなかに、小さい瑞原が内蔵されていたら面白いと思ったのだ。

「なんかそれ気持ち悪いね」

 瑞原は口端に笑みを残したまま顔をしかめてみせた。

「そうかなー」
 
 鳴海がそのまましこりをぐにぐにとつねっていると、彼は流れるように反対側の手で鳴海の手を上から捕まえた。

 「あっごめ……」

 つねりすぎて痛かっただろうか。そう思って手を離そうとする。

 「いいよ?」

 しかし、口ではそう言ってるのに全く手を解放してくれない。何とか腕を引こうとするものの、捕えられてしまい動かせなかった。

 「怒ってる?」
 「全然」

 そう言って瑞原は目を細める。
 
 普段の鳴海なら強く振り解いたり茶化したりするはずなのにそれができなかった。瑞原の黒黒とした目がこちらを捉えて離さない。

 「――ああ、もうこれは君のせいだよね」

 瑞原はそう呟いて、影のある笑みを浮かべた。