昼休み、鳴海は手持ち無沙汰で自席に座っていた。数分前には机の木目を指で辿ったりしていたものの、それもすぐに飽きてしまった。
体育祭で係の仕事が割り振られている運動部は、昼休みに説明会があるらしく、チャイムが鳴るとともにクラスメイトの半分以上が教室からいなくなった。バドミントン部の愉吉も例に漏れず係の当番があるようで、早々に教室から出ていってしまった。
どうやらこのクラスは思ったより運動部が多かったらしい。
静かになった教室で、ぼんやりと教室の上についている掲示物や時計の秒針が動く様子を眺めていると、黒板側の扉から入ってきた瑞原と目があった。彼は、どこからか戻ってきたタイミングのようだっだ。
(そうだ……!)
瑞原の顔を見てあることを思い出すと、突然鳴海は椅子から立ち上がった。
机の間を縫って黒板の方へ迷いなく進んでいく。瑞原はそれにやや圧倒された様子で目を丸くしたまま立ち尽くしている。
「音楽室行こうよ」
「え?」
瑞原の前に辿り着くと、早速思いついたことを直球で提案してみた。しかし瑞原はなんのことやら理解が追いつかないといった様子で、鳴海に聞き返した。
「だから、この前家行ったとき言ったやつ」
「ああ……」
「ピアノ弾けるんでしょ。なら行こう!俺も弾きたいし」
「え……ちょっとそれは」
瑞原は戸惑った表情で言い淀んだ。
ひとつ返事で賛同してくれると思っていたので、煮え切らない態度にがっかりする。
小学校の時音楽室は締め切られていてピアノを自由に弾くことはできなかったが、中学では朝から夕方まで開放されていて、昼休みも自由に弾くことができる。正確に言うと、解放されているのは普段授業で使わない第二音楽室の方だ。
実は、その情報を知り得た入学してすぐの頃に、第二音楽室へ行ってみたことがある。
入る前に扉の窓から中を覗いたところ、いかにもピアノを習っていそうなお淑やかな上級生の女子生徒たちがたくさんピアノの周りに集まっていて、あまりの場違いさに動揺してしまい、慌てて元来た道を引き返した。
きらきら星も碌に弾けないような下級生の自分がひとりでそこに乗り込んで行くというのはさすがに気が引けた。少し残念だったけれど、早々に昼休みの音楽室へ足を踏み入れることは諦めかけていた。
しかしついこの前、瑞原がピアノを演奏できるということを聞いて、一筋の光が差した。純粋に演奏を聞いてみたいというのもあったが、彼を盾にすれば鳴海自身も音楽室に行けると思ったのだ。
それに瑞原は家でピアノを弾かせてもらえないと言っていたので、ちょうどよいと思って誘ってみたら、この反応である。
「なんだよ。行きたくない?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「なら行こうよ」
「うーん……もうずっと弾いてないからなあ」
「いいじゃん、弾けなくても。僕が弾くから」
鳴海が得意げににやりとした笑みを浮かべると、ふはっと瑞原が吹き出した。
「わかったよ、もう」
降参といったように歩き出したので、鳴海もうきうきとしながらそれに続いて音楽室へと足を向けた。
「結構中に人いるよ」
扉についた窓から中を覗いて確認した瑞原は、何とも言えない顔でこちらに振り返った。
「だよねー」
当の鳴海というのも、入学当初音楽室へ来たときと全く同じ状況にすっかり怯んでいた。ひとりならさっさと退散してしまうのだが、ここまで瑞原を連れて来た手前、どうしてもピアノにありつきたかった。
いっそのこと思い切って乗り込んでしまおうか、などと考えていると、突然ドアが音を立てて開いた。
「うわっ!」
鳴海がびっくりして叫ぶと、相手も目を見開いて固まった。
扉を開けた主は、センター分けで少し吊り上がった猫目が特徴の女子生徒で、上級生のようだった。
女子生徒は鳴海と瑞原に気づくと、にこりと微笑んで廊下の方へ出て来た。慌てて扉の端に避ける。
そしてそのすぐ後ろにも三人の女子生徒たちがいておしゃべりをしながら連れ立って出てきた。
そのまま女子生徒たち四人組は、楽しそうに会話をしながら階段の方へと消えていく。
鳴海は、上級生のオーラに圧倒されながら、ただ彼女たちの後ろ姿を見送った。
廊下から人がいなくなると向かいの瑞原と目があう。鳴海はこくりと頷いて、開いている扉の方に向き直ると、一旦首だけを入れて中を確認した。誰もいないようだった。
おずおずと音楽室の中へ足を踏み入れると、奥に大きなグランドピアノがあって、木製の椅子も5脚ほど並んでいた。
念のため、ぐるりと周りを見渡してみてもやはり誰も残ってはいなかった。
「ラッキーだね」
鳴海が瑞原を振り返る。
彼はピアノを見つめたまま引き寄せられるように近づいていった。そして、鍵盤のカバーを優しく触れるように撫でる。
「どう?弾きたくなった?」
鳴海がそばに寄って尋ねると瑞原は我に返ったようにこちらを見た。
「うん」
彼は真顔のまま素直に頷いて、それから冷静に時計の方を見上げた。
「さっきの人たち次移動教室だったのかな」
鳴海も釣られて時計を見上げると、時刻は13時35分を差していて、あと10分で次の授業の開始時間だった。
「ほんとだ、あと十分しかない。早く!」
鳴海は鍵盤の方に回り込むと、早速カバーを上げて赤い当て布をピアノの譜面置きの上に軽く畳んで置いた。
瑞原が呆然とその様子を眺めたまま突っ立っていたので、手を引っ張ってふかふかの座面に座らせると、鳴海はそのすぐ横に立った。
そわそわとしながら瑞原に視線を送る。
「なんか弾いてよ」
「……」
しかし、瑞原はただ無表情で鍵盤を見つめるだけだった。もう一回声をかけてみても動かないので、鳴海も痺れを切らした。
「せっかく譲ってあげたのに。なら俺が先に弾くから」
「え?」
瑞原の横へ押しのけるようにして座ると腕を鍵盤へ伸ばして、迷わず黒鍵に手を置いた。
かなり辿々しい手つきで遠い記憶の勘を頼りに奏で始める。
(ねこ、ふん、じゃっ、たー、ねこふん、じゃったー、ねこ、ふんじゃーふんじゃー、ふん、じゃっ、たー)
心の中で歌詞を歌いながらリズムはめちゃくちゃながらも鍵盤をひとつずつ押していく。久しぶりにこうやってピアノで遊べて楽しい。昔、誰かの家でもこうやって遊んだことがある気がする。
「あれ」
途中まで順調だったのに、手をクロスした時に次の一音どこを押すのかわからなくなってしまった。しっくりこない音が、ピヨーんと鳴り響く。
周辺の黒鍵を手当たり次第に押していると、横から手が伸びて来た。
「ここ」
「ああ、それだ!」
しっくり来る音が鳴って鳴海は声を上げる。そのまま続きを弾く。
その後も何度かつっかえながらも、最後の節まで弾き終えたら、ちょっとした達成感に包まれていた。
「ふう」
ひと息つくと、横から一人分の拍手が聞こえて来た。隣を見ると、瑞原が硬い表情を解いて手を叩いていた。
「すごいよ、最後まで。本当にすごい」
「……まあね。両手使えるし」
「うん、すごい」
鳴海が手をひらひらとさせながら満更でもない様子でそう言うと、瑞原は目を細めて頷いた。
時間が経っているような気がして、ぱっと時計を見上げると、時刻は次の授業開始の3分前を差していた。
「あ!やばい、もうすぐ時間だ」
鳴海は勢いよく立ち上がって音楽室の出口へと走り出す。そして教室を半身くらい飛び出しかけてから、瑞原を置き去りにしていることを思い出して、慌てて扉に手をつき体を捻って振り返った。
瑞原はというと、まっすぐな目で鍵盤を見つめていた。名前を呼ぼうとしたが、話しかけがたい真剣な表情に、すんでのところで堪える。
彼は、流れるような動作で鍵盤に手を置いて、ペダルに足をかけた。その仕草は、呼吸をするように自然で、かつ何度も繰り返し染み付くまで重ねることで磨きがかったもののようだった。
鳴海はごくりと唾を飲み込んでから、二度瞬きをした。
(……先に帰っていよう)
このまま見ていたかったが、時間がないのでいつまでもこうしていられなかった。
決心してなるべくそっと静かに廊下へと行って立った。そして足音を立てないよう、ゆっくりと階段を降りていく。
しばらくすると遠くからピアノの旋律が聞こえてきた。思わずその場に立ち止まって振り返る。なんの曲かはわからないが、繊細で心地よい調べだった。まるで少し肌寒い秋の空の下を歩いているかのようなメロディだった。
鳴海は息をほっと吐いてから、そのまま階段を降りていった。
教室に戻ると、先ほどまで出払っていた大多数のクラスメイトが自席についていた。鳴海も自席につくと、先生が教室へ入って来て、日直が号令をかける。
授業が始まってから十分くらいすると、控えめに後ろの扉の開く音がした。ぱっと振り返ったら、やはり瑞原だった。クラスメイトたちは、意外な人物が遅れて入ってきたことに驚いた顔をしている。
本人は自席に戻るとき先生になにか小言を言われて「すみません」と謝っていたが、落ち込んだ様子はなくどこか晴れやかな横顔だった。
その様子を眺めていたら瑞原と目が合った。彼はこちらに気付くとにこりといつもの笑みを浮かべて、声には出さず口だけを動かして何かを伝えようとしてきた。
うまく口の動きを読み取れないまま鳴海が眉を顰めながら首を傾げると、瑞原は首を振って、笑った。
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放課後、瑞原の席に行って、何と言ってたのか聞きに行くと、瑞原はなにやら楽しそうに肩を揺らした。
「はははっ。思い出し笑いしちゃう」
「そんなのはどうでもいいから、教えてよ!なんて言ったの?」
「秘密」
なんだよーと言いながら肩を持ってぶんぶんと前後に揺さぶる。瑞原はされるがままになっている。
ひとしきり笑いがおさまったところで、瑞原は呟くみたいに言った。
「なんか紘貴といると安心できるな」
「……」
「紘貴は?」
「……認めたくないけど僕もそうかも。正直あいつらといる時みたいな刺激はないけど、なんていうか、肩の力抜けるっていうか」
鳴海は喋りながらどんどん恥ずかしくなっていって、止まらない早口を最終的に笑い声で締めくくった。
「嬉しい」
瑞原はじっくり耳を傾けたあと、花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
その見たことないきれいな笑顔に目を奪われてから、ふと思い立って、照れ隠し半分、真実半分のような内容を口に出してみる。
「……和馬には散々無様な姿を晒してるからかもしれない」
「はははっ!なるほど」
続けて鳴海はぽつりと本音をこぼした。
「ダサいから誰にも言わないけど……いまだに子供みたいなこと考えちゃうっていうか。暗い場所も怖いし、母親が死んだらどうしようとか思うし。間抜けだよね」
「そんなもんだよ。心配事ってそう簡単にどっかに追いやれるものでもない」
何でも卒なくこなす瑞原から、そんな即答が返ってきて鳴海は目を瞬いた。小さなスケールの悩みなんてなさそうなのに、肯定されるとは思わなかったのだ。
「そう……?」
「うん。——前にさ、紘貴に暗いのって怖くない?って聞かれたことあったけど、あれほんとはちょっと嘘っていうか、本心じゃないっていうか。確かに昔より慣れたのは事実だけど、本当は今も暗いのちょっと怖いよ」
瑞原ははにかむように笑った。
「暗くても恐ろしいことは起きないし問題ないって頭でわかってるから、平然とできるようになって、怖いっていう気持ちが起きなくなってた」
「うーん」
鳴海が難しい顔で唸ると瑞原は続けて言った。
「地続きに見える毎日でも気づいたら知らない自分とか景色にたどり着いてたりするんじゃないかな」
大人びて見えるいつもよりずっとその横顔が身近に感じた。
そんなもんかと腑に落ちてつい鼻歌を歌い出しそうになった。
「一緒に帰る?」
そう言うと、瑞原は目を細くして頷いた。
