ここに来て



 あの日は本当にぐっすりと眠れた。熱で寝付けないかと思ったが、一日の疲れと、心労のほうが大きく上回ったみたいだった。ご飯と市販薬を口に入れて横になったらもう意識がなかった。

 次の日も目が覚めて熱を測ったらまだ微熱があって、その日も一日中布団にくるまっていた。母も仕事が休みだったので、お粥をつくってくれたり少し話をしたりした。いつもより優しかった。

 月曜日に起きたとき熱はもうなかったけれど、大事をとってその日は学校を休んだ。午後も変わらず体調がよかったので、今度こそ眼科へ行った。あの症状は既になかったが念のためだ。

 診察を受けたところ全く異常はなく、風邪やストレスのせいで一時的に視野が狭くなることがあるという事らしかった。閃輝暗点という症状で、若い人に多く見られるものらしい。

 ひと安心だった。今では焦って取り乱したことが、遠い昔のようだ。夢の中での出来事だったみたいにさえ感じられる。

 本当に夢だったらいいのにと思うけれど、現実での出来事だ。
 吐いてしまったり、焦ったりした様子を見られたり——情けない姿を晒してしまった事実は変えられない。思い返せば思い返すほど恥ずかしい。

 朝から憂鬱だった。もう一日くらい休みたい。休んだらますます嫌になるかもしれないが。

 重い腰が上がらず、家でぐずぐずとテレビを見ていたら、学校についたのは始業時刻ぎりぎりだった。
 ふらふらと教室に入ると、突然右腕を掴まれてぐいっと後ろに引っ張られる。

「うわっ!」

 振り向くと、クラスメイトで友人の斎藤愉吉が鳴海の腕を掴んでいた。人好きのする笑顔を浮かべ、長い足を組んで机に浅く腰掛けている。

「愉吉か」
「おい、今気づいたんか!なにぼおっとしてん!」

 愉吉は呆けたように答える鳴海の腕をぶんぶんと上下に揺すった。軽快な西日本のイントネーションで指摘されると、漫才のツッコミみたいだとたびたび思う。

 愉吉は高校進学からこの街に来た人間だった。もとは和歌山あたりに住んでいたらしい。鳴海よりも早くこのクラスに馴染んでいたので、てっきり他中の人気者なのだと思っていた。

 鳴海はハマっているゲームが偶然彼と同じで仲良くするようになった。よく葉村らと一緒に放課後遊んだりする。

「ごめんごめん。気づかなかった」
「薄情な!」

 鳴海がそのまま通り過ぎようとすると愉吉が声を上げて引き留めた。

「ああ、鳴海の席あっち!昨日席替えしたんや」

 え、と言って愉吉の指した方向を見ると、中央の列の前から二番目に鞄のかかっていない空席があった。木目が自分の使っている机みたいなのであの席なのだろう。

「うわー前に近づいた」
「はははっ。お気の毒に。俺ここ」

 愉吉は手をついていた左手で軽く机を叩いてみせた。廊下から2列目の後ろから2番目の席だった。

「おー。変わって?」
「むりー!」

 勝ち誇った笑みを浮かべる愉吉。軽く睨みつけたが、愉吉は構わず言葉を続けた。

「鳴海、昨日どうしたん?ズル休みか!」
「違うって。風邪ひいただけ」

 ややムキになって否定すると愉吉はからからと笑った。

「ほんまか〜?寝坊して学校行くん諦めたんとちゃう?」
「愉吉じゃないんだから」

 負けじとそう言い返す。

「そんなことせえへんせえへん。皆勤賞がちでめざしてんねん、俺」
「ふーん」

 思ったより優等生的な愉吉の発言に、興味を失って踵を返した。そのまま新しい自席に向かう。
 席につくやいなや先生が入ってきた。
 本当にぎりぎりだったようだ。みなも蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの席に戻っていった。


 
 瑞原は帰りのホームルームが終わってすぐ、鞄ももたないままに鳴海の机の前へやってきた。

「鳴海くん」
「な、なに?」

 声が上擦って視線が泳ぐ。瑞原は鳴海の視界を塞ぐように前に立っている。

「風邪大丈夫?」
「うん。もう治った」
「よかった。昨日休んでたから心配だったよ」
「……」

 瑞原が微笑んだ気配がして彷徨っていた視線を戻すと、やはりそうだった。

 クラスメイトとこんなむず痒いやりとりをしたことがない。一日休んだくらいなら、さして気にされないし気にもしない。今朝なんて愉吉にはズル休みを疑われたぐらいだ。

 鳴海が無言でいると、瑞原が思い出したように声を上げた。

「あ、そうだ!僕の家に鳴海くんの自転車預かってるよ」
「え?」

 自転車?あの日、転んで、瑞原に見つかって、公園に行って、夜まで寝て——
 思えば自転車は住宅街の道に置き去りだった。完全に忘れていた。

「鳴海くんが帰ったあと、あの自転車取りに行ったんだ。それで、そのまま僕んちまで持って帰ったよ」
「忘れてた……ごめん」
「全然」
「近いうち取りに行っていい?」
「うん。明日の放課後はどう?僕明日は塾の時間遅いんだ」
「わかった。明日取りに行く」

 自転車がないと何かと不便だ。明日取りに行くことができそうでよかった。

「ひろちゃーん。いるかしら〜?」

 すると、つくったような甲高い声がおちゃらけて鳴海のことを呼んだ。
 声の主は明らかだった。幼馴染の葉村悠太だ。

 また鳴海を母親ネタでからかっている。彼とはよくお互いの家を出入りしているので、親との関係も全部筒抜けなのだ。そこが幼馴染の非常に嫌な部分だ。

「いるよー!」

 廊下から顔をのぞかせている葉村に対して、鳴海はうんざりしつつも、負けないようあえて声を張り上げた。

「いたいた〜」

 席に座ったままの鳴海に気づくと、腰をくねくねさせながらこちらに向かって来た。絶対母はそんな歩き方はしないんだけど。

「あれ!ひろき、お前有名人といるじゃん!」

 葉村は鳴海の机の前に立つ瑞原を見咎めて素に返った。

「え?有名人?」

 驚いて瑞原を見上げると、彼は眉をやや下げて困ったような笑みを浮かべた。

「ははっ。僕、有名人?」
「有名人有名人。だって女子が騒いでんじゃん。かっこいい〜って」

 女子を真似てうっとりとした声を出す葉村。

「そ、そうなんだ」

 驚きのあまり声がうわずってしまった。そんな話は初耳だった。
 確かに鳴海の目から見ても瑞原は整った顔立ちだった。そういえば身長も後ろから数えた方が早い。

 もしくは成績がいいからだろうか。この前の初めての中間テストで上位者名簿に名前があったような気がする。

 (ほんとずるいよなあ)

 しかし、こんなに底が見えなくて不気味な男が、どうしてかっこいいと支持されるんだろう。
 あの日助けてもらった時、すごく強引だったし鳴海よりもずっと突っ走りやすい性格だと思った。

 鳴海もついこの前まで瑞原のことをよく知らなかった。だから学校の人間も以前の鳴海と同じように、彼のそんな一面を知らないのだろう。普段の落ち着きのある瑞原しか見たことがないのだ。

 そんな考え事をしていると、葉村が瑞原に顔を近づけてひそひそと猫撫で声でなにか尋ねていた。

「ねえねえ〜。ひろちゃんのよしみで教えてよぉ。中庭で三年の女子に告られたって、まじー?」
「あ……うん、実は」

 瑞原はきまりが悪そうに答えた。

「ええーー!すげー!うらやまし〜。いいなー」

 のけぞって叫ぶ葉村とまではいかないが、確かに羨ましい。まだ高校に入って半年も経ってないのに、そんなことがあるのか。
 想像すると落ち着かない気持ちになる。

「でも断ったよ」

 瑞原は追及を許さぬようにぴしゃりと言い放った。本人の中ではなかったことにしたい出来事なのかもしれない。

「え、まじで!?なんでだよ?もったいねぇなあ!」

 そんな雰囲気も全く意に介さずに問いつめるのが葉村だ。瑞原は葉村に一瞬面食らったような顔をしてから、少し悩んで答えた。

「なんで……うーん、あんまり興味が持てなかったからかな」
「はー?そういうのは取り敢えず付き合っとくんだよ!年上最高じゃん!」

 葉村が品のない言葉を叫んで、まだ教室に残っていた女子にじとりと睨みつけられる。

「声がでかいよ、葉村」

 叫んだ葉村をとりあえずポーズとして諌めたが、もったいないという意見には同意だった。

「あ、そろそろ時間だ。もう行かないと」

 瑞原は自分の席に戻って鞄を肩にかけると、また明日と手を上げて早々に教室をあとにした。

「あー、逃げられたー!」
「残念だったな」

 さすがの葉村も初対面の瑞原には強く出れなかったのか、出て行く彼をそのまま見送った。
 鳴海や愉吉とかに対してなら、羽交い締めにしてでも質問攻めにしてきそうなものだ。まあそんな浮いた話はないのだが。

「ひろき、今度詳しく聞いとけよ。喋ってたってことはそれなりに仲良いんだろ」

 そう言われて鳴海は首を横に振った。

「いや、別に仲良いわけじゃない。瑞原がモテるなんて全然知らなかった」
「そうなのか?」
「うん。この前初めてちゃんと話したし」

 葉村が意外そうに聞き返したので、瑞原と関わって日が浅いことを付け加えた。

「へー、じゃあさっきまで何話してたんだ?」
「え……ああ、ちょっと事務連絡というかなんというか」

 自転車を預かって貰っていることを言ったら、あの日のことまで説明することになりそうだった。瞬時に思い立ってなんとか誤魔化す。
 知られたらなんて揶揄われるかわからない。

「ふーん。まあ、ひろきに帰る前わざわざ話に来るなんて俺くらいか!」
「は?なめんなよ!」

 馬鹿にしたような葉村の発言に、噛み付くように返事をする。

「まあそうカリカリすんなって」
「カリカリしてない!」

 葉村がはははっと笑って肩に置いた手を、勢いよく振り払う。
 そんなやりとりをしてると、後ろから声がかかった。

「葉村〜、お前コート張りに行かんでええんか?またこんなとこで油売ってっと先輩に怒られんで」

 鳴海の肩に愉吉の重い腕が乗った。不愉快を込めて睨みあげる。どうしてどいつもこいつも肩に乗っかってくるんだ。

「うわっ!あかんやであかんやで〜!しばかれる〜」

 パッと教室の掛け時計を見てじたばたと喚く葉村に、愉吉は眉を顰める。

「なんやそれ!関西弁か?」

 葉村は愉吉の文句に構わず、エナメルバッグのショルダーを頭に引っ掛けて、扉の方へ大股で進んだ。そしていきなりその歩を止めたかと思うと、こちらに振り返って言い放った。

「そうだ、ひろき!今日母さんが家に食べに来いって」
「わかった」
「ほな、ひろちゃーん、まんさつー!おおきにー!」

 鳴海と愉吉のどちらも非公認の渾名で挨拶を済ませると、手をひらひらと振って今度こそ教室を後にした。廊下に出たら、もうでかい声でバレー部の同期を探している。

「……地元にもあんなお調子者おらへん」

 愉吉はやれやれといったようにそう呟いた。若干同情しながらも葉村のパワーに疲弊している愉吉を見るのは少しおかしかった。愉吉は案外常識人なのだ。

「よう鳴海は葉村の幼馴染やってんなー」
「まあね」

 得意げに笑みを浮かべると、愉吉はぷっと吹き出した。

「お前も大概やったな」
「え?」

 意味が分からず愉吉を見上げると、彼はいっそう笑った。

「まあええわ。はよ帰ろ」
「……いいけど。てか、愉吉部活は?」
「今日はオフの曜日や。まだ覚えてくれへんの?」
 愉吉が残念そうに言った。
「あれ。そうだっけ?」
「うん。バレーが今日体育館やからな」

 愉吉はバドミントン部だ。バドミントン部もバレー部やバスケ部と同じく体育館で行う部活だ。たまに半面ずつ使うこともあるらしいが、基本的にはひとつの部活が全面使っているらしい。

「ふーん。なんか外周とかあんのかと」
「今日は完全オフ」
「へー。よかったね」

 鳴海も立ち上がってリュックを背負うと、と愉吉ともにそんなやり取りをしながら教室をあとにした。
 久しぶりの学校も賑やかでなかなか悪くなかった。