僕の友人で、ちょっと気持ちの悪い人がいる。
友人と呼ぶべきかどうか迷ったけれど、ほかに良い呼び方も思いつかなかったので仕方がない。
名前は知らない。まだ聞いていなかったからだ。
ちょうど今から聞きに行くつもりで、少しどきどきとしている。
でも、誤解がないように言っておくと、僕はその気持ちの悪い友人のことを、嫌いではないのだ。
---
大きなガラス窓に囲まれた渡り廊下は、昼の光をそのまま流し込んだみたいに明るく、けれどどこか冷たかった。外の景色はよく見えるのに、空気は閉じ込められている。その透明な箱の中を抜けて、階段を降りると、体育館へと繋がる無機質な金属の引き戸が現れる。
後ろから騒がしい声が膨らむように近づいてきた。笑い声と混ざった足音が、コンクリートに乾いたリズムを刻む。鳴海は一歩、反射的に右へ体を避けた。避けたというより、押し出されるように端へ寄った。
するとすぐに、横を同級生たちが通り過ぎていく。踵を潰した体育館履きで、床を擦るような足取り。誰もそれを気にしていない様子で、むしろその雑さが当たり前のように見えた。
鳴海は思わず、自分の足元を見下ろした。白くて、まだ新品の艶を残した体育館履き。つま先にも、かかとにも汚れはほとんどない。まだ中学に入学して数ヶ月も経っていないのだから、綺麗なほうが正しいし、良いことのはずだった。
――なのに。
胸の奥で、小さなざわめきが広がる。水面に落ちた小石みたいに、静かな波紋が何重にも重なっていく。その理由ははっきりしない。ただ、取り残されているような、妙な心細さだけがじわじわと広がった。
鳴海は突然、走り出した。
理由なんてなかった。ただ、そのざわつきを振り切るみたいに、体が勝手に前へ出た。前を歩く人たちの隙間を縫うようにして、肩が触れそうになりながらもすり抜ける。急ぐ必要なんてどこにもない渡り廊下の数メートルを、無駄に速い足取りで駆け抜ける。
その勢いのまま、体育館の中へ転がり込むように飛び込んだ。
足を止めて、ひとつ息を吐く。少しだけ乱れた呼吸を整えてから顔を上げると、すでに大半の生徒が壇上前に集まって、雑多な群れを作っていた。
たのしそうに戯れあうクラスメイトたち。笑い声が跳ねて、誰かが誰かの肩を叩き、軽口が飛び交う。視線を巡らせると、向こうに、いつもよく話す友人の齊藤愉吉の姿もあった。身振りを交えながら何かを話していて、その周りに自然と人が集まっている。
こちらにはまだ気づいていないだけだ。声をかければ、きっとすぐに振り向いて、いつものように輪の中に入れてくれるだろう。
――けれど。
今はなぜか、その中に加わる気が起きなかった。
足が動かないわけではない。ただ、踏み出す理由が見つからないだけだ。鳴海はその場に立ったまま、ぼんやりとみんなを眺めていた。少し離れた場所から、遠巻きに。まるでガラス一枚を隔てて、別の空間を覗き込んでいるみたいだった。
音も、温度も、確かに届いているのに、どこか現実感が薄い。
「鳴海くん」
突然、背後から声がした。
聞き慣れない声だった。自分の名前を呼んでいるのに、記憶のどこにも引っかからない響き。
鳴海は弾かれたみたいに振り返った。考えるより先に体が動いていた。
「一緒にやろう、柔軟」
「へ……?」
想定していなかった相手から、想定していなかった言葉を向けられると、頭の中が一瞬空白になる。言葉がうまく繋がらない。
声の主は、クラスメイトの瑞原和馬だった。
同じクラスになってから初めて話す。中学に入って四月からずっと同じ教室にいたはずなのに、まともに会話をした記憶がない。落ち着いた声のトーンと、すらりとした背の高さが相まって、どこか上級生みたいな雰囲気をまとっている。
正直、ほんの一瞬だけ身構えてしまった。自分のさっきまでの様子が変に見えて、何か言われるのかと思ったのだ。
「僕?」
「うん。今日はひとりだったから。声かけちゃった」
瑞原は、ほんの少し目を細めて笑うような表情を見せた。その仕草は控えめなのに、妙に印象に残る。
「……いいけど」
断る理由も見つからなかった。鳴海はその場にすとんと腰を下ろし、床に足を大きく開いて座る。体育館の床はひんやりしていて、掌にかすかなざらつきが伝わった。
上のほうから視線を感じて顔を上げると、瑞原はまだ立ったまま、鳴海を見下ろしていた。少しだけ間があって、その視線が遅れて動く。
「座りなよ」
声をかけると、瑞原はわずかによろけるようにして、「うん」と頷き、正面に腰を下ろした。
そのまま向かい合って、両手を取る。開いた足の踵同士を合わせ、互いに引っ張り合う姿勢になる。ありふれた柔軟運動のはずなのに、正面からじっと向き合う形になると、妙に意識してしまう。
改めて近くで見ると、瑞原は生真面目そうな顔立ちをしていた。整っているというより、きちんとしている感じ。なんとなく、シワひとつない綺麗なベッドで寝ていそうな感じがする。小学校の頃には見かけなかった顔だから、きっと別の学区から来たのだろう。
少なくとも、自分の周りにはいなかったタイプだ。
「鳴海くんてさ」
瑞原が鳴海を引っ張りながら、ぽつりと口を開いた。
うん、と短く相槌を打つ。少しぎこちない声になったのは、自分でもわかった。
「優しいよね」
「え?」
予想していなかった言葉に、思わず聞き返す。意味を取り損ねたみたいに。
「いいなって思って」
返ってきたのは、曖昧で柔らかい言葉だった。輪郭がぼやけているのに、真っ直ぐで逃げ場がない。
「……え……そう?」
体育館の床に視線を落としたまま、鳴海は曖昧に返す。何を根拠にそう言っているのかもわからないし、どう返せばいいのかもわからない。
――こいつ、いきなり何言ってるんだ。
そんな疑問が頭の隅に浮かびつつも、突然褒められたことで、わずかに頬のあたりが熱くなるのを感じた。
しばらくして、瑞原は引っ張る力を緩めた。
体を起こした瞬間、視線がぶつかる。
瑞原の目は黒目がちで、近くで見ると焦点がどこにあるのか掴みにくい。まっすぐ見られているはずなのに、どこか掴めない感覚があって、少し怖い。
離れているときはそんな印象はなかった。むしろ、笑うと弧を描く目元が柔らかくて、どこか潤んでいるように見えて、穏やかな雰囲気すらあったのに。
その目から、なぜか視線を逸らせなくなる。
縫い止められたみたいに動けない。何か言わなければ、と思うほど、言葉が浮かばなくなる。
「……やさしそう……瑞原も」
やっと絞り出したのは、そんな言葉だった。
本心では、どちらかといえば逆の印象を持っていたのに。だからこそ、微妙な間と、少し棒読み気味の響きがそのまま乗ってしまった。
相手が喜びそうなことを言うのは、癖みたいなものだった。そうすればなんとなく運気が良くなる気がしていた。
「ははっ。そうかな……優しそうって言われたのは初めてかも」
瑞原はそう言って、少しだけ照れたように目を細めた。
その表情を見ていると、さっき感じた違和感が少しだけ薄れる。悪い人間ではなさそうだ、という曖昧な安心感がじんわりと広がった。
「あんまり話したことなかったよね。でも、ずっと話したいと思ってたんだ」
「ぇ……ああ、よろしく……」
鳴海は、もたもたと歯切れの悪い返事をした。
------
机にしまっていた数学の補足的なドリルを取り出してから、その重さにうんざりして、やはり机にしまい直した。筆箱と宿題に使う地理の地図帳だけを机から抜き取ると、通学用の黒いリュックの中にしまった。
ため息をついて立ち上がると、背中にものすごい衝撃が来た。思わずびくっと肩が上がる。
真後ろから飛びかかってきたのは、幼馴染の葉村だった。
「加減!」
後ろを振り返って、文句を言うと、葉村はそんな鳴海の意思表示はお構いなしに、けたけたと笑っている。気を抜いているタイミングでばっちりと脅かしてくるので、毎回それなりに驚いてしまうのが悔しい。反応を見てからかっているのだ。
「は〜これをやるために学校来てんのよー」
「はいはい。もう帰るんだけど」
適当に流して通学リュックを背負った。軽く弾みながら学ランの裾をひっぱって、リュックを体に馴染ませる。
「えーやだ〜。もう帰んの〜ひろちゃん〜」
「母親やんな!」
「いいじゃないのーカリカリしなさんな〜ひろちゃん〜」
鳴海は小さい頃から母親にひろちゃんという愛称で呼ばれている。それを知っている葉村はからかうとき鉄板ネタとばかりに「ひろちゃん」という呼び方を乱用してくるのだ。
「うるさいなー……あ!」
「え?なになに?」
きょとんとした顔の葉村に、鳴海はにやにやしながら答える。
「そういえばー、『モルガン戦記』の新刊読み終わったけど返さないでおこうかなー」
『モルガン戦記』というのは今はまっているファンタジー系のライトノベルのことだ。葉村も同じく夢中になっている。
悪い顔をしながら脅しでそんなことを言うと、葉村は血相を変えて叫んだ。
「は!?お前、それはないぞー!おい絶対いますぐ返せ!図書室連行な!」
鳴海は葉村にヘッドロックされるような形で首をホールドされる。やめろ、やめろと騒ぎながら、ふと顔を上げたとき、向こうに佇む瑞原とばちりと目があった。
(うわっ……!)
瑞原は黒板の桟にある黒板消しに手を置いたまま、あの黒黒とした目でこちらをじっと見ている。彼は今日、日直当番で黒板を綺麗にしたところのようだった。
鳴海は思わずさっと目を逸らした。
「次に借りるのが俺ってことになってるだろうが〜お前には義理ってもんがないのか!」
などと葉村が言ってるのが耳に届いて、
「知らないよそんなの」
と平静を装って返事をしたけれど、この時とにかく瑞原の方を見ないようにすることに神経が行っていた。
目を逸らした後もまだ彼に見られているような気がして、もう一度目が合ってしまったら嫌だったからだ。さっき授業ではじめて喋ったのに、いきなり目を逸らしたりして感じが悪かったかもしれない。
しかし、瞬時にいいやと心の中で被りをふる。
瑞原も瑞原だ。今日話したばかりのクラスメイトを舐めつけるように見ることはないだろう。あんなにじっと真顔で見つめられていてはこちらとしてもたまらない。
そう納得させて葛藤を頭の隅に追いやってしまうと、葉村とともにそのまま教室をあとにした。
鳴海らの教室は、校舎の北側に位置していて3階にあるが、図書室は南側の端の2階にある。
3階の教室は1年生の教室と2年生のクラスの一部の教室がある。通り過ぎる時どの教室にも人があまり残っていなかった。多くても5人程度だった。一方、廊下にはたむろしておしゃべりしている人たちがたくさんいた。
図書室まで行くには校舎の端から端まで移動しなくてはならないので、少し面倒である。人と人の間を縫うようにして進まなければならない。
前を歩く葉村は、すれ違いざまに部活の先輩や同期らしき相手に声をかけられたり、肩を叩かれたりしている。
それらにときにふざけたりときに怒ったりしながら笑顔で答えてる葉村を見ると、幼なじみでなければ葉村とは友達ではなかっただろうな、と思った。
そもそも話す機会がなかったかもしれない。
葉村の友達とは友達ではないので、なんとなく顔を伏せたり、別の方向を見てしまう。ここで自分も「やあ」とかなんとか言ったら、顔を覚えられて友達が増えたりするんだろうか。
やっと図書室に到着した。木目調のあったかい感じがするつくりで、カーペットが敷いてあって寛げるスペースもある。本離れを食い止めるために、きれいにリフォームしたらしい。
リュックから『モルガン戦記』の最新刊を取り出してカウンターに置いた。隣で葉村は満足げにうんうんと、頷いている。
「やっぱかっこいいよ、大佐」
「まじ?今回も活躍する?」
鳴海がにやりとして独り言みたいにつぶやくと、葉村は貸し出し処理を終えた本を受け取りながらすかさず尋ねた。
「いや。戦闘には参加しないけど、いろいろ根回しする」
「え〜参加しないのかよ〜」
「まあでも次あたりで前線出てくるんじゃない?」
葉村は戦闘に参加しないことを残念がっているけれど、鳴海はこの巻の大佐が大好きだった。実のところもうネタバレしたくてたまらない。しかしさすがに葉村に怒られそうなので、なんとかその衝動を堪えている。
「あっ!やばい!部活はじまる!」
葉村は図書室にある時計を見て叫んだ。司書の先生にシーというジェスチャーをされる。葉村はすんません、と短めに小声で言って首をへこっとさせた。
「準備一年でしょ」
「そう!急がないと。じゃあな!」
葉村は急いでエナメルバッグを持つと、借りた本片手に勢いよく図書室を飛び出して行った。
嵐のように去った葉村に取り残されたが、特に図書室でこれ以上することもなかったので、家へ帰ることにした。
すぐ下の階に降りて、昇降口へとぼとぼと向かう。もう廊下にもちらほらとしか人がいない。皆、一緒に帰る人を見つけたか、部活へ行ったのだろう。
周りが静かになったことで、外で雨音がしていることにやっと気がついた。いつの間にか雨が降り始めたようだ。
帰るとき、履いてきた靴がぐちょぐちょになってしまうかもしれない。中学入学前に新調した気に入っている運動靴なのにと思いながら、靴箱から取り出してパタンと昇降口の地面に置いた。
「鳴海くん」
「うわっ!」
後ろで声がして振りかえると瑞原が立っていた。音も気配もなく後ろにいたので思わず叫んでしまった。
「びっくりした……」
「雨降ってるね。やだなぁ」
彼は鳴海の驚きを他所に、静かな眼差しで雨の方を見ている。
「……うん」
先程教室で目を逸らしてしまったため、勝手に少し気まずかった。鳴海は足元の靴に視線を戻すと、すのこに腰を下ろして靴紐を引っ張って解いてから足を片方ずつ通した。手順を頭の中に思い描いて丁寧に蝶々結びをする。
「傘持ってる?」
瑞原は気にしたそぶりもなく、自分の靴を靴箱から取り出しながら尋ねた。
「持ってる」
鳴海は靴を履き終えてから横に置いたリュックに手を突っ込んで、折り畳み傘を探す。
リュックの深くまで腕を入れて色んな方向に手を返してみる。しかし、わかるのは筆箱と地図帳の感触だけだ。
すると突然底の方で生ぬるいなにかが手の甲にぶつかった。なんだろうと思って、掴んで取り出すと、それはどろどろに溶けた保冷剤だった。
「あっ」
(やばい、完全に忘れてた……)
母から預かったチョコケーキを葉村に渡すのを——これはそのケーキを保冷するためのものだった。
幼なじみの葉村の家には保育園の頃からかなりお世話になっている。父が病死して以来夜勤を続けている母は、まだ小さかった鳴海を葉村宅に預けることが多かった。そのため、お礼にたびたびこのチョコケーキを母が焼いて贈っていた。
今は当然ひとりでも留守番ができる。だから葉村の家で放課後を長時間過ごすことは少ないが、彼がすっかり母のケーキの虜になってしまっていたので、変わらず定期的に渡しているのだ。
さっき会ったのに、と後悔してももう遅い。
今から部活をしている葉村に渡しに行くか、と一瞬頭をよぎったが、それは側から見たらきしょすぎるので無しだ。“男”が部活へ差し入れに行く図みたいで、恥ずかしい。
(明日渡せばいいか?いや、保冷剤がついてるってことはあまり持たないのかな……)
今日帰って母に渡しそびれたと言ったら、きっと悲しむだろう。あんなに忙しいのにわざわざ時間をかけて作っていたのだ。「学校から親への大事なプリントを渡さず鞄にしまい込んでいた」ことより重罪かもしれない。
ぐるぐるとあれこれ思い悩んでいたら、そばで気配を感じちらりと見上げる。
するとちょうど瑞原は白の紐靴を座らずにすぱっと履いたところだった。
(……なんかずるいんだよな)
思わずはあ、というため息が出る。
きっと彼には自分みたいなこんな鈍臭い心配事はないのだろう。
「あのさ」
「ん、なに?」
声をかけると瑞原はこちらに視線を寄越した。鳴海はもう一度ガサゴソとリュックの中を漁ってビニールの感触を確かめると、それを引っ張り出した。
「これ」
瑞原の方にビニール袋を突き出すと、彼は目を丸くした。
「え?」
「ケーキ」
ぶっきらぼうに答える。
「……ありがとう」
瑞原は袋を受け取ると戸惑いがちに中を覗き込んで、礼を言った。あまりに突拍子のない鳴海の行動に、目が丸くなっていた。
鳴海はニヤリとほくそ笑む。
「もしかしたらお腹壊すかも」
傷んでるのかどうかもわからないし、甘いものが得意じゃないから、自分で食べようとは思わなかった。だからちょうどすぐそばにいた瑞原に押し付けたのだ。
じっと袋の中を見つめていた瑞原は急に顔をあげた。
「……うれしい、全部食べるよ」
噛み締めるようにそう言って、照れた笑顔を浮かべた。
鳴海は目を瞬いてぎこちなく雨の外に視線を戻すと、今度こそ折り畳み傘を取り出して弾かれたように立ち上がった。尻についた土埃を払い、そそくさと扉の方へ進む。
なんだか申し訳なくなってしまった。そんなに嬉しそうな顔をするとは思っていなかったのだ。
「じゃあね」
「うん、また明日」
最後横目にちらりと瑞原を見たとき、彼は目を細めて手を振っていた。
そんなに甘いものに目がなかったのか。
(まあいっか。これでケーキも報われたよね……)
万事解決とそう心の中で決め込むと、鳴海は勝手な達成感に包まれたまま帰路に着いた。
友人と呼ぶべきかどうか迷ったけれど、ほかに良い呼び方も思いつかなかったので仕方がない。
名前は知らない。まだ聞いていなかったからだ。
ちょうど今から聞きに行くつもりで、少しどきどきとしている。
でも、誤解がないように言っておくと、僕はその気持ちの悪い友人のことを、嫌いではないのだ。
---
大きなガラス窓に囲まれた渡り廊下は、昼の光をそのまま流し込んだみたいに明るく、けれどどこか冷たかった。外の景色はよく見えるのに、空気は閉じ込められている。その透明な箱の中を抜けて、階段を降りると、体育館へと繋がる無機質な金属の引き戸が現れる。
後ろから騒がしい声が膨らむように近づいてきた。笑い声と混ざった足音が、コンクリートに乾いたリズムを刻む。鳴海は一歩、反射的に右へ体を避けた。避けたというより、押し出されるように端へ寄った。
するとすぐに、横を同級生たちが通り過ぎていく。踵を潰した体育館履きで、床を擦るような足取り。誰もそれを気にしていない様子で、むしろその雑さが当たり前のように見えた。
鳴海は思わず、自分の足元を見下ろした。白くて、まだ新品の艶を残した体育館履き。つま先にも、かかとにも汚れはほとんどない。まだ中学に入学して数ヶ月も経っていないのだから、綺麗なほうが正しいし、良いことのはずだった。
――なのに。
胸の奥で、小さなざわめきが広がる。水面に落ちた小石みたいに、静かな波紋が何重にも重なっていく。その理由ははっきりしない。ただ、取り残されているような、妙な心細さだけがじわじわと広がった。
鳴海は突然、走り出した。
理由なんてなかった。ただ、そのざわつきを振り切るみたいに、体が勝手に前へ出た。前を歩く人たちの隙間を縫うようにして、肩が触れそうになりながらもすり抜ける。急ぐ必要なんてどこにもない渡り廊下の数メートルを、無駄に速い足取りで駆け抜ける。
その勢いのまま、体育館の中へ転がり込むように飛び込んだ。
足を止めて、ひとつ息を吐く。少しだけ乱れた呼吸を整えてから顔を上げると、すでに大半の生徒が壇上前に集まって、雑多な群れを作っていた。
たのしそうに戯れあうクラスメイトたち。笑い声が跳ねて、誰かが誰かの肩を叩き、軽口が飛び交う。視線を巡らせると、向こうに、いつもよく話す友人の齊藤愉吉の姿もあった。身振りを交えながら何かを話していて、その周りに自然と人が集まっている。
こちらにはまだ気づいていないだけだ。声をかければ、きっとすぐに振り向いて、いつものように輪の中に入れてくれるだろう。
――けれど。
今はなぜか、その中に加わる気が起きなかった。
足が動かないわけではない。ただ、踏み出す理由が見つからないだけだ。鳴海はその場に立ったまま、ぼんやりとみんなを眺めていた。少し離れた場所から、遠巻きに。まるでガラス一枚を隔てて、別の空間を覗き込んでいるみたいだった。
音も、温度も、確かに届いているのに、どこか現実感が薄い。
「鳴海くん」
突然、背後から声がした。
聞き慣れない声だった。自分の名前を呼んでいるのに、記憶のどこにも引っかからない響き。
鳴海は弾かれたみたいに振り返った。考えるより先に体が動いていた。
「一緒にやろう、柔軟」
「へ……?」
想定していなかった相手から、想定していなかった言葉を向けられると、頭の中が一瞬空白になる。言葉がうまく繋がらない。
声の主は、クラスメイトの瑞原和馬だった。
同じクラスになってから初めて話す。中学に入って四月からずっと同じ教室にいたはずなのに、まともに会話をした記憶がない。落ち着いた声のトーンと、すらりとした背の高さが相まって、どこか上級生みたいな雰囲気をまとっている。
正直、ほんの一瞬だけ身構えてしまった。自分のさっきまでの様子が変に見えて、何か言われるのかと思ったのだ。
「僕?」
「うん。今日はひとりだったから。声かけちゃった」
瑞原は、ほんの少し目を細めて笑うような表情を見せた。その仕草は控えめなのに、妙に印象に残る。
「……いいけど」
断る理由も見つからなかった。鳴海はその場にすとんと腰を下ろし、床に足を大きく開いて座る。体育館の床はひんやりしていて、掌にかすかなざらつきが伝わった。
上のほうから視線を感じて顔を上げると、瑞原はまだ立ったまま、鳴海を見下ろしていた。少しだけ間があって、その視線が遅れて動く。
「座りなよ」
声をかけると、瑞原はわずかによろけるようにして、「うん」と頷き、正面に腰を下ろした。
そのまま向かい合って、両手を取る。開いた足の踵同士を合わせ、互いに引っ張り合う姿勢になる。ありふれた柔軟運動のはずなのに、正面からじっと向き合う形になると、妙に意識してしまう。
改めて近くで見ると、瑞原は生真面目そうな顔立ちをしていた。整っているというより、きちんとしている感じ。なんとなく、シワひとつない綺麗なベッドで寝ていそうな感じがする。小学校の頃には見かけなかった顔だから、きっと別の学区から来たのだろう。
少なくとも、自分の周りにはいなかったタイプだ。
「鳴海くんてさ」
瑞原が鳴海を引っ張りながら、ぽつりと口を開いた。
うん、と短く相槌を打つ。少しぎこちない声になったのは、自分でもわかった。
「優しいよね」
「え?」
予想していなかった言葉に、思わず聞き返す。意味を取り損ねたみたいに。
「いいなって思って」
返ってきたのは、曖昧で柔らかい言葉だった。輪郭がぼやけているのに、真っ直ぐで逃げ場がない。
「……え……そう?」
体育館の床に視線を落としたまま、鳴海は曖昧に返す。何を根拠にそう言っているのかもわからないし、どう返せばいいのかもわからない。
――こいつ、いきなり何言ってるんだ。
そんな疑問が頭の隅に浮かびつつも、突然褒められたことで、わずかに頬のあたりが熱くなるのを感じた。
しばらくして、瑞原は引っ張る力を緩めた。
体を起こした瞬間、視線がぶつかる。
瑞原の目は黒目がちで、近くで見ると焦点がどこにあるのか掴みにくい。まっすぐ見られているはずなのに、どこか掴めない感覚があって、少し怖い。
離れているときはそんな印象はなかった。むしろ、笑うと弧を描く目元が柔らかくて、どこか潤んでいるように見えて、穏やかな雰囲気すらあったのに。
その目から、なぜか視線を逸らせなくなる。
縫い止められたみたいに動けない。何か言わなければ、と思うほど、言葉が浮かばなくなる。
「……やさしそう……瑞原も」
やっと絞り出したのは、そんな言葉だった。
本心では、どちらかといえば逆の印象を持っていたのに。だからこそ、微妙な間と、少し棒読み気味の響きがそのまま乗ってしまった。
相手が喜びそうなことを言うのは、癖みたいなものだった。そうすればなんとなく運気が良くなる気がしていた。
「ははっ。そうかな……優しそうって言われたのは初めてかも」
瑞原はそう言って、少しだけ照れたように目を細めた。
その表情を見ていると、さっき感じた違和感が少しだけ薄れる。悪い人間ではなさそうだ、という曖昧な安心感がじんわりと広がった。
「あんまり話したことなかったよね。でも、ずっと話したいと思ってたんだ」
「ぇ……ああ、よろしく……」
鳴海は、もたもたと歯切れの悪い返事をした。
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机にしまっていた数学の補足的なドリルを取り出してから、その重さにうんざりして、やはり机にしまい直した。筆箱と宿題に使う地理の地図帳だけを机から抜き取ると、通学用の黒いリュックの中にしまった。
ため息をついて立ち上がると、背中にものすごい衝撃が来た。思わずびくっと肩が上がる。
真後ろから飛びかかってきたのは、幼馴染の葉村だった。
「加減!」
後ろを振り返って、文句を言うと、葉村はそんな鳴海の意思表示はお構いなしに、けたけたと笑っている。気を抜いているタイミングでばっちりと脅かしてくるので、毎回それなりに驚いてしまうのが悔しい。反応を見てからかっているのだ。
「は〜これをやるために学校来てんのよー」
「はいはい。もう帰るんだけど」
適当に流して通学リュックを背負った。軽く弾みながら学ランの裾をひっぱって、リュックを体に馴染ませる。
「えーやだ〜。もう帰んの〜ひろちゃん〜」
「母親やんな!」
「いいじゃないのーカリカリしなさんな〜ひろちゃん〜」
鳴海は小さい頃から母親にひろちゃんという愛称で呼ばれている。それを知っている葉村はからかうとき鉄板ネタとばかりに「ひろちゃん」という呼び方を乱用してくるのだ。
「うるさいなー……あ!」
「え?なになに?」
きょとんとした顔の葉村に、鳴海はにやにやしながら答える。
「そういえばー、『モルガン戦記』の新刊読み終わったけど返さないでおこうかなー」
『モルガン戦記』というのは今はまっているファンタジー系のライトノベルのことだ。葉村も同じく夢中になっている。
悪い顔をしながら脅しでそんなことを言うと、葉村は血相を変えて叫んだ。
「は!?お前、それはないぞー!おい絶対いますぐ返せ!図書室連行な!」
鳴海は葉村にヘッドロックされるような形で首をホールドされる。やめろ、やめろと騒ぎながら、ふと顔を上げたとき、向こうに佇む瑞原とばちりと目があった。
(うわっ……!)
瑞原は黒板の桟にある黒板消しに手を置いたまま、あの黒黒とした目でこちらをじっと見ている。彼は今日、日直当番で黒板を綺麗にしたところのようだった。
鳴海は思わずさっと目を逸らした。
「次に借りるのが俺ってことになってるだろうが〜お前には義理ってもんがないのか!」
などと葉村が言ってるのが耳に届いて、
「知らないよそんなの」
と平静を装って返事をしたけれど、この時とにかく瑞原の方を見ないようにすることに神経が行っていた。
目を逸らした後もまだ彼に見られているような気がして、もう一度目が合ってしまったら嫌だったからだ。さっき授業ではじめて喋ったのに、いきなり目を逸らしたりして感じが悪かったかもしれない。
しかし、瞬時にいいやと心の中で被りをふる。
瑞原も瑞原だ。今日話したばかりのクラスメイトを舐めつけるように見ることはないだろう。あんなにじっと真顔で見つめられていてはこちらとしてもたまらない。
そう納得させて葛藤を頭の隅に追いやってしまうと、葉村とともにそのまま教室をあとにした。
鳴海らの教室は、校舎の北側に位置していて3階にあるが、図書室は南側の端の2階にある。
3階の教室は1年生の教室と2年生のクラスの一部の教室がある。通り過ぎる時どの教室にも人があまり残っていなかった。多くても5人程度だった。一方、廊下にはたむろしておしゃべりしている人たちがたくさんいた。
図書室まで行くには校舎の端から端まで移動しなくてはならないので、少し面倒である。人と人の間を縫うようにして進まなければならない。
前を歩く葉村は、すれ違いざまに部活の先輩や同期らしき相手に声をかけられたり、肩を叩かれたりしている。
それらにときにふざけたりときに怒ったりしながら笑顔で答えてる葉村を見ると、幼なじみでなければ葉村とは友達ではなかっただろうな、と思った。
そもそも話す機会がなかったかもしれない。
葉村の友達とは友達ではないので、なんとなく顔を伏せたり、別の方向を見てしまう。ここで自分も「やあ」とかなんとか言ったら、顔を覚えられて友達が増えたりするんだろうか。
やっと図書室に到着した。木目調のあったかい感じがするつくりで、カーペットが敷いてあって寛げるスペースもある。本離れを食い止めるために、きれいにリフォームしたらしい。
リュックから『モルガン戦記』の最新刊を取り出してカウンターに置いた。隣で葉村は満足げにうんうんと、頷いている。
「やっぱかっこいいよ、大佐」
「まじ?今回も活躍する?」
鳴海がにやりとして独り言みたいにつぶやくと、葉村は貸し出し処理を終えた本を受け取りながらすかさず尋ねた。
「いや。戦闘には参加しないけど、いろいろ根回しする」
「え〜参加しないのかよ〜」
「まあでも次あたりで前線出てくるんじゃない?」
葉村は戦闘に参加しないことを残念がっているけれど、鳴海はこの巻の大佐が大好きだった。実のところもうネタバレしたくてたまらない。しかしさすがに葉村に怒られそうなので、なんとかその衝動を堪えている。
「あっ!やばい!部活はじまる!」
葉村は図書室にある時計を見て叫んだ。司書の先生にシーというジェスチャーをされる。葉村はすんません、と短めに小声で言って首をへこっとさせた。
「準備一年でしょ」
「そう!急がないと。じゃあな!」
葉村は急いでエナメルバッグを持つと、借りた本片手に勢いよく図書室を飛び出して行った。
嵐のように去った葉村に取り残されたが、特に図書室でこれ以上することもなかったので、家へ帰ることにした。
すぐ下の階に降りて、昇降口へとぼとぼと向かう。もう廊下にもちらほらとしか人がいない。皆、一緒に帰る人を見つけたか、部活へ行ったのだろう。
周りが静かになったことで、外で雨音がしていることにやっと気がついた。いつの間にか雨が降り始めたようだ。
帰るとき、履いてきた靴がぐちょぐちょになってしまうかもしれない。中学入学前に新調した気に入っている運動靴なのにと思いながら、靴箱から取り出してパタンと昇降口の地面に置いた。
「鳴海くん」
「うわっ!」
後ろで声がして振りかえると瑞原が立っていた。音も気配もなく後ろにいたので思わず叫んでしまった。
「びっくりした……」
「雨降ってるね。やだなぁ」
彼は鳴海の驚きを他所に、静かな眼差しで雨の方を見ている。
「……うん」
先程教室で目を逸らしてしまったため、勝手に少し気まずかった。鳴海は足元の靴に視線を戻すと、すのこに腰を下ろして靴紐を引っ張って解いてから足を片方ずつ通した。手順を頭の中に思い描いて丁寧に蝶々結びをする。
「傘持ってる?」
瑞原は気にしたそぶりもなく、自分の靴を靴箱から取り出しながら尋ねた。
「持ってる」
鳴海は靴を履き終えてから横に置いたリュックに手を突っ込んで、折り畳み傘を探す。
リュックの深くまで腕を入れて色んな方向に手を返してみる。しかし、わかるのは筆箱と地図帳の感触だけだ。
すると突然底の方で生ぬるいなにかが手の甲にぶつかった。なんだろうと思って、掴んで取り出すと、それはどろどろに溶けた保冷剤だった。
「あっ」
(やばい、完全に忘れてた……)
母から預かったチョコケーキを葉村に渡すのを——これはそのケーキを保冷するためのものだった。
幼なじみの葉村の家には保育園の頃からかなりお世話になっている。父が病死して以来夜勤を続けている母は、まだ小さかった鳴海を葉村宅に預けることが多かった。そのため、お礼にたびたびこのチョコケーキを母が焼いて贈っていた。
今は当然ひとりでも留守番ができる。だから葉村の家で放課後を長時間過ごすことは少ないが、彼がすっかり母のケーキの虜になってしまっていたので、変わらず定期的に渡しているのだ。
さっき会ったのに、と後悔してももう遅い。
今から部活をしている葉村に渡しに行くか、と一瞬頭をよぎったが、それは側から見たらきしょすぎるので無しだ。“男”が部活へ差し入れに行く図みたいで、恥ずかしい。
(明日渡せばいいか?いや、保冷剤がついてるってことはあまり持たないのかな……)
今日帰って母に渡しそびれたと言ったら、きっと悲しむだろう。あんなに忙しいのにわざわざ時間をかけて作っていたのだ。「学校から親への大事なプリントを渡さず鞄にしまい込んでいた」ことより重罪かもしれない。
ぐるぐるとあれこれ思い悩んでいたら、そばで気配を感じちらりと見上げる。
するとちょうど瑞原は白の紐靴を座らずにすぱっと履いたところだった。
(……なんかずるいんだよな)
思わずはあ、というため息が出る。
きっと彼には自分みたいなこんな鈍臭い心配事はないのだろう。
「あのさ」
「ん、なに?」
声をかけると瑞原はこちらに視線を寄越した。鳴海はもう一度ガサゴソとリュックの中を漁ってビニールの感触を確かめると、それを引っ張り出した。
「これ」
瑞原の方にビニール袋を突き出すと、彼は目を丸くした。
「え?」
「ケーキ」
ぶっきらぼうに答える。
「……ありがとう」
瑞原は袋を受け取ると戸惑いがちに中を覗き込んで、礼を言った。あまりに突拍子のない鳴海の行動に、目が丸くなっていた。
鳴海はニヤリとほくそ笑む。
「もしかしたらお腹壊すかも」
傷んでるのかどうかもわからないし、甘いものが得意じゃないから、自分で食べようとは思わなかった。だからちょうどすぐそばにいた瑞原に押し付けたのだ。
じっと袋の中を見つめていた瑞原は急に顔をあげた。
「……うれしい、全部食べるよ」
噛み締めるようにそう言って、照れた笑顔を浮かべた。
鳴海は目を瞬いてぎこちなく雨の外に視線を戻すと、今度こそ折り畳み傘を取り出して弾かれたように立ち上がった。尻についた土埃を払い、そそくさと扉の方へ進む。
なんだか申し訳なくなってしまった。そんなに嬉しそうな顔をするとは思っていなかったのだ。
「じゃあね」
「うん、また明日」
最後横目にちらりと瑞原を見たとき、彼は目を細めて手を振っていた。
そんなに甘いものに目がなかったのか。
(まあいっか。これでケーキも報われたよね……)
万事解決とそう心の中で決め込むと、鳴海は勝手な達成感に包まれたまま帰路に着いた。
