因習と春一番

 マットレスなしで、畳に直接敷いた布団で寝たせいか、朝起きると背中がちょっと痛かった。

 犬塚はまだ寝息を立てていたので、起こさずそのまま寝かせておくことにした。
 布団から抜け出して顔を洗い、朝日の昇る猿千村の空を庭から眺める。電池が減ってきたスマホを見ると、時刻は朝の六時半。犬塚が起きてくるまで何をして過ごそうかと悩んで、散歩に出かけることにした。

 カメラを持っていこうかとも考えたけど、結局何も持たずに出た。村の写真は昨日のうちにたくさん撮ったし、犬塚の話が本当なら今日から七日間ここに滞在することになるのだ。それならあわてて撮らなくてもいいだろう。

 そっと玄関の引き戸を開けて外に出る。
 朝焼けの美しい空の下を歩く。昨日よりもかなり気温が高いようで、上着を着なくても全然寒くない。もうすぐ春なんだ、と改めて思う。
 これといった事件もニュースもなく平和に高校生活の一年目が終わろうとしていたのに、最後の最後でなんだか妙なことになってしまった。今日から七日間、この村で過ごすことになるなんて──。

 昨日のうちに両親には電話をかけて、猿千村に一週間滞在することについて話をした。
 当然、どういうことだと怒られたし、早く帰ってこいと急かされた。説得に苦労していると──というか、僕自身なにがどうなってこうなっているのかまったく理解できてないのに、説得なんかできるわけがないんだけど──見かねた犬塚が電話を替わってくれた。

 電話口で犬塚が話したことは、明らかにでたらめだった。
 村の近くで山崩れが起こり、道が通れなくなってしまったとか、そんな話。僕に話したときには「決まり」とか「七日間は村を出ちゃいけない」とか言ってたのに。

 とっさに口から出たとは思えない流暢さだった。どうやって僕の両親を説得するか犬塚はずっと考えていたんだろう。
 手の込んだ嘘をついてまで村に留まらせようとするなんて。どうして犬塚はここまでするんだろう。そこまで手を尽くすなんて、村を出たらいったいどうなってしまうんだろう。

 そして、駄目押しに犬塚はこう言った。

「中三まで俺は猿千村に祖父と住んでいたんです。祖父の家で過ごせるので大丈夫です」

 ──この言い方だと、今も祖父が家に住んでいるのだと勘違いするんじゃないか? 嘘ではないけどかなり微妙な言い回しだ。保護者がわりの大人がそばにいるのなら安心だ、と思う人は少なくないだろう。そこで実際、両親はトーンダウンした。実情は違うのに。あとから犬塚に話を聞くと、祖父に電話を替われと言われたら大井商店のおじいさんを呼んでくるつもりだったと平然と言ってのけた。

 そうして、話し合いの末に毎日連絡をすることを条件に滞在の許可が下りたのだった。滞在する村が犬塚の生まれ故郷で、知人の助けも借りられると話したことも効いたんだろう。
 今が学期末で授業はほとんどストップしていることも功を奏した。そうじゃなかったら、勉強を放り出してサボるつもりかと疑われ、もっと怒られていたに違いない。さらに言うと僕が日頃から非行とは縁遠く、よからぬ理由で無断外泊するようなタイプではない、ということは両親が誰よりもよく知っている。

「……」

 流れる川に沿って土手を歩きながら集落を見渡す。
 村の周りに、出られないよう鉄条網の柵が張り巡らされているわけじゃない。屈強な門番が立ってるわけでもない。山崩れも本当は起こっていない。朝になったんだし、荷物をまとめて、山を下りて出て行こうと思えば出ていける。

 ──でも、と思う。

 いくらだめだ帰ってこいと両親から言われても、犬塚に言わせれば村を出てはいけない「決まり」なので、出ることはできない。親からすれば未成年の子供だけで七日間も見知らぬ土地で過ごすなどなにがあるかわからない、危険だと思うだろうし、僕自身もそう思う。
 だけど、犬塚の考えは違う。なぜかはわからないけど、村を出ていくほうがよほど危険だと考えているようだった。

 歩いても歩いても、昨日と同じでやっぱり誰ともすれ違わない。今日はまだ時間が早く、皆が起き出してくる前だからかもしれないけど。

「──あっ」

 誰もいないかと思いきや、反対側から土手を歩いてくる人の姿が見えた。そしてその人が見覚えのある相手だということに気がつく。

 大井のじいさん、と犬塚が昨日呼んでいたあのおじいさんだ。

「大井さん、おはようございます」

 いかにも気難しい雰囲気のひとだったけど、無視して通り過ぎるのもなんだか違う気がする。勇気を出して小走りに近づきながら声をかけると、大井さんは驚いた様子もなく「おう」と短く答えた。

「昨日の東京者(とうきょうもん)か」
「えっ、僕が東京から来たこと覚えてくれてたんですか。ありがとうございます」
「……こっちは嫌味で言うとんのに喜ぶなや。けったいなやつやな」

 呆れたようにため息を吐き出す大井さんは、僕と同じく手ぶらだった。やっぱり僕と同じで朝の散歩に出てきたのかもしれない。

「僕、猿千村の滝の写真を撮りにきたんです。滝のほかにもいいところがあったら教えてくれませんか?」

 そんなものは知らない、とそっけなく言われるだけかもしれないと思いながらも聞いてみた。
 大井さんは少し黙ったあと、僕の予想に反して後ろを振り返って言った。

「このままずーっと川沿いに行ったらな、桃の木があるけんな、それ撮ったらええわ。桜はまだやけどそっちは今が見頃やろ」
「本当ですか。行ってみます!」

 面倒くさそうな、よそよそしい言い方だったけど、教えてくれたことに変わりはない。お礼を言うと大井さんはやっぱり面倒くさそうに首を振った。
 これは思いがけない収穫だ。カメラを持ってまた明日行ってみよう。

「いやー、風が気持ちいいですねー」

 今日は朝から暖かい風が吹いていてとても気持ちがいい。散歩日和だ。寝癖がついたままの髪の毛が風に煽られて、目にかかるのを払い除ける。
 冬の身が縮むような木枯らしとは違う、柔らかな風を受けながらうんと背伸びをする。急ごしらえの寝床で一晩過ごし、凝り固まった身体が少しずつほぐれていくのを感じる。

 大井さんが顔を上げると、白髪混じりの短い髪が風に吹かれて揺れた。

「春一番やなぁ」

 初対面のときからずっと刺々しく冷ややかな声ばかりだった大井さんの、敵意のない素のままの声を初めて聞いた気がした。

 テレビの歌謡曲特集で、かつて一世を風靡したアイドルがそんなタイトルの歌を歌っていた。不思議と古臭いとは感じなかった。
 有名なワンフレーズをハミングで口ずさむと、若いのによう知っとんな、と大井さんは淡々とした声で言った。

「僕の名前、春一っていうんですよ。保科春一。春生まれで」

 これから七日間ここに滞在するのに、その間東京者と呼ばれ続けることになっても困るので、ここで自己紹介をしておくことにした。名乗ったところで、この先も東京者と言われ続ける可能性のほうが高い気もするけど。

「ほうか。ええ名前やな、ぴったりや」

 そう言うと大井さんは再び歩き出し、僕の横を通り過ぎていった。
 もしかしたらそれも嫌味だったのかもしれないけど、いい名前だと言われれば悪い気はしないものだ。大井さんの背中を見送って、僕もまた散歩を再開させることにした。