因習と春一番


 犬塚が生まれ育った家は、集落の山寄りのちょっと奥まった位置にあった。
 縁側から、殺風景な庭と家の外周を囲む低い生垣を眺めていると、

「上京するまではじいちゃんとふたりで住んでたんだ」

 座敷の押し入れを慣れた様子で開けながら犬塚が言った。

 家の鍵など持ってきてないだろうにどうやって入るのかと思いきや、犬塚は勝手口の横の窓に近づいていった。そして窓枠を押すようにして少し揺らしてやると、あっさり外から開けることができた。曰く、「この窓昔からがたついてて、こうやると外からでも開けられるんだよな」。そうして僕らは窓から泥棒みたいに中に入ったのだった。

 ──道中、なんでどうしてと散々文句を言いながらも、結局犬塚についてのこのこここまで来てしまった。

 犬塚の真剣さに押し負けたのもあるし、ほかにこれという案が思いつかったのもある。ひとりで山を下りたところで駅まで無事にたどり着ける自信もなく、心細かったのも理由のひとつだと認めよう。まったく知らない土地で孤軍奮闘するよりは、この村の出身で土地勘もある犬塚のそばにいたほうが安全な気もした。

 今日、そして明日からの七日間を過ごすことになるらしい家の中を見渡す。
 この平屋の一軒家に、犬塚と一緒に住んでいたという祖父の姿は、ない。川辺で会ったあのおじいさんが口にした「葬儀」や「墓参り」といったいくつかのキーワードからも、他界されたんだろうということが窺える。

「半年前にじいちゃんが死んで、空き家になってからも叔父さんが時々来て管理はしてくれてたから、そんなに汚れてないだろ」
「……そうだな」

 案の定だった。半年前に亡くしたばかりじゃ傷もまだ癒えていないだろうに、犬塚の話しぶりは湿っぽいものではなく、さっぱりとしたものだった。それでも、ずっと一緒に暮らしてきた人がいなくなって日が浅いのに、平静でいられるとは思えないから、内心は違うのかもしれない。

 ──やっぱり、犬塚について知らないことばっかりだ。
 祖父とふたり暮らしだったことも今の今まで知らなかった。どうして祖父と暮らすことになったのか、両親はどうしたのか──などなど、知らないことはほかにいくらでもある。知りたいけど、でも、どこまで踏み込んでいいのかわからない。

「電気は……お、ついた」

 試しに目についた照明のスイッチを押してみると、頭上のシーリングライトにあかりが灯った。

「電気と水道はまだ解約してないからあかりもつくし、トイレも使える」
「お、そりゃよかった。必要最低限のライフラインは整ってるってことだ」
「ガスは止まってるからお湯は出ないけどな」
「充分だろ」

 こんな状況で贅沢も言っていられない。むしろ充分過ぎるくらいだ。屋根があって、雨風がしのげるだけでも御の字だ。冷たい水しか出ないシャワーでも身体は洗えるし。

「遺品整理がろくに進んでなかったおかげで、家具もだいたい残ってる。──よっと」

 犬塚は押し入れに仕舞われていた布団を引っ張り出し、畳の上に置いた。

「──布団はこれ使うしかないな。かび臭いと思うけど我慢してくれ。ないよりマシだろ」
「全然平気」

 ひとまずは寝具を広げておいて、湿気とかび臭い匂いを少しでも取ることにする。

「明日は布団干したり掃除したり忙しくなるぞ。ほかに必要なものの調達も明日だな」
「調達って、あの大井商店でか? 大したものは売ってなさそうだったけど……」

 大井商店の店主のおじいさんには申し訳ないけど、都会のコンビニに慣れた人間にとっては物足りないラインナップだろう。
 コンビニに行けば、食べ物飲み物からちょっとした衣類、衛生用品までなんだって手に入る。それこそ七日間過ごすために必要なものはおおよそ手に入るに違いない。それに比べるとどうしても小規模な個人商店は見劣りすると言わざるを得ない。

「麓の町にはコンビニの一軒くらいあると思うけどさぁ……よくわからないけど、とにかく村からは出られないんだろ?」
「あぁ。麓には行けない」
「そこまで行けないとなるとちょっときついんじゃないか?」

 僕が不安を洩らすと、犬塚は安心させるように「大丈夫だ」と力強く頷いた。

「あてがあるんだ」
「あて、なぁ」

 なにか考えがあるらしい。それについても明日話すというので、犬塚の言葉を信じて渋々頷く。

「パンの残りがあるから、晩飯はこれで決まりだな」

 そう言って畳の上に腰をおろしたかと思うと、犬塚はリュックの中から昼飯のパンの残りを取り出した。昼休みの教室でもよく食べている焼きそばパンだ。育ち盛りの男子高校生には明らかに量が足りないけど仕方ない。

 食べながらあぐらをかいた犬塚は、すっかり自宅のように寛いでいる。自宅のように、というか、もともと犬塚の自宅なんだから当然か。僕も犬塚にならって、リュックからパンと小腹を満たすために買ったスナック菓子を取り出す。

 これだけで空腹を満たすことはできないけど、今夜はこれでなんとかしのごう。きゅるきゅると腹の虫が鳴いているけど気にしない。あてがあるという犬塚の言葉に望みを託して、明日からはもう少しちゃんとした食事ができるはずだと信じて、惣菜パンを袋から出す。

 一口かじったとき、視界の端になにかが見えた。なにかが動いた。咀嚼しながらなにげなくそちらを見ると、部屋の壁を伝うそれが視界に飛び込んできた。
 それは八本の長い脚を持ち、ゆっくりと動きだしたかと思えば、まるでこちらをじっと監視しているかのように動きを止めた。

「──う、うわっ……」

 ぎょっとしてパンを手に持ったまま後退る。
 犬塚は遅れて僕の視線の先を追い、悠々と壁を這っているその生き物へと辿りついた。ただし、それを見つけた後の反応は僕の反応とはまるで違っていた。声を上げることも距離を置こうとすることもない。八本足の茶色いその生き物──大きなクモがすぐそこにいるのに。

「クモか」
「いやいやいや、クモかって……それだけ? もっとなんか言うことない?」
「アシダカグモだと思う」
「クモの種類はどうだっていいんだよ。そうじゃなくてさぁ、クモはクモでもデカ過ぎるだろ、何このサイズ感。やばくない? 虫苦手なんだよなぁ……」

 小さなハエトリグモならまだいいけど、このクモは少々、いやかなり大き過ぎる。間違いなく十センチ以上はある。
 ここには殺虫剤もなさそうだし、いったいどうすればいいんだ?

 すぐそばに林だの森だの川だの滝だのある以上、多種多様な虫が生態系をつくっているに決まっている。当たり前だ。仕方ないけど、巨大なクモが闊歩しているこの家で今夜寝るのかと思うと……安眠できる気がしない。

 天井に向かって壁を登っていくクモを睨みつけながら、犬塚を盾にするようにこそこそと後ろに隠れる。

「こんなところに住んでみたいとか言ってたけど、虫がだめなら田舎で暮らすのは厳しいんじゃないか? ムカデだのやたらでかい蛾だのカメムシだのなんだの山ほど出るぞ」
「……慣れるように頑張るし。クモはちょっとアレだけど、蝶とかバッタとかなら、大丈夫だと思うし……」

 精一杯の虚勢を張って言うと、盾改め犬塚は呆れたように笑った。

「──まぁ、虫なんかまだマシなほうだ」

 空になったパンの袋をぐしゃりと手で握り潰し、含みのある言い方をする犬塚に、僕は思わず眉をひそめた。

「虫なんかって……え、まさかクマが出るとか言わないよな?」
「クマが出たって話は聞いたことないな。──それより、早く食って早く寝よう。明日は忙しいって言っただろ」

 話をうやむやにして犬塚は立ち上がった。風呂場の掃除をしてくると言って部屋を後にする。

 天敵のクモとともに部屋に取り残されてしまった。できるだけ天井のほうを気にしないように努力しながら夕飯がわりのパンを食べ進める。
 不可解なことはいくつもあるし、説明してほしいことだらけだけど、とにかくここでしばらく過ごすしかないようだ。ここで七日間過ごす間に、本当に虫も平気になるかもしれない。