「あのさ、本当にこの道で合ってるんだよな?」
「あぁ」
「あてもなく適当に歩いてるようにしか思えないんだけど……」
荒れた獣道を犬塚は迷いのない足取りで進んでいく。僕はついていくのが精一杯で、置いていかれないようにとにかくせっせと足を動かし続ける。
滝を出発してずいぶん経つ。集落はまだ見えてこない。
家も人影も見えず、目に映るのは木と犬塚の背中だけ。頼りになる背中だけど、なかなか着かないのでさすがに少し不安になってくる。心配な気持ちを紛らわせたくてついあれこれ文句を言ったり尋ねたりしてしまう。犬塚はそれにうんざりとした顔をしながらも、辛抱強く答えてくれていた。
「適当じゃない。こっちで間違いない、ついてきたらわかる」
「地図もアプリも見てないのに、なんでそこまで断言できるんだよ」
「喋りながら歩いてるとまたさっきみたいに何もないところで転ぶぞ。気をつけろよ」
「さ、さっきは地面が抉れてるのが草に隠れて見えなくなってて──」
今から五分ほど前、盛大につまずいてこけたことを呆れたように指摘されると、思わず顔が赤くなった。もごもごと歯切れ悪く言い返す。何もないところでというけど、何もなくはなかった。大きく地面が抉れていたんだから、足を取られても仕方がないし。
一方の犬塚はというと、道の凹みや段差、埋まった岩などなどをすべて把握しているみたいに順調に歩き続けている。いっそむかつくくらいだ。
野生の勘とでもいうのか、犬塚は地図も看板もないのに確信をもって歩いているように見えた。途中で立ち止まって、アプリを見て方角が合っているか確かめるようなこともしない。もしかすると犬塚は山岳部にも兼部で所属しているのかもしれない。それくらい山道に慣れている。
「そういえば写真部の女子がさ、バレー部の写真撮りたいって言ってて」
「部長と顧問に話通してみないとわからないな。練習の邪魔にならないなら大丈夫だと思うけど。大会前はだめだと思う」
「あ、大会で試合してるところ撮りに行くのはいいかも──うわ、っと……」
雑談しながら歩いていると、またつまずきそうになり、身体が斜めに大きく傾いた。しかしそのまま倒れる前に犬塚の腕に支えられ、なんとか転倒を回避することができた。
「わ、悪い」
「だから気をつけろって言ったんだ。まぁ、かなり歩いて足も疲れてくる頃だろうし、仕方ないかもな」
犬塚の手を借りながら体勢を立て直す。犬塚の言う通り、慣れない山道を歩き続けて足が上がりにくくなり、そのせいでつまずきやすくなっているのかもしれない。
集落まで行きたいと言い出したのは自分なんだから、頑張らなければ。弱気になりそうな自分に気合を入れ直し、また歩き始める。
そこからまた五分ほど歩いていくと、ようやく木々の向こうに開けた場所が見えてきた。先導していた犬塚が歩みを緩めて進行方向を指し示す。
「保科、着いたぞ」
森が途切れた場所で立ち止まり、僕は傍にある木の幹に手をついて眼下の景色を見下ろした。集落がある場所よりも僕たちの立っているところはいくらか高い位置にあり、なだらかな傾斜の先に家々や畑がぽつぽつと点在している。
──アニメみたいだ、というのが最初に抱いた感想。我ながらまぬけな感想だと思うけど。
というのも、もはや自然豊かな田舎や美しい田園風景なんてものは僕にとって現実のものではなく、アニメのような非現実的な世界の中にしか存在しないものなんだという気がしていたから。
だから目の前の光景が信じられなくて、絵空事のように感じられた。
こんなに綺麗な景色が実在するなんて嘘みたいだ。
「──う、……わぁ……っ」
カメラを持っているのにシャッターを切るのも忘れて、ファインダーを覗くよりもこの目で直接見ていたくて、僕はただその場に立ち尽くした。信じられないくらい美しい猿千村の景色を前にして。
段々畑に、昔ながらの入母屋屋根の家々。視界を遮る背の高いビルや商業施設はなく、ただただおだやかに自然と人の営みが調和した景色が広がっている。
ところどころに見えるあざやかな黄色は菜の花、桃色は桃か桜だろう。背後に広がる雄大な山の景色と青空のコントラストに圧倒される。透き通った小川の流れはさらさらと優しく、川底の石と小さな魚が輝いて見える。心地よい風が頬を撫でていき、深呼吸すればそれだけで生き返るような気がするくらい清々しい。空気がおいしい。どこからか可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえてくる。
春の芽吹きを感じる猿千村の集落の眺めは、展望台から見下す東京の街並みとか、オーシャンビューのホテルから見る海と砂浜とか、そういうものに比べれば迫力には欠けるかもしれない。でも、素朴で温かなこの景色が僕はとても好きだった。
「……どこにでもある田舎のさびれた山村だな。頑張ってここまで来た割には、期待外れだったんじゃないか?」
隣にやってきた犬塚もまた集落を見渡しながらキャップを目深に被り直した。そのせいで目許が帽子のつばの影になり、ほとんど表情がわからなくなる。
「期待外れなんかじゃない。本当に来てよかった、すごくのどかで綺麗なところでびっくりした。……風光明媚ってこういうことを言うんだろうな」
思わずため息がもれるくらいだ。頑張ってここまで来てよかった。この村の優しくおだやかな景色が、ここまでの頑張りへのご褒美だったんだ。
「こんなところに住んでみたいな」
しみじみそう言うと犬塚はちょっと驚いたように口を開き、でも何も言わずにまた閉じてしまった。さらに深く帽子を被り直して明後日のほうを向く。
「──にしても、人がいないな」
村の美しい景色にしばらくの間見入っていると、ふと気がついた。今も人が住んでいるであろう住宅はあるし、きちんと手入れされた畑も見えるのに、人の姿がない。
「じいさんばあさんばっかりの村だろうから、皆家で寝てるんじゃないか?」
「話聞きたかったのになぁ。猿千村のとっておきの絶景スポットとか知りませんかって……」
「滝は撮れたんだからもういいだろ? 集落を軽く回ったら、合流地点にすぐ向かおう」
犬塚が歩き出すよりも早く、一瞬の隙を突いて僕はひとりで坂を下り始めた。じっとしていられなかったし、時間が限られているならなおのこと早く撮りにいかなければ。
「あっ、おい、保科──」
「ちょっと川辺のほうに下りて撮ってくる。すぐに戻るから!」
制止する犬塚の声を振り切って坂を下り、きらきらと輝く川を目がけてずんずんと大股で進んでいく。自分でもどこにそんな力が残っていたのか不思議に思えるくらい、足の疲れも身体の怠さも全部吹っ飛んでしまって、身体中に元気が漲っている。
川に向かう途中、何軒か民家の前を通ったが、やっぱり人の姿はない。畑仕事をしている人もいないし、ご近所さんと立ち話をしている人も、軒先で休んでいる人もいない。田舎とはこういうものなんだろうか? どこに行っても人、人、人の東京の繁華街ならいざ知らず、小さな村では外に誰も出ていない時間があっても不思議はないのかもしれない。
時々立ち止まって、道端の草花や山の写真を撮りながら川へと向かっていく。
川に続く土手のところへ辿り着くと、カメラを持ったままあたりを見渡す。下に続く階段などはないようだったので、坂道をゆっくり下りていく。
耳に心地いい川の流れる音。太陽の光を反射する川面は眩しいくらいに輝いている。膝に手をついて水中を覗き込むと川魚が泳いでいるのが見えた。
そのまま至福の時間を過ごしていると、
「──おい、誰やお前」
低く鋭い声が聞こえ、びくっとして身体が大きく飛び上がる。
振り返ると、ひどく驚いたような、警戒しているような険しい顔の男性がそこに立っていた。
歳は少なくとも還暦は超えているように見える。背は低いけど、眼光の鋭さと腰が曲がる前兆すらない武人のような姿勢のよさに気圧される。
野良着に雪駄を履いているところを見ると、このあたりに家がある猿千村の住人のひとりだろう。
念願の住民と会えたわけだけど、とてもおすすめスポットを聞けるような雰囲気じゃない。剣呑な空気を放って僕の一挙手一投足をじっと観察している。
「あ、その」
「こんなところでなんしょんな(なにをしているのかという意味の方言)」
「ええと、僕はその、東京から来ていて──」
「東京から?」
全身をぐっと強張らせながら睨むように見てくるその男性に、怪しいものではないと説明をしようとしたときだった。
「大井のじいさん」
ふいによく通る声があたりに響き、その人ははっとして後ろを振り返った。つられて僕も顔を向けると、いつのまに追いついてきていたのか、危なげなく土手を駆け下りてくる犬塚の姿が見えた。
歩きながらキャップのつばを軽く持ち上げると、犬塚の顔が見えやすくなる。厄介な部活の先輩を相手にしているときのような油断なく如才ない笑顔。犬塚の顔が露わになった瞬間、おじいさんが大きく目を瞠るのがわかった。
「こいつ俺の連れなんだ」
「……犬塚んとこの孫か。もう帰ってこんのかと思とったわ」
僕を背中の後ろに隠すように間に立って、犬塚はおじいさんと対峙した。
長身の犬塚と並ぶと小柄なおじいさんの身体の小ささが際立つ。けど、おじいさんはまったく怯まない。僕を睨みつけていたときよりもさらに鋭くて冷たい眼差しを犬塚に注いでいる。対する犬塚も同じように冷ややかな目だ。
「何しにきたんな」
「べつに。付き添いで来ただけだけど」
「ほうか。墓参り忘れんようにな、葬儀にも顔出さんかったんやからそれくらいしたれよ」
「日帰りだから、寄る時間はないかもしれない」
「薄情な孫もおったもんやなぁ。けったくそ悪い(胸糞悪いという意味の方言)」
忌々しげに舌打ちをして、おじいさんは犬塚の脇を通り過ぎていった。土手を難なくのぼり、そのまま集落のほうへと向かっていく。
おじいさんの姿が見えなくなったあと、呆然とする僕に向かって犬塚はついてくるように促した。言われるがままに再び土手をのぼり出す犬塚についていく。
のぼりきったところで、この旅の案内人兼クラスメイトは、おじいさんの向かった方向を指差してみせた。
「あそこに小さい店があるの見えるか? 大井商店って書いた看板がかかってるだろ」
言われてみると、遠くのほうに民家とは少々見た目の違う建物が一軒見える。いわゆる個人商店の店舗だ。色褪せた文字で「大井商店」とブルーの庇に書かれているのがわかる。
「さっきのじいさんはあの大井商店の店主なんだ。だから村の子はだいたい大井のじいさんって呼んでる」
「へぇー……」
大井商店の説明を終えて、何事もなかったかのように引き返そうとする犬塚を強引に引き留める。飛びつくように腕を掴むと犬塚は渋々足を止めた。
「……なんだよ」
「なんだよじゃないだろ。それよりもっと僕にしないといけない重要な話があるだろっ」
今日一日、というか教室で突然声をかけてきたときから犬塚はおかしかったけど、先ほどの場面はどう考えてもおかしい。なにからなにまでおかし過ぎる。
なにがおかしいかって、犬塚とあのおじいさんが顔見知りのようだったことだ。
──大井のじいさん。
──犬塚んとこの孫か。
ふたりはお互いのことをそう呼んでいた。
初めて訪れた村で、初めて会った相手ならそうはいかない。ふたりは面識があったのだ。それもちょっとした知り合いという風ではなく、相手の事情をよく知っているようだった。
そして、おじいさんが犬塚に向けて言った「帰ってこんのかと思とった」という言葉。ということは、この状況から考えられる可能性は、つまり──。
「犬塚って、猿千村の出身だったのか?」
そうではない可能性ももちろんある。でも、それならこれまでの犬塚の不可解な言動にも説明がつく。
逃げないように捕まえていた腕を恐る恐る解く。
すると犬塚はゆっくりと帽子を取って、どこか諦めたような顔をして「あぁ」と頷いた。探偵に追いつめられた犯人が神妙に自分の罪を認めるみたいに。
猿千村の出身者であることが重罪であるかのように。
「……中三までここに住んでたんだ。東京の高校に行くことになって、上京してくるまでは」
「中三までって、一年前じゃん。それまでずっとここに? 子どものときから?」
「生まれも育ちもこの猿千村だ」
「どおりで……」
犬塚がなぜ猿千村のことを知っていたのかずっと不思議だった。
筋金入りの滝マニアでもなく、超がつく過疎地マニアでもないとすれば、考えられる可能性はあとひとつくらいのものである。単純な話だ。犬塚が猿千村の出身だったとすれば、当然村のことは熟知しているだろう。滝までの道順に精通していたのにも納得がいく。
とはいえ住人の大部分は高齢者ばかりの小さな村だ。東京で暮らす地方出身者は多いとはいえ、犬塚が偶然猿千村の出身である確率なんて考慮する必要もないくらいに低い。だから、無意識にその可能性を排除していた。
僕たちの通う高校は部活動に力を入れていて、地元の中学に限らずさまざまな地域から進学してきた生徒も多い。僕と三河などは地元からそのまま進学したクチだけど、犬塚のように中学の違う生徒はたくさんいるし、見慣れない顔でも目立ったり孤立したりすることはない。だから犬塚の地元がどこかなんて今日まで気にしたこともなかった。
「──あ、里帰りのためについてきたのか?」
どうしてついて行くなどと言い出したのか疑問だったが、この謎も犬塚が猿千村出身だったことがわかれば簡単に解ける。
そう、里帰りだ。田舎というものを持たない僕にだって、生まれ育った町に帰りたいと思う気持ちや、地元の景色や友人を恋しく思う気持ちは理解できる。
だから僕が猿千村に行くという話を聞いて、道案内がてら同行しようとしたんだろうか。
これまでの犬塚の様々な不可解な言動が次々に解き明かされていき、すっきりとした気持ちで僕は犬塚のほうを見た。
「……いや、違う」
犬塚は険しい顔でぽつりと答えた。
照れているのかと思いきや、どうも本当に違うようだ。それではなぜついてくるなどと言い出したのだろう。
──そういえば、さきほどのおじいさんとのやり取りも妙だった。
一触即発の雰囲気で、ふたりの話に割って入ることができなかった。おじいさんが犬塚に向かって言った方言がどういう意味かはわからなかったけど、いい意味じゃないことだけはわかる。
犬塚は犬塚で、故郷の知り合いと久しぶりに再会したとは思えないぞんざいな受け答えをしていたし。
いくつかの謎は解けたものの、ほかにもまだわからないことがある。
犬塚はいったいなぜ、猿千村に行くのをやめろと言ったのか。山奥にあるのでひとりで行くのは危ないと思ったから? それで仕方なく自分もついて行くことにしたとか?
筋は通るけど、なんとなくしっくりこない。そもそも、それならもっと言いようがあるだろう。それが理由であそこまで熱心に止めようとするか?
「……」
……わからん。犬塚の背筋のピンと伸びた姿勢のいい後ろ姿を見ながら、心の中でまたつぶやく。全然わからん。
クラスメイトの犬塚のことを知っているようで、知らないことばかりだ。猿千村の出身だったことも今日知ったばかり。
きっとまだたくさん知らないことがあるんだろう。そのうちのいくつかだけでもいいから、今日の残りの時間で知ることができたらいいなと思う。
「あぁ」
「あてもなく適当に歩いてるようにしか思えないんだけど……」
荒れた獣道を犬塚は迷いのない足取りで進んでいく。僕はついていくのが精一杯で、置いていかれないようにとにかくせっせと足を動かし続ける。
滝を出発してずいぶん経つ。集落はまだ見えてこない。
家も人影も見えず、目に映るのは木と犬塚の背中だけ。頼りになる背中だけど、なかなか着かないのでさすがに少し不安になってくる。心配な気持ちを紛らわせたくてついあれこれ文句を言ったり尋ねたりしてしまう。犬塚はそれにうんざりとした顔をしながらも、辛抱強く答えてくれていた。
「適当じゃない。こっちで間違いない、ついてきたらわかる」
「地図もアプリも見てないのに、なんでそこまで断言できるんだよ」
「喋りながら歩いてるとまたさっきみたいに何もないところで転ぶぞ。気をつけろよ」
「さ、さっきは地面が抉れてるのが草に隠れて見えなくなってて──」
今から五分ほど前、盛大につまずいてこけたことを呆れたように指摘されると、思わず顔が赤くなった。もごもごと歯切れ悪く言い返す。何もないところでというけど、何もなくはなかった。大きく地面が抉れていたんだから、足を取られても仕方がないし。
一方の犬塚はというと、道の凹みや段差、埋まった岩などなどをすべて把握しているみたいに順調に歩き続けている。いっそむかつくくらいだ。
野生の勘とでもいうのか、犬塚は地図も看板もないのに確信をもって歩いているように見えた。途中で立ち止まって、アプリを見て方角が合っているか確かめるようなこともしない。もしかすると犬塚は山岳部にも兼部で所属しているのかもしれない。それくらい山道に慣れている。
「そういえば写真部の女子がさ、バレー部の写真撮りたいって言ってて」
「部長と顧問に話通してみないとわからないな。練習の邪魔にならないなら大丈夫だと思うけど。大会前はだめだと思う」
「あ、大会で試合してるところ撮りに行くのはいいかも──うわ、っと……」
雑談しながら歩いていると、またつまずきそうになり、身体が斜めに大きく傾いた。しかしそのまま倒れる前に犬塚の腕に支えられ、なんとか転倒を回避することができた。
「わ、悪い」
「だから気をつけろって言ったんだ。まぁ、かなり歩いて足も疲れてくる頃だろうし、仕方ないかもな」
犬塚の手を借りながら体勢を立て直す。犬塚の言う通り、慣れない山道を歩き続けて足が上がりにくくなり、そのせいでつまずきやすくなっているのかもしれない。
集落まで行きたいと言い出したのは自分なんだから、頑張らなければ。弱気になりそうな自分に気合を入れ直し、また歩き始める。
そこからまた五分ほど歩いていくと、ようやく木々の向こうに開けた場所が見えてきた。先導していた犬塚が歩みを緩めて進行方向を指し示す。
「保科、着いたぞ」
森が途切れた場所で立ち止まり、僕は傍にある木の幹に手をついて眼下の景色を見下ろした。集落がある場所よりも僕たちの立っているところはいくらか高い位置にあり、なだらかな傾斜の先に家々や畑がぽつぽつと点在している。
──アニメみたいだ、というのが最初に抱いた感想。我ながらまぬけな感想だと思うけど。
というのも、もはや自然豊かな田舎や美しい田園風景なんてものは僕にとって現実のものではなく、アニメのような非現実的な世界の中にしか存在しないものなんだという気がしていたから。
だから目の前の光景が信じられなくて、絵空事のように感じられた。
こんなに綺麗な景色が実在するなんて嘘みたいだ。
「──う、……わぁ……っ」
カメラを持っているのにシャッターを切るのも忘れて、ファインダーを覗くよりもこの目で直接見ていたくて、僕はただその場に立ち尽くした。信じられないくらい美しい猿千村の景色を前にして。
段々畑に、昔ながらの入母屋屋根の家々。視界を遮る背の高いビルや商業施設はなく、ただただおだやかに自然と人の営みが調和した景色が広がっている。
ところどころに見えるあざやかな黄色は菜の花、桃色は桃か桜だろう。背後に広がる雄大な山の景色と青空のコントラストに圧倒される。透き通った小川の流れはさらさらと優しく、川底の石と小さな魚が輝いて見える。心地よい風が頬を撫でていき、深呼吸すればそれだけで生き返るような気がするくらい清々しい。空気がおいしい。どこからか可愛らしい小鳥のさえずりが聞こえてくる。
春の芽吹きを感じる猿千村の集落の眺めは、展望台から見下す東京の街並みとか、オーシャンビューのホテルから見る海と砂浜とか、そういうものに比べれば迫力には欠けるかもしれない。でも、素朴で温かなこの景色が僕はとても好きだった。
「……どこにでもある田舎のさびれた山村だな。頑張ってここまで来た割には、期待外れだったんじゃないか?」
隣にやってきた犬塚もまた集落を見渡しながらキャップを目深に被り直した。そのせいで目許が帽子のつばの影になり、ほとんど表情がわからなくなる。
「期待外れなんかじゃない。本当に来てよかった、すごくのどかで綺麗なところでびっくりした。……風光明媚ってこういうことを言うんだろうな」
思わずため息がもれるくらいだ。頑張ってここまで来てよかった。この村の優しくおだやかな景色が、ここまでの頑張りへのご褒美だったんだ。
「こんなところに住んでみたいな」
しみじみそう言うと犬塚はちょっと驚いたように口を開き、でも何も言わずにまた閉じてしまった。さらに深く帽子を被り直して明後日のほうを向く。
「──にしても、人がいないな」
村の美しい景色にしばらくの間見入っていると、ふと気がついた。今も人が住んでいるであろう住宅はあるし、きちんと手入れされた畑も見えるのに、人の姿がない。
「じいさんばあさんばっかりの村だろうから、皆家で寝てるんじゃないか?」
「話聞きたかったのになぁ。猿千村のとっておきの絶景スポットとか知りませんかって……」
「滝は撮れたんだからもういいだろ? 集落を軽く回ったら、合流地点にすぐ向かおう」
犬塚が歩き出すよりも早く、一瞬の隙を突いて僕はひとりで坂を下り始めた。じっとしていられなかったし、時間が限られているならなおのこと早く撮りにいかなければ。
「あっ、おい、保科──」
「ちょっと川辺のほうに下りて撮ってくる。すぐに戻るから!」
制止する犬塚の声を振り切って坂を下り、きらきらと輝く川を目がけてずんずんと大股で進んでいく。自分でもどこにそんな力が残っていたのか不思議に思えるくらい、足の疲れも身体の怠さも全部吹っ飛んでしまって、身体中に元気が漲っている。
川に向かう途中、何軒か民家の前を通ったが、やっぱり人の姿はない。畑仕事をしている人もいないし、ご近所さんと立ち話をしている人も、軒先で休んでいる人もいない。田舎とはこういうものなんだろうか? どこに行っても人、人、人の東京の繁華街ならいざ知らず、小さな村では外に誰も出ていない時間があっても不思議はないのかもしれない。
時々立ち止まって、道端の草花や山の写真を撮りながら川へと向かっていく。
川に続く土手のところへ辿り着くと、カメラを持ったままあたりを見渡す。下に続く階段などはないようだったので、坂道をゆっくり下りていく。
耳に心地いい川の流れる音。太陽の光を反射する川面は眩しいくらいに輝いている。膝に手をついて水中を覗き込むと川魚が泳いでいるのが見えた。
そのまま至福の時間を過ごしていると、
「──おい、誰やお前」
低く鋭い声が聞こえ、びくっとして身体が大きく飛び上がる。
振り返ると、ひどく驚いたような、警戒しているような険しい顔の男性がそこに立っていた。
歳は少なくとも還暦は超えているように見える。背は低いけど、眼光の鋭さと腰が曲がる前兆すらない武人のような姿勢のよさに気圧される。
野良着に雪駄を履いているところを見ると、このあたりに家がある猿千村の住人のひとりだろう。
念願の住民と会えたわけだけど、とてもおすすめスポットを聞けるような雰囲気じゃない。剣呑な空気を放って僕の一挙手一投足をじっと観察している。
「あ、その」
「こんなところでなんしょんな(なにをしているのかという意味の方言)」
「ええと、僕はその、東京から来ていて──」
「東京から?」
全身をぐっと強張らせながら睨むように見てくるその男性に、怪しいものではないと説明をしようとしたときだった。
「大井のじいさん」
ふいによく通る声があたりに響き、その人ははっとして後ろを振り返った。つられて僕も顔を向けると、いつのまに追いついてきていたのか、危なげなく土手を駆け下りてくる犬塚の姿が見えた。
歩きながらキャップのつばを軽く持ち上げると、犬塚の顔が見えやすくなる。厄介な部活の先輩を相手にしているときのような油断なく如才ない笑顔。犬塚の顔が露わになった瞬間、おじいさんが大きく目を瞠るのがわかった。
「こいつ俺の連れなんだ」
「……犬塚んとこの孫か。もう帰ってこんのかと思とったわ」
僕を背中の後ろに隠すように間に立って、犬塚はおじいさんと対峙した。
長身の犬塚と並ぶと小柄なおじいさんの身体の小ささが際立つ。けど、おじいさんはまったく怯まない。僕を睨みつけていたときよりもさらに鋭くて冷たい眼差しを犬塚に注いでいる。対する犬塚も同じように冷ややかな目だ。
「何しにきたんな」
「べつに。付き添いで来ただけだけど」
「ほうか。墓参り忘れんようにな、葬儀にも顔出さんかったんやからそれくらいしたれよ」
「日帰りだから、寄る時間はないかもしれない」
「薄情な孫もおったもんやなぁ。けったくそ悪い(胸糞悪いという意味の方言)」
忌々しげに舌打ちをして、おじいさんは犬塚の脇を通り過ぎていった。土手を難なくのぼり、そのまま集落のほうへと向かっていく。
おじいさんの姿が見えなくなったあと、呆然とする僕に向かって犬塚はついてくるように促した。言われるがままに再び土手をのぼり出す犬塚についていく。
のぼりきったところで、この旅の案内人兼クラスメイトは、おじいさんの向かった方向を指差してみせた。
「あそこに小さい店があるの見えるか? 大井商店って書いた看板がかかってるだろ」
言われてみると、遠くのほうに民家とは少々見た目の違う建物が一軒見える。いわゆる個人商店の店舗だ。色褪せた文字で「大井商店」とブルーの庇に書かれているのがわかる。
「さっきのじいさんはあの大井商店の店主なんだ。だから村の子はだいたい大井のじいさんって呼んでる」
「へぇー……」
大井商店の説明を終えて、何事もなかったかのように引き返そうとする犬塚を強引に引き留める。飛びつくように腕を掴むと犬塚は渋々足を止めた。
「……なんだよ」
「なんだよじゃないだろ。それよりもっと僕にしないといけない重要な話があるだろっ」
今日一日、というか教室で突然声をかけてきたときから犬塚はおかしかったけど、先ほどの場面はどう考えてもおかしい。なにからなにまでおかし過ぎる。
なにがおかしいかって、犬塚とあのおじいさんが顔見知りのようだったことだ。
──大井のじいさん。
──犬塚んとこの孫か。
ふたりはお互いのことをそう呼んでいた。
初めて訪れた村で、初めて会った相手ならそうはいかない。ふたりは面識があったのだ。それもちょっとした知り合いという風ではなく、相手の事情をよく知っているようだった。
そして、おじいさんが犬塚に向けて言った「帰ってこんのかと思とった」という言葉。ということは、この状況から考えられる可能性は、つまり──。
「犬塚って、猿千村の出身だったのか?」
そうではない可能性ももちろんある。でも、それならこれまでの犬塚の不可解な言動にも説明がつく。
逃げないように捕まえていた腕を恐る恐る解く。
すると犬塚はゆっくりと帽子を取って、どこか諦めたような顔をして「あぁ」と頷いた。探偵に追いつめられた犯人が神妙に自分の罪を認めるみたいに。
猿千村の出身者であることが重罪であるかのように。
「……中三までここに住んでたんだ。東京の高校に行くことになって、上京してくるまでは」
「中三までって、一年前じゃん。それまでずっとここに? 子どものときから?」
「生まれも育ちもこの猿千村だ」
「どおりで……」
犬塚がなぜ猿千村のことを知っていたのかずっと不思議だった。
筋金入りの滝マニアでもなく、超がつく過疎地マニアでもないとすれば、考えられる可能性はあとひとつくらいのものである。単純な話だ。犬塚が猿千村の出身だったとすれば、当然村のことは熟知しているだろう。滝までの道順に精通していたのにも納得がいく。
とはいえ住人の大部分は高齢者ばかりの小さな村だ。東京で暮らす地方出身者は多いとはいえ、犬塚が偶然猿千村の出身である確率なんて考慮する必要もないくらいに低い。だから、無意識にその可能性を排除していた。
僕たちの通う高校は部活動に力を入れていて、地元の中学に限らずさまざまな地域から進学してきた生徒も多い。僕と三河などは地元からそのまま進学したクチだけど、犬塚のように中学の違う生徒はたくさんいるし、見慣れない顔でも目立ったり孤立したりすることはない。だから犬塚の地元がどこかなんて今日まで気にしたこともなかった。
「──あ、里帰りのためについてきたのか?」
どうしてついて行くなどと言い出したのか疑問だったが、この謎も犬塚が猿千村出身だったことがわかれば簡単に解ける。
そう、里帰りだ。田舎というものを持たない僕にだって、生まれ育った町に帰りたいと思う気持ちや、地元の景色や友人を恋しく思う気持ちは理解できる。
だから僕が猿千村に行くという話を聞いて、道案内がてら同行しようとしたんだろうか。
これまでの犬塚の様々な不可解な言動が次々に解き明かされていき、すっきりとした気持ちで僕は犬塚のほうを見た。
「……いや、違う」
犬塚は険しい顔でぽつりと答えた。
照れているのかと思いきや、どうも本当に違うようだ。それではなぜついてくるなどと言い出したのだろう。
──そういえば、さきほどのおじいさんとのやり取りも妙だった。
一触即発の雰囲気で、ふたりの話に割って入ることができなかった。おじいさんが犬塚に向かって言った方言がどういう意味かはわからなかったけど、いい意味じゃないことだけはわかる。
犬塚は犬塚で、故郷の知り合いと久しぶりに再会したとは思えないぞんざいな受け答えをしていたし。
いくつかの謎は解けたものの、ほかにもまだわからないことがある。
犬塚はいったいなぜ、猿千村に行くのをやめろと言ったのか。山奥にあるのでひとりで行くのは危ないと思ったから? それで仕方なく自分もついて行くことにしたとか?
筋は通るけど、なんとなくしっくりこない。そもそも、それならもっと言いようがあるだろう。それが理由であそこまで熱心に止めようとするか?
「……」
……わからん。犬塚の背筋のピンと伸びた姿勢のいい後ろ姿を見ながら、心の中でまたつぶやく。全然わからん。
クラスメイトの犬塚のことを知っているようで、知らないことばかりだ。猿千村の出身だったことも今日知ったばかり。
きっとまだたくさん知らないことがあるんだろう。そのうちのいくつかだけでもいいから、今日の残りの時間で知ることができたらいいなと思う。

