掲げていたカメラを胸の高さまで下ろして、流れ落ちる滝を見上げる。高さはおよそ二十五メートル。図書館の冊子で写真を見たときよりもずっと大きく見える。
頭上の滝口から、濡れた岩壁を伝う水の流れに時間を忘れてぼうっと見入りそうになるけど、今日ここに来た目的を忘れちゃいけない。写真に収めないと、と再びカメラを構える。
そうしている間にも、滝の流れる涼しげな音が休みなくあたりに響いている。ひんやりとした空気が、山道をがむしゃらに歩いて汗をかいた身体に心地いい。
滝壺に落ちた水が跳ねて無数の飛沫をあげている。晴天の空、滝、生い茂る緑、清廉な空気。ここにあるのは自然だけ。滝が見やすいように、手摺や足場をつくり観瀑台が設置されているところもなかにはあるが、猿千村の滝にはそういったものはないようだ。ありのまま、自然のままだ。
「保科。早く帰ろう」
滝の音にかき消されないように犬塚が声を張り上げる。またもや手首の腕時計を見下ろし、時間を気にしている。
僕らは滝壺の水際にある岩の上へと降りていた。足を滑らせないように気をつけながら体勢を立て直し、しきりに急かす犬塚へと顔を向ける。
「もうちょっと」
「保科」
「あんまり急かすなよな。そこまで急がなくてもいいだろ?」
まだ滝に着いてから一時間も経っていないのに。不満もあらわに言い返すと、犬塚は言葉につまった様子で黙り込んだ。
僕たちのほかに観光客の姿はない。マイナーなスポットなので当然かもしれないけど。なんにせよ、貸切状態なので場所を譲りあう必要もなく、時間を気にせずのんびりできるのはいいことだ。
「あー、癒されるわー」
目を閉じて、滝の音に耳を傾ける。水の流れる音。風の音。鳥の声。葉のこすれる音。なんて贅沢な時間だろう。
「焚き火の音とか、川のせせらぎとかが聞ける作業用動画ってあるじゃん? それの滝の音バージョンが気に入っててよく聴くんだけどさ、やっぱり本物には敵わないよな」
「……そんな動画があるのか。聴いたことないからピンとこないな」
「現代人は自然に飢えてんだよ。近くに滝やら川やらあれば、動画なんかいらないけどさ」
猿千村に住んでいる人たちなら、きっといらないだろう。ここに来ればいいだけなのだから。
「うちの近所にもこんな滝があったらなぁ」
自宅のマンションの周りにあるものといえば、小学校、保育園、大型商業施設、児童公園、駅、最近できたばかりのタワーマンション。それくらいだ。滝が入り込む余地はなさそうなので、これからも作業用動画に頼ることになりそうだ。
犬塚に自然のよさを語りながら顔を上げたとき、ふと視界の片隅になにかが映った。
「……ん?」
メガネをかけ直し、よく見ようと目を凝らす。前のめりになり過ぎると滝壺に落ちてしまうので、足元に気をつけながら。
「どうした?」
「いや、あそこに何か……なんだろう……橋みたいなのが見える」
橋みたいなの、ではなくて、橋だった。
滝口よりもさらに高い場所、左右の岩壁を繋ぐ木製の橋が見える。橋といっても短く、距離はせいぜい十メートルほど。ずいぶん前に作られたもののようで、手摺はほとんど腐り落ちているし、足元の踏み板もところどころが抜け落ちて穴だらけだ。整備されているようにはとても見えない。でも、橋は橋だ。
あんなところに橋があったとは。驚きながらその崩れかけた橋を興味深く仰ぎ見ていると、
「写真撮り終えたんだったら、そろそろ行こう」
滝に着いてからもう何度聞いたかわからない台詞を、またもや犬塚は口にした。
「叔父が車で迎えに来るのが三時だ。もう行かないと」
「えっ、三時?」
あわてて自分のスマホで時間を確かめる。二時四十分。聞けばここから合流場所まで移動するのに十五分はかかるという。
「聞いてないって。そんなに早く出発しなくてもいいんじゃ……」
迎えに来るとは聞いていたけど、三時ではいくらなんでも滞在時間が短過ぎる。
「道が混むかもしれないだろ?」
「それはそうだけどさ……」
犬塚の言い分は正しい。渋滞に巻き込まれる可能性を踏まえて、早めに出発することは理にかなっている。それはわかるけど──納得できない。
「だとしてもさぁ、もうちょっと色んなところも見て回りたかったのに……犬塚ってケチだよな」
「聞こえてるぞ」
猿千村にやって来たのは滝をカメラで撮るため。その目的は達成している。──とはいえ、だ。せっかくここまで苦労して来たんだから、滝のほかにも村を歩いて回り、自然を堪能していきたい。東京にはない自然を。田舎の景色を。まだ猿千村のごく一部しか見ていない。
「ちょっとだけでもいいから集落のほうにも寄って行けないか? すぐに帰るのももったいないしさ。滝に来るまで右見ても左見ても木ばっかりだったし……」
「集落があるのはあっち、反対側なんだよ。そっちは通らずに来たから」
滝を背に犬塚は顎を上げて高い木々の向こうを見やった。滝が流れ落ちる岩壁とは反対の方角を指し示す。
滝は猿千村の東側にあり、村の人々が住んでいる集落は西側にあるという。滝へ行く途中、人の姿はおろか民家や田畑も見かけなかった。いくら人口の少ない山村とはいえ住んでいる人はいるはずなのに、と不思議に思っていたが、集落を通らないルートで来たようだ。
東側から滝へと繋がる道を通ってきたので、それで誰ともすれ違わなかったのか。きっとそれがスタート地点のバス停からの最短ルートだったんだろう。
犬塚が道案内をしてくれなければ、ここまでスムーズに滝に来ることはできなかったに違いない。ひとりで来ていたら、まだ目的地にも辿り着けずに森の中をさまよっていたかも。
本当に感謝しているし、寄り道せずにまっすぐ帰るべきという犬塚の言うことも理解できる。でも──でも、まだ帰りたくない。カメラのバッテリーも、メモリーカードの空き容量も、体力も気力もまだまだある。
「頼む。ほんの少しの時間でいいんだ」
拝むように両手を合わせて犬塚に頼み込む。駄々を捏ねる小さな子どものようで恥ずかしくなってくるけど、それでも譲れない。
頼む、ともう一度言おうとしたとき、ふと気がついた。
頑なな犬塚の表情の中に、不安が見え隠れしていることに。
犬塚は意外と頑固で融通のきかないところがあるようだ、と思っていた。何度も何度も時間を確認して、道中スケジュールに遅れが出ないようにあれこれと口を出す様子を見て、そう感じたのだ。
──でも、そうじゃないのかもしれないと思い直す。
頑固というより、今日の犬塚はやけにピリピリしているように見える。ずっと見えないなにかに追いかけられ、急き立てられているみたいに。不安そうで、心ここにあらずで、落ち着かない様子だ。
滝の流れる音だけが響くなか、犬塚はしばらくの間何も言わずに立っていた。怖い顔の仁王像みたいに。やがて、腕時計をまたもやちらりと見下ろし、長い沈黙を経てようやく口を開いた。その顔にはでかでかと「もうさっさと帰りたい」と書いてあるけど、続く言葉は別のものだった。
「──……はぁ、少しだけだからな」
「本当に!?」
「遅れるって叔父さんにメッセージ入れとく」
「やった! ありがとう犬塚!」
犬塚はスマホを出し、手早くメッセージを送信した。
再び犬塚の先導のもと移動を開始する。次なる目的地は、猿千村の西側に位置する集落だ。
頭上の滝口から、濡れた岩壁を伝う水の流れに時間を忘れてぼうっと見入りそうになるけど、今日ここに来た目的を忘れちゃいけない。写真に収めないと、と再びカメラを構える。
そうしている間にも、滝の流れる涼しげな音が休みなくあたりに響いている。ひんやりとした空気が、山道をがむしゃらに歩いて汗をかいた身体に心地いい。
滝壺に落ちた水が跳ねて無数の飛沫をあげている。晴天の空、滝、生い茂る緑、清廉な空気。ここにあるのは自然だけ。滝が見やすいように、手摺や足場をつくり観瀑台が設置されているところもなかにはあるが、猿千村の滝にはそういったものはないようだ。ありのまま、自然のままだ。
「保科。早く帰ろう」
滝の音にかき消されないように犬塚が声を張り上げる。またもや手首の腕時計を見下ろし、時間を気にしている。
僕らは滝壺の水際にある岩の上へと降りていた。足を滑らせないように気をつけながら体勢を立て直し、しきりに急かす犬塚へと顔を向ける。
「もうちょっと」
「保科」
「あんまり急かすなよな。そこまで急がなくてもいいだろ?」
まだ滝に着いてから一時間も経っていないのに。不満もあらわに言い返すと、犬塚は言葉につまった様子で黙り込んだ。
僕たちのほかに観光客の姿はない。マイナーなスポットなので当然かもしれないけど。なんにせよ、貸切状態なので場所を譲りあう必要もなく、時間を気にせずのんびりできるのはいいことだ。
「あー、癒されるわー」
目を閉じて、滝の音に耳を傾ける。水の流れる音。風の音。鳥の声。葉のこすれる音。なんて贅沢な時間だろう。
「焚き火の音とか、川のせせらぎとかが聞ける作業用動画ってあるじゃん? それの滝の音バージョンが気に入っててよく聴くんだけどさ、やっぱり本物には敵わないよな」
「……そんな動画があるのか。聴いたことないからピンとこないな」
「現代人は自然に飢えてんだよ。近くに滝やら川やらあれば、動画なんかいらないけどさ」
猿千村に住んでいる人たちなら、きっといらないだろう。ここに来ればいいだけなのだから。
「うちの近所にもこんな滝があったらなぁ」
自宅のマンションの周りにあるものといえば、小学校、保育園、大型商業施設、児童公園、駅、最近できたばかりのタワーマンション。それくらいだ。滝が入り込む余地はなさそうなので、これからも作業用動画に頼ることになりそうだ。
犬塚に自然のよさを語りながら顔を上げたとき、ふと視界の片隅になにかが映った。
「……ん?」
メガネをかけ直し、よく見ようと目を凝らす。前のめりになり過ぎると滝壺に落ちてしまうので、足元に気をつけながら。
「どうした?」
「いや、あそこに何か……なんだろう……橋みたいなのが見える」
橋みたいなの、ではなくて、橋だった。
滝口よりもさらに高い場所、左右の岩壁を繋ぐ木製の橋が見える。橋といっても短く、距離はせいぜい十メートルほど。ずいぶん前に作られたもののようで、手摺はほとんど腐り落ちているし、足元の踏み板もところどころが抜け落ちて穴だらけだ。整備されているようにはとても見えない。でも、橋は橋だ。
あんなところに橋があったとは。驚きながらその崩れかけた橋を興味深く仰ぎ見ていると、
「写真撮り終えたんだったら、そろそろ行こう」
滝に着いてからもう何度聞いたかわからない台詞を、またもや犬塚は口にした。
「叔父が車で迎えに来るのが三時だ。もう行かないと」
「えっ、三時?」
あわてて自分のスマホで時間を確かめる。二時四十分。聞けばここから合流場所まで移動するのに十五分はかかるという。
「聞いてないって。そんなに早く出発しなくてもいいんじゃ……」
迎えに来るとは聞いていたけど、三時ではいくらなんでも滞在時間が短過ぎる。
「道が混むかもしれないだろ?」
「それはそうだけどさ……」
犬塚の言い分は正しい。渋滞に巻き込まれる可能性を踏まえて、早めに出発することは理にかなっている。それはわかるけど──納得できない。
「だとしてもさぁ、もうちょっと色んなところも見て回りたかったのに……犬塚ってケチだよな」
「聞こえてるぞ」
猿千村にやって来たのは滝をカメラで撮るため。その目的は達成している。──とはいえ、だ。せっかくここまで苦労して来たんだから、滝のほかにも村を歩いて回り、自然を堪能していきたい。東京にはない自然を。田舎の景色を。まだ猿千村のごく一部しか見ていない。
「ちょっとだけでもいいから集落のほうにも寄って行けないか? すぐに帰るのももったいないしさ。滝に来るまで右見ても左見ても木ばっかりだったし……」
「集落があるのはあっち、反対側なんだよ。そっちは通らずに来たから」
滝を背に犬塚は顎を上げて高い木々の向こうを見やった。滝が流れ落ちる岩壁とは反対の方角を指し示す。
滝は猿千村の東側にあり、村の人々が住んでいる集落は西側にあるという。滝へ行く途中、人の姿はおろか民家や田畑も見かけなかった。いくら人口の少ない山村とはいえ住んでいる人はいるはずなのに、と不思議に思っていたが、集落を通らないルートで来たようだ。
東側から滝へと繋がる道を通ってきたので、それで誰ともすれ違わなかったのか。きっとそれがスタート地点のバス停からの最短ルートだったんだろう。
犬塚が道案内をしてくれなければ、ここまでスムーズに滝に来ることはできなかったに違いない。ひとりで来ていたら、まだ目的地にも辿り着けずに森の中をさまよっていたかも。
本当に感謝しているし、寄り道せずにまっすぐ帰るべきという犬塚の言うことも理解できる。でも──でも、まだ帰りたくない。カメラのバッテリーも、メモリーカードの空き容量も、体力も気力もまだまだある。
「頼む。ほんの少しの時間でいいんだ」
拝むように両手を合わせて犬塚に頼み込む。駄々を捏ねる小さな子どものようで恥ずかしくなってくるけど、それでも譲れない。
頼む、ともう一度言おうとしたとき、ふと気がついた。
頑なな犬塚の表情の中に、不安が見え隠れしていることに。
犬塚は意外と頑固で融通のきかないところがあるようだ、と思っていた。何度も何度も時間を確認して、道中スケジュールに遅れが出ないようにあれこれと口を出す様子を見て、そう感じたのだ。
──でも、そうじゃないのかもしれないと思い直す。
頑固というより、今日の犬塚はやけにピリピリしているように見える。ずっと見えないなにかに追いかけられ、急き立てられているみたいに。不安そうで、心ここにあらずで、落ち着かない様子だ。
滝の流れる音だけが響くなか、犬塚はしばらくの間何も言わずに立っていた。怖い顔の仁王像みたいに。やがて、腕時計をまたもやちらりと見下ろし、長い沈黙を経てようやく口を開いた。その顔にはでかでかと「もうさっさと帰りたい」と書いてあるけど、続く言葉は別のものだった。
「──……はぁ、少しだけだからな」
「本当に!?」
「遅れるって叔父さんにメッセージ入れとく」
「やった! ありがとう犬塚!」
犬塚はスマホを出し、手早くメッセージを送信した。
再び犬塚の先導のもと移動を開始する。次なる目的地は、猿千村の西側に位置する集落だ。

