因習と春一番


「も、もう歩けな……い」

 はぁ、はぁ、と荒い息を吐き出しながら絞り出すように呻く。うまく呼吸ができず、喉と胸の奥が苦しい。撮影のための機材が入ったリュックが肩に食い込み、足は鉛のように重く、筋肉が大声で痛い痛いと叫び続けている。

 両膝に手をついて立ち止まる。下を向くと眼鏡が汗でずり落ちてくるけど直す気力もない。歩くことはおろか立っているのも辛くなり、耐えきれずに土の上に膝をついて完全にしゃがみ込む。

「む、無理、もう……」
「諦めないんじゃなかったのか? まだまだ歩くぞ」

 数メートル先を歩いていた犬塚が立ち止まり、呆れたように言い放つ。まだまだだって? 一体あとどれだけ歩けば猿千村に辿りつくんだろう。

 立ち上がって歩き出したいのに、もう一歩も歩けない。斜面の急な山道を前にして、心は挫けそうになっていた。
 僕たちは山の中にいた。背の高い木々が鬱蒼と生い茂る道は獣道のように荒れて、舗装されたコンクリートの道がどれだけ歩きやすく造られているのかを痛感する。一歩進むたびに、地面に埋まった石やら土の凹みやらに足を取られそうになり、普段以上に体力を消耗するのだ。

 村に繋がる舗装された道もあるものの、そちらのルートではかなり迂回することになり、到着が遅くなると犬塚は言っていた。険しい道だが最短で行く道とどちらがいいか選ぶように言われ、僕が選んだのはこの道だった。日帰りなのだから少しでも早く着いて撮影する時間をたっぷり取りたい。
 そう、自分で選んだ道だ。だけど、まさかそれがこんなに過酷だったとは──。

 電車を乗り継ぎ、一日に一往復しかしないというバスに乗り、最寄りのバス停へ着いたのが約一時間前。そこからは徒歩で行くほかなく、犬塚について山道を登り始めた。
 一時間なんとか犬塚に置いて行かれないように頑張って歩いてきたが、とうとう体力が底をついてしまった。

「休憩にしよう。けど、あんまりゆっくりはできないからな。水分とってちょっと休んだらまたすぐに出発するぞ」
「わかった」

 傾斜のきつい山道を滑るように下りて犬塚が近くまでやってくる。僕は座り込んだままこくこくと何度も頷いた。五分休憩でも三分休憩でもなんでもありがたい。ここまで休みなく登ってきたせいでもう身体はくたくただ。

 駅の売店で買ったミネラルウォーターで喉を潤す。まだ肌寒い春先とはいえこれだけ歩けば汗もかくし、喉だって渇く。干からびた身体に美味しい水が染みわたり、みずみずしさに生き返るような心地がした。

 憎らしいのは犬塚だ。さすがは練習がキツいことで有名なバレー部の次期エース殿。これくらいの運動量なら屁でもないとばかりに、けろっとした顔で近くに立ち、また腕時計で時間をチェックしている。よほど時間にうるさいタイプなのか、べつに何時に着かねばならないと決まっているわけでもないのに、もう何度もこうして時間を確かめている。

「……写真部はな、バレー部と違って走り込みとか筋トレとかしないんだよ」

 つい言い訳するようにそう言うと、犬塚は時計から顔を上げて苦笑した。

「それにしても体力なさ過ぎないか、保科は。なんの部活だとしても運動はしたほうがいいな。朝のジョギングは気持ちいいからおすすめだぞ」

 ぐうの音も出ず、正論ばかり言う体力バカのクラスメイトを睨みつけるのがやっとだった。運動不足を嫌でも痛感するけど、それでも犬塚の言う通りにするのは癪だ。同じ写真部の三河だって、この山道を登れば途中で音を上げたに違いない。

「保科もバレー部入らないか? 運動不足解消にはもってこいだぞ。背も高いし、いいと思うんだよな」
「……スカウトはありがたいけど、残念ながら体力も運動神経もないんだよ」

 取り留めもない雑談をしながら一休みをする。
 地面に腰を下ろしたまま、これから登る山道の先を見る。気が遠くなりそうなほど過酷な上り坂が続いている。

「諦めて帰るか?」

 ふいに、犬塚が尋ねる声がした。
 リュックサックの肩ベルトを手で握りしめ、一方の手で今来た道をまっすぐに指し示す。長い人差し指が指す方向を見ると、木々に囲まれた下り坂が伸びている。

 犬塚の顔に浮かんだ表情は気遣わしげなものだった。無理をして倒れるのではないか、と僕のことを心配しているのかもしれない。

「──行くに決まってる」

 たしかに疲れたし、途中で行き倒れるのは僕だってごめんだ。気遣いはありがたいけど、でも諦めるつもりはない。休んで、水を飲んで、もう大丈夫だ。

 覚悟とともに両足に力を込めて立ち上がる。驚いた顔をする犬塚を追い越して坂道をのぼっていく。それからしばらくして、犬塚が後ろからついてくるのが足音でわかった。