因習と春一番

 ──翌朝、僕は日も昇りきらないうちに再び大井商店の前にいた。

 早朝の散歩に大井さんを誘うためじゃない。急ぎで必要なものがあってそれを買いにきたわけでもない。

 目的はべつにある。大井さんを叩き起こすのはしのびないけど──と、僕が思っていたとき、ノックする前に店の引き戸が開けられた。

 顔を出した大井さんは寝起きとは思えないほどさっぱりとした表情をしていて、服も着替えていた。早起きらしい。そういえば、初日に朝イチで散歩に出たときも大井さんとばったり会ったのだ。

「春一か。ちょうどよかったわ、ついてこい」

 そう言うなり店の中に引っ込んでしまう。思いきり出鼻をくじかれた僕は、どうしていいかわからないまま恐る恐るついていった。

 中に入ると、床に置かれた大きな段ボールの前に立って大井さんは振り返った。

「重ぉて重ぉてよお持ち上がらんけんな、手伝ってくれるか」
「──あ、はい」

 僕はあわてて段ボールの近くへと向かった。
 せーので呼吸を合わせてふたりで持ち上げ、大井さんに指示されるまま部屋の中へと運んでいく。しばらく前に通販で購入した電化製品なのだが、重くてひとりでは移動させることができずそのままになっていたという。

 目指す場所まで移したあと、僕らは店の前のベンチに移動した。ふたり並んで腰かけたところで、

「──で、なにしにきたんな。こんな朝っぱらから」

 まだ店も開けとらんのに、と薄暗い空をぼんやりと見上げて言う。
 そうだ。ここに来た目的は大井さんの荷物を運ぶ手伝いをするためじゃない。犬塚がまだ寝ているうちにこっそりと家を抜け出して来たのは、大井さんに大事な相談があったからだ。

「──犬塚が……」

 昨晩、大井商店から家に戻ったあと、犬塚が村に戻ると言い出したことを僕は大井さんに話した。自分がまた村に戻れば、護家の人間として再び認められるようになるかもしれない──そう犬塚が考えていることを。
 それを聞いた大井さんが驚いた様子はなかった。こうなることを昨日の時点で予想していたのかもしれない。

「大井さんは、この案どう思いますか? 効果はあると思いますか」
「わからん。こんな状況になったんは初めてやしな、昨日も言うたけどどうなるかほんまに読めんのや。護家の人間が村を出たこともなかったし、戻ってきたこともないけんな」
「……そう、ですよね……」
「用件はそれかいな」

 大井さんに聞かれて、僕は首を横に振った。

 犬塚の案が有効かどうか、犬塚よりも猿千村に住んで長いであろう大井さんから意見を聞いておきたかったのもある。が、それはほんのおまけみたいなものだ。本当に聞きたいことは別にある。

「僕は犬塚と東京に帰りたいんです。この村から犬塚を解放したい」

 犬塚が村に戻る案が有効かどうかに関わらず、僕はそのやり方を実行しないと決めていた。そのやり方で仮に僕が無事に帰れるのだとしても、そのために犬塚が猿千村に戻ってきて住み続けなければならないなら、一緒に東京へ帰ることができないなら採用することはできない。べつのやり方でなければ。

 ──クラスメイトのイケメンが因習村出身だったんだけどどうすればいい?

 この問いに対する答えは、べつにどうもこうもない、じゃない。
 僕が連れ出す、だ。

「もうすぐ殺されるやつが人の心配しよる場合かいな」

 大井さんは呆れ顔をした。
 ……もうすぐ殺されるやつ、というのは、つまり僕のことだ。他人のことを気にする前にまず自分のことを心配しろという大井さんの意見は、もっとも過ぎるくらいにもっともだ。ぐうの音も出ない。

 ──けど、どうしても犬塚を置いて行けない。諦められない。

 犬塚が二年生から急に転校することになったら、バレー部の部員たちは驚くだろうし、悲しむだろう。部員に限らず、クラス内外で仲のよかった面々もショックを受けるだろう。
 僕は犬塚と仲がよかったとは言えないけど、でも、犬塚がいなくなったら寂しいと思うだろう。

「犬塚が村に戻らなくて済むようにしたいんです。この先もずっと。僕はこの村のことが大好きですけど、犬塚は離れたがってる。それに村から離れてもずっと村の人間のままなんて、護家なら一生住み続けないとだめなんて、やっぱりおかしいと思うから」

 犬塚が村に戻らずに済み、これからも東京に住み続けることができるようにしたい。なおかつ、猿千村の人間という烙印のように刻み込まれた制約からも解放したい。

「どうにかできませんか。なにか方法があれば、教えてくれませんか」

 僕は身体ごと大井さんのほうを向いて詰め寄った。

「なんでもいいんです。儀式とか、特別な手続きをするとかして……」

 祈るような思いで大井さんの返事を待つ。
 実際には、待つというほど時間はかからなかった。大井さんの返事は迅速で、そして残酷だった。

「犬塚の孫を村の人間でなくすいうんは、無理やろうな」

 言葉を失くす僕に大井さんは話した。
 村の人間は村の人間で、過去を振り返ってみても例外はひとつとして存在しない不文律ということ。護家の人間であっても例外ではないと今回証明されたこと。村を出た者に与えられる選択肢はふたつしかないこと。春彼岸には毎年村に戻ってくるか、戻らずに死ぬか。そのどちらかしかないこと。

「どうにもならんことなんかな、案外そこらじゅうにある。いっくらでもある。お前がまだ知らんだけでな」

 でも、と食い下がる気力はもうなかった。
 放心状態で固まっていた僕は、それでもいつまでもこうしてはいられないと、ベンチから鈍々と腰を上げた。歩き出そうとしたとき、

「お前にもできることはあるやろ」

 と、大井さんが言った。

「……え?」
「無理やいうたんは、あいつを村の人間でなくすことや。それはできんけど、お前らが東京に帰る方法やったら、あいつが村に出戻る以外のやり方はある」

 振り返ると、ベンチに座ったまま大井さんは淡々と言った。

「かわりにお前が厄介事しょい込むことになるけどな。それでもええんやったら好きにしたらええわ」