「保科」
「──ま、待って」
「充分待っただろ。もう待てない」
「ちょ、っと──……犬塚っ……」
じりじりと迫る犬塚に、じりじりと後退る僕。下がるうちに背中がとうとう壁に突き当たった。くそ、行き止まりだ。犬塚との距離が縮まっていく。近くで見ても羨ましいくらいに精悍な顔立ちだ。三河曰く、同じクラスの佐藤さんは入学式で犬塚に一目惚れしたらしい。ちなみに佐藤さんは女子バレー部に入っていて、僕らの学年の女子のなかでは一番背が高い。
いや、違う。今はそんなことはどうだっていいんだ。それどころじゃない。僕は今この瞬間、危機に直面している。
背後には壁、正面には犬塚。前にも後ろにもに逃げられないなら横に逃げるしかないと、右側へ恐る恐る一歩足を踏み出す。
──けど、逃げる前に犬塚の腕が行く手を阻むように視界の前に現れた。僕の真後ろにある壁に左手をついた犬塚のせいで逃げられなくなる。
その犬塚の右手にあるのは──バッタ。
茶色い身体をしたそのバッタは、犬塚の手から大きく跳んで縁側へと着地した。そこからさらにジャンプして、庭の草むらのなかへと姿を隠してしまう。
あーあ、という犬塚の残念そうなため息が響く。
対する僕はという、ほっとして安堵のため息が口から零れた。
「保科がいつまでも逃げ回ってるせいで飛んでいっただろ。せっかくつかまえたのに」
犬塚は不満もあらわにそう言って僕をじろりと見た。
──バッタの離脱により、犬塚との攻防はあっけなく幕を下ろした。
事の発端は、犬塚が庭でバッタをつかまえてきたことだった。
ふたりで朝食を食べたあと、座敷で一息ついていたときのことだ。姿を消していた犬塚がなにかを手に戻ってきたと思えば、庭にバッタがいたからつかまえてきたという。
小さい頃から今に至るまで、僕は虫捕りをして遊んだ記憶がない。両親がふたりとも虫が苦手だったのも理由のひとつだろう。都会育ちの現代っ子なら一度も虫捕りをしたことがない、という人も少なくないはずだ。
虫捕り網も虫かごもないのに器用なものだと感心したのも束の間、ちょっと持ってみないかと犬塚が言い出した。そうして逃げ回っているうちに壁際に追いつめられてしまい、絶体絶命の状況に陥ったのだ。
「蝶とかバッタなら大丈夫って保科が言ったんだろ」
「いや、その、あのときは大丈夫だと思ったんだけど、いざ触るとなるとやっぱ……抵抗が……」
もごもごと言い訳がましく言って目を逸らす。
初日に目にした巨大なクモに比べればサイズも小さい。だから触れるような気がしたけど、それじゃあはいどうぞと差し出されると、なかなか踏ん切りがつかないものだ。
「春彼岸の間に虫に慣れるって言ってたけど、克服できるか怪しくなってきたな」
「いやいや、まだ三日目だし? まだ四日もあるし?」
猿千村に七日間滞在する間に虫に慣れる、という目標は、三日目の時点ではまだ達成できる目途は立っていない。まったく。少しも。悔しいけど犬塚の言う通りだ。
猶予はあと四日間ある。今は残念ながら視界に入れるのも嫌な有り様だけど、四日のうちに克服できる──と信じてやるしかない。嫌だけど。
──そんなわけで、犬塚との共同生活が幕を開けた。
期間限定の田舎ぐらしは、今日で三日目。
家族以外の誰かとこんなに長い間ひとつ屋根の下で寝食をともにするなんてこれが初めてだ。最初はどうなることかと思ったけど、これが案外うまくいっている──大小さまざまな虫がしょっちゅう部屋に出没することを除けば、だけど。
ふたりで住むには持て余してしまうくらいに犬塚の生家は広く、部屋数も多いので、ふたりそれぞれが自分の部屋を決めて私室として使っている。ただ、日中は一階の庭に面した広い座敷に集まって過ごすことが多い。
庭の草抜きをすることもあれば、部屋の掃除をしてみたり、畳にごろごろと寝転がって昼寝をすることもある。もちろん、カメラを持って外に行くことも。遠くには行かないことと、犬塚が同行することが条件で村の撮影をしてもいいというお許しが出たのだ。

