因習と春一番


 ルールはふたつある、と犬塚は言った。

「ルールその一。春彼岸の間、村の人間は村から出てはいけない」

 顔の前で人差し指を一本立てる。それからピースサインをするみたいに中指も立てる。僕は犬塚の長い二本の指を見つめた。

「ルールその二。春彼岸の間、村の外の人間は村に立ち入ってはいけない」

 固唾をのんで聞いていた僕は、それきり口を噤む犬塚に拍子抜けした。視線で続きを促すけど、犬塚は「それだけだ」と言って首を振るだけだった。

「……え、それだけ?」
「あぁ」
「このふたつだけっす」

 複雑なルールじゃない。複雑どころかシンプル過ぎるくらいシンプルだ。
 因習というからには、なにかややこしい儀式や血なまぐさい祭りでも行うのかと思いきや、まったくそんなことはなかった。要するに出入りできないってことだ。因習というにはなんだか味も素っ気もないというか、つまらないというか。

「イメージは封鎖っすね。ロックダウンとか」

 犬塚の説明を補足するようにショーマは言った。

「春彼岸の間、この村は封鎖されるって考えてほしいっす。封鎖されるってことは、村の外には出られんし、村の外からも入ってこれんってことっす」
「封鎖か……」
「ほなけん春彼岸が近づいてくると、村の人たちは昼間は皆集会所に集まって過ごすんすよ。下手にひとりでうろついて、村の外にうっかり出ちゃったりしたら一大事っすから。子どもとかじいちゃんばあちゃんなんかは村の境界もよぉわかっとらんけん」
「あぁ、それで昨日も今日も全然人がいなかったのか」
「俺みたいに集会所行くんめんどいわーって行かんやつもおるし、大井のじいちゃんみたいにマイペースにひとりで過ごす人もおるけど」

 ふむ、ここまでは一旦理解した。
 犬塚が話したふたつのルールに則って、村のひとたちは春彼岸の七日間を過ごしている。猿千村の出身である犬塚も、現在進行形で猿千村に住んでいるショーマももちろんそのルールを知っているわけだ。

 それにしても不思議なルールだ。目的はよくわからないけど、郷に入っては郷に従えというし、どんなに不思議に思えても従うほかないんだろう。

「そのルールがちゃんと守られてるかどうかって、誰が確認してるんだ? 村長さんとか? 村役場で働いてる人とか?」

 マンションの管理組合が定めたゴミ出しのルールのようなものをイメージしつつ言う。たとえば僕のマンションでゴミ出しのルールを守らない人がいたら、まず管理組合に連絡をして、エントランスの掲示板に注意を促す張り紙が貼られたりする。
 もしくは、ルールを破っているところを見かけたら、直接注意する人もいるだろう。猿千村にマンションはないけど、似たようなルールはどこにだってあるものだ。

 ──春の息吹がするのどかで暖かな猿千村に来て、僕はすっかり癒されていた。七日間ここにいなければならないという事態はもちろん予想外だったし、驚きはしたけど、実を言うとちょっとラッキーだなんて思っていた。ちょっとしたバカンス気分になっていた。
 両親のことはけっして嫌いじゃないけど、子どもだけで家を離れて過ごす非日常体験に、密かにわくわくもしていた。修学旅行とか林間学校みたいだし。

 そんな僕に頭から冷や水をかけるみたいに、違う、と犬塚は答えた。

「猿千村に昔から棲んでいる【なにか】が確かめる」

【なにか】。
 急に得体の知れないものが話の中に入り込んできて、僕はどうしていいかわからなくなった。部屋の中に急にクモが出たときみたいに。

 困惑しながら助けを求めるように犬塚の横のショーマのほうを見てみても、さっきみたいに別の言葉で言い換えてくれたり、補足の説明を付け加えてくれたりすることもない。ただちょっと困ったような顔で気まずそうに笑っているだけだった。

「そもそも役場の人間が決めたルールってわけじゃないんだ。行政は関係ない。【なにか】と村の人間の間で取り決めた、古いしきたりみたいなものなんだ」

 だから、因習。
 マンションの管理組合のゴミ出しルールなんかとは、どうもまったく毛色の違うものだということがわかってきた。

「え、【なにか】って……なに?」
「わからないから【なにか】なんだ。村の人は皆そう呼んでる」

 いつのまにか、メガネがずいぶんずり落ちていた。小鼻のあたりまで下がったメガネを押し上げて、犬塚の顔を正面から見る。犬塚は真剣だ。体育の授業でやったバレーの試合のときみたいに。

 ずっと息を止めていたことに気づいて、遅れて深呼吸をする。座卓の木目を見下ろしながら、ようやく酸素が回り始めた頭で考える。
 こんな突拍子もない話をされたらふつうは疑うのに、犬塚の話を不思議と信じていた。手の込んだサプライズでもたちの悪い冗談でもない。そのほうがましだったけど。裏庭でふたりが話を合わせて僕に一杯食わそうとしていたなら、そのほうがよかったけど。

 犬塚は僕を怖がらせようとするでもなく、ただただ現実の話をしている。犬塚やショーマにとって、これはマンションの管理組合のゴミ出しルールの話なんだ。

「……ルールを守らなかったらどうなる?」

 少し目を逸らしながら僕が聞くと、犬塚は一息に言った。

「守らなかった人の前には【なにか】が現われて、殺されて死ぬ」

 その言葉に引き戻されるみたいに犬塚の目を見る。
 教室で、僕に猿千村には行かないほうがいいと言ったときも、犬塚はやっぱりこんな顔をしていた。真剣そのもので、なりふり構わず、有無を言わさない態度だった。

「……ってことは──……ん? ……え? あれ……あ?」

 やばいんじゃないか、という思いが過る。

 続けざまに、ついさきほど犬塚とショーマがふたりで話していたときの言葉が過る。

 ──それより、やばないすか? 保科さん、ここにおって大丈夫なんすか。

 あのときはどういう意味なのかさっぱりわからなかったけど、猿千村のルールを聞いた今となってはなにをもってショーマが「やばないすか」と言ったのかが理解できる。

 今日は三月十七日。春彼岸の一日目だ。
 そして、ここは猿千村の中。
 さらに、僕は村の人間ではない。

 そう、僕は村のルールその二──「春彼岸の間、村の外の人間は村に立ち入ってはいけない」──に抵触しているのだ。
 ルールを呑み込むのに必死で、今の今まで気づかなかったけど。僕はよそ者なのだ。
 やばないすか? というショーマの質問への答えは、間違いなくやばい、だ。やば過ぎる。にわかには信じがたいその不可思議な習わしが本当の話なのだとしたら、僕は【なにか】に祟られて死ぬことになる。

 自分の置かれた状況にそこでようやくに気がつく。その瞬間、頭のてっぺんから足の先までさっと血の気が引いていくのを感じたが、ふと思い出す。あのとき犬塚はショーマの問いかけにどう答えていたっけ。やばいとは言わずに、たしか──。