あの日を忘れない


 それから随分経って、ようやく俺の涙は止まった。何であんなに泣けたのか、不思議だ。というか、さっき親友になったばかりの人を相手に、こんなに泣くなんて、俺はバカか? 何だか恥ずかしくなってきた。オレは足元に目をやると、

「ごめん……」

 頬が熱くなるのを感じた。今この時から、俺は陽平(ようへい)とどうやって接していくつもりなんだろう。さっきのボロ泣きした自分を、消しゴムで消したい。

 そんな出来もしないことを考えていたら、「え?」と、驚いたような声で言われて、思わず顔を上げて陽平を見た。目を丸くして、俺を見ていた。やっぱり驚いていたのか。

 陽平は俺の頭を撫でるのをやめて、固まっていた。そんなに驚くようなことを口にした記憶はないんだが。

「陽平。何を驚いてんの?」

 思い切って訊いてみた。陽平は、「驚くに決まってるだろ?」と、低く言うと、

「何で謝った? 謝られること、俺はされてないぞ? それなのに謝られたから驚いた。わかったか?」
「わかったような、わからないような……」

 いきなり泣き出して迷惑をかけたのに、何故謝るのか訊かれるとは思ってもみなかった。俺は、瞬きを繰り返した後、

「ごめん。やっぱり陽平の言ったこと、よく意味がわからなかった。俺、迷惑かけたと思ったから謝ったんだけど」
「迷惑? 何のことだ? 俺の方こそ、慎也(しんや)の言ってることがわかんないぞ?」

 俺は黙って、今言われた言葉の意味を考えた。そして、わかった。

「まさか、迷惑だと思ってない? そんなわけ、ないよな?」

 自分の言ったことに、確信が持てないけど、そうとしか取れないような発言を、陽平はした。俺の勘違いでなければ、だけど。

 陽平は俺をじっと見ていたが、急にハーッと大きく息を吐き出し、俺の頭をげんこつで軽く叩いた。口を尖らせた陽平。これは、拗ねているんだろうか。そんな表情を見せられて、胸が変にドキドキとしてしまった。何だ、これ。

「慎也。迷惑って、何のことだ? 俺は、慎也に迷惑かけられたなんて、少しも思ってないのに。迷惑かけちゃった、とか思われた上に謝られるなんて、俺はすごく残念だ。俺は、慎也の親友なのに」
「親友……」
「親友じゃないとか言うなよ。さっき、そのことは解決したよな?」

 俺は陽平の親友になると、確かに宣言した。親友じゃないとは言わない。ただ、親友との距離感みたいなものが、よくわからないだけだ。俺は陽平を見ながら、訊いた。

「親友って、どんなことが許される関係? さっきのあれは、許容範囲ってこと? 親友ならやってもいいこと?」

 本当にわからなくて、頭が混乱していた。陽平は拗ねるような顔をやめて、ニカッと笑ってくれた。

「俺は、慎也に泣かれて嬉しかった。俺に本音をぶつけてくれた感じがしてさ。それなのに、慎也は謝るんだな。俺は喜んでるのにさ。嬉しかったのにさ。じゃあ、慎也は俺が泣き出したら、どう感じるんだよ。うざいから謝れよって思うのか? それは、悲しいぞ。だからさ、気にするな。それが、親友の距離感だ。わかったか?」

 誰でもよかったわけではないと、俺も思う。陽平の前だから泣けたんだろう。そう思う。それが親友の距離感?

 俺は頷くと、

「わかった気がする。じゃあさ、陽平。さっきはありがとう。すごく、助かった」

 本当の気持ちが口から出てきた。隠さなくたっていい。本音を口にしても大丈夫。陽平なら平気だ。俺は思わず微笑んでしまった。すると、陽平が俺から目をそらし、呟くように、

「慎也、おまえ……その笑顔は反則だぞ」
「反則……って、何が?」
「反則は反則だ。わかれよ」
「わからないけど」

 しばらく同じようなやりとりを繰り返していた。

 と、その時だった。俺の正面に、懐かしくもない人が立った。背中に冷たいものが流れる感覚。顔が強張っていくのを、どうにも出来なかった。陽平に右手を握られて、自分の手が小刻みに震えていたと知った。

 その人は、ニヤリとして、俺たちに近付いてきた。そうされて、思わず後ずさりしてしまった。逃げ出したい。そんな感情に支配されて俺は、手を握ってくれている陽平を見た。陽平の顔からは笑みが消えていた。俺に何かあったと察してくれたんだろうと思う。

 その人がさらに距離を縮めてきた時、陽平が俺をかばうように前に立ってくれた。その人は陽平に、「のけよ」と命令口調で言った。でも、陽平はのかなかった。その人に手を伸ばしていったと思ったら、肩をポンと叩いた。何それ、と思ったが、何も言えなかった。ただ、この成り行きを見守るしかない。

「おい、中野(なかの)

 その声だけで、俺は動けなくなる。やめろ。声なんか掛けてくるな。そう言えたら楽なんだろうなと思う。でも、出来ないのが俺だ。俺はその人を見ず、握られた右手を見つめた。親友の手。情けないけど、今はこうして守っていてほしいと、心の底から願った。

 不機嫌丸出しの表情で陽平を睨むようにして見ているその人に、陽平は、

「慎也のお友達ですか?」

 明るい声で訊いたのだった。