俺の同居人は普通じゃない


 大きな足音を立てながら洗面所に向かった。蛇口を全開にし、乱暴に顔を洗う。
(なんだよ、あのしっぽ……。耳だって、あんなにはっきりと……!)
 
 バシャバシャと水を跳ね飛ばし、顔を上げる。鏡越しに後ろに立っている宵と目が合った。

 銀色の髪から突き出した三角形の耳。
 腰元でゆらりと揺れる、大きな尻尾。
 それは、たしかにそこに存在していた。
 
「……何してんの」
「なおや、きゅうにいなくなるから」

 宵は、耳をペコっと倒し、少しだけ寂しそうに俺を見つめる。その仕草が、あまりにも動物じみていて、俺は言葉を失った。
 
「朝からにぎやかねぇ」
 そこへ、おばあちゃんがひょっこりと顔を出した。
 ぜ ん ぜ ん 動揺していない。
 
「お、おばあちゃん! しっぽ! これ、見えてる?」
「ええ、見えてるわよ?」
「なんでそんなに平気なの?」

 おばあちゃんはクスッと楽しげに笑った。
「たまに、出るわよ」
「たまに!?」

「昨日もしっぽが出てて、かわいかったわぁ。ふわふわで」
「なんもかわいくなんてない! 普通もっと驚かない?」

 必死に詰め寄る俺をいなすように、おばあちゃんは肩をすくめて言った。

「いずれ毎日見ることになるんだから、慣れときなさい」
「いずれ毎日!? それ決定事項? なんで――」

 問い詰めようとした俺の袖を、宵がピコピコと耳を動かしながら引っ張った。

「なおや、いや……?」
「いやとかじゃなくて! まず説明して!」

「なおやが、ぼくをみつけたから」
「拾ったのはおばあちゃん!」

 おばあちゃんはくすくす笑うだけ。
 宵は耳を倒して俺を見上げる。
 
 もう、ほんとに無理……。
 俺の常識が、朝から音を立てて崩れていく。

 ** 
 
 朝のやり取りで大幅に時間をロスした。
 支度をして家を飛び出した瞬間、冷たい冬の風が顔に刺さった。
 朝陽がまぶしいとか、通学路が静かだとか、そんな些細な日常の細かいことは、いまは全部吹っ飛んでいる。
 
 頭の中でずっと回ってるのはただ一つ。

 尻尾。

 あれ絶対幻覚じゃない。
 たしかに触った。モフった。そして巻きつかれた。

 それから、耳。
 鏡の中の宵には、獣のような耳がくっきりと生えていた。
 犬か、狐か。いや、あの立ち姿はもう、狐そのものだ。

「……いや、無理」
 
 思わず声が漏れた。
 完全にキャパオーバー。
 独り言をこぼしながら歩く俺を、通りすがりのサラリーマンが不審者を見るような目で避けていく。
 いや、分かってる。今の俺は完全に不審者だから仕方がない。

 大学までの道のりも、電車に揺られている時間も、講義の教授の声も。
 すべてが空っぽのまま通り過ぎていく。
 ノート開けばペンが動いた跡はあるが、何を書いたかさっぱり記憶がない。
 たぶん身体は物理的には授業受けていたのだろうけど、俺の脳は家に置いてきてしまったようだ。

 宵って、狐なの?
 いや狐って言葉軽くない?
 耳と尻尾生えてる男。そんなの、妖怪かファンタジーの世界の住人じゃん。
 外国人どころか、人間じゃない説!?

 でも、宵は喋るし、ご飯も食べるし、人間サイズだし……。
 なのに、なぜ当たり前のように俺の布団にいたの?
 というか、俺のそばにいると尻尾出るって何?

(何、性感帯?)

「ちがうわ!!」

 あ、声出ちゃった。
 一番後ろの席でよかった。

 講義終わる頃には、さらに謎が増えていた。
 不安、疑問、そして――。
 
 なにより、胸がじんわり痛むのが、一番の恐怖だった。

 **
 
 一日中考え事をして、ふらふらになりながら帰宅した。
 玄関を開けた瞬間、ふわりといい匂いがした。
 味噌汁に、これは……しょうが焼きだろうか。
 あまりにも『普通』の、家庭的な匂い。

「ただいま……」
「おかえりなさーい」

 台所へ向かうと、おばあちゃんが振り返って笑顔をくれた。その見慣れた顔を見て、ようやくほっとできた気がした。

「なおや、おかえり!」
 
 宵も小走りで寄ってくる。その姿を見てすぐに思い出した。今朝見た、耳と尻尾の存在を。
 
「おばあちゃん!」
「なに?」
「今日の朝の……あれ……ちゃんと説明してくれない?」

 おばあちゃんは味噌汁の味見をしながら、落ち着いた声で返してきた。
 
「何を説明してほしいの?」
「何って!!」

 思わず声が大きくなる。
「宵の尻尾! 耳! あれ何!? 何者なのあの人!
 というか、そもそも人……じゃないよね?」

 おばあちゃんは鍋の蓋を軽く閉じて、ゆっくりと俺を見た。
「尚弥」
「……うん」

「変じゃなかったでしょ?」
「めちゃくちゃ変だよ?」
 
「そうかしら?」
 おばあちゃんは、いたずらっぽく笑った。
 
「宵くんが、宵くんであるだけよ」
「全然求めてる答えと違うんだけど」

「いいのよ、今はそれで」
「よくないから聞いてんのに!」

 そのやり取りを黙って聞いてた宵が、おずおずと声を出す。
 
「なおや……」
「……なんだよ」

 宵は少しだけ困ったように、だけどまっすぐ俺だけを見つめた。
 
「……ぼくね」
「うん」
「なおやに、くっついてると」
「……」
「しっぽ、でちゃうみたい」
「情報量少なっ!」

 耐えかねたように、おばあちゃんが吹き出した。
「ほら、簡単でしょ?」
「簡単? じゃない! 全然納得できない」

 宵は自分の耳の後ろを指先で触りながら、照れたように視線を落とした。
 
「ぼく、へんかな?」
「……変とかの問題じゃなくて。っていうか、自分の意思で出てるわけじゃないの?」

 宵の表情が、急に真剣なものになる。
「なおや、さわると、あんしんする。だから、出る」
 
 そのあまりにも純粋な言葉を聞いて、全く意味がわからないのに、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。

 おばあちゃんが、包み込むような柔らかい声で続ける。
「宵くんね、尚弥の近くにいると落ち着くのよね。身体が覚えてるんだと思うわ」
 
「身体って何? 遺伝子? 記憶? 俺と宵、なんかあったの?」

 おばあちゃんは「ふふっ」と笑って流す。
「尚弥、答えはね」

 ――おばあちゃんの声が、ゆっくり低く下がっていく。
 
「そのうち、宵くん自身が教えてくれるわよ」

 意味深。
 めちゃくちゃ全部意味深だ。
 しかも答えゼロに近いじゃん。

 宵は俺の袖をちょんと掴んで、不安げに覗き込んできた。
 
「なおや、こわい……?」
「……それは、こわいよ」
「だいじょうぶ。ぼく、ここにいるから」

 優しい声でそう言いながら、その指先が俺の頬に触れた瞬間――

(……うわ)

 宵の耳がふわっと揺れた。
 そして宵の背後に、またあの白銀の尻尾が現れるのが見えた。

 俺の日常はもう完全に壊れてしまっている。
 壊れているのに――

 胸の疼きだけが、いつも通りで。
 それがなんだか逆に落ち着いた気がした。